その474 『葵の女―川田順自叙伝』(1)
最近、私の中で、谷崎文学の特に『蘆刈』以降の作品に一番影響した人物として川田順が浮かんできた。そこで、以前から気になっていた『葵の女―川田順自叙伝』をようやく入手して読んだ。
読み始めてすぐに興奮。特に『春琴抄』や『幼少時代』『夢の浮橋』については、その元ネタの1つとして貴重な資料と思われる。さらに、関西移住後だけではなく、実は大正初期の一連の作品(初子、お須賀物ともいうべき作品群)もこの人の影響を受けていたのではないかと思われる。それについてはからくりがありそうなので後で書く。
とりあえず各作品への影響についてだが、とにかく大正初期と『蘆刈』以降はほとんど影響していると言っていいと思う。その中で、先に挙げた3作品について特に書いてみたいと思う。
『春琴抄』
川田順の母について、川田順の父である川田甕江の世話になる前は随分と苦労したらしいということで、そのことを伯母に聞いたところ、次のような問答になった。
「言はばあなたのお祖母さんが苦勞させたやうなものなんです。かう言つてはすみませんが、娘の器量のいいのが自慢で、嫁入先へ行つてはずゐぶん無理を並べたと聞いてゐます。はじめは藏前の有名な太物問屋、さんさくと云ふ家へかたづけたんですが、いくらも經たないうちに取戻して、今度は芝の大きなお風呂屋さんへ嫁にやつたんです」「風呂やといふと錢湯のことですか? ひどいですな」「さうぢやないのよ。順さんも江戸のことがわからなくりましたね。風呂屋といつたつて同業の元締めで、それはたいした身代のものなんでしたよ。それを又もお祖母さんが不縁にして、あなたのお父さまのお世話になるやうな筋道になつたんです」「それぢやボクの母は人形みたいなものですね」「さやうさ。本當におとなしい人で、右といへば右、左といへば左、半日でも一日でも、いはれた方を向いて坐ってる人でしたよ。可哀さうなものさ。さんさくの奥さんで収まつてゐたら、どんなに仕合せだつたらうと思ひますね」
これには自分の出生を否定されたようで川田順は面白くなかったようだが、帰宅後書庫の抽斗から罫紙に書かれた一篇の漢文を読み返す。それは川田順の父の依頼によつて依田學海という人が起草したもので「川田少房本多氏墓碣銘」と題してある。その一部。
「姫父曰清助。母大野氏。世以商出入柳川侯邸。購辨市場。家頗富。然性好靜不喜豪華。初帰一富商。其人極俗。姫怏怏不樂。遂求離別。時父資産落。利其容色。欲更嫁大腹。姫不肯曰。寧爲名士妾。不願爲俗人妻。乃帰甕江。姫清痩而白皙。素粧澹泊」「素拙於治生。偶有所得。父母兄弟隨而持去。不毫吝惜」「明治廿六年三月一日歿。享年三十七。越三日。葬東京吉祥寺側。乃川田氏之塋域也。姫以可瞑矣」
伯母の証言と墓碣銘に書いてあることでは話が全く異なる。
さらに、伯母の証言によれば猛烈母に苦しめられた可哀想な娘であること(症例としては「一卵性母娘」)、亡くなった年齢が春琴がお湯をかけられた時と同じことから、『春琴抄』の母子の最有力モデルと思われる。「川田少房本多氏墓碣銘」はそのまま「鵙屋春琴伝」の元と考えていいだろう(特に文字を大きくした部分)。
ただし、川田順が伯母の証言を聞いたのは昭和14年のこと。『春琴抄』はそれより前に書かれているので、記述と証言の食い違いについてはまだ発生していなかった。ただ、記述の方を見ただけでも、「んー」と思うところはあるので、その信頼性については何か思うところがあったかもしれない(その証言が記述の一部分の正しさを証明すると考えることもできるけれども)。
一卵性母娘の症例としては、『春琴抄』を書く際に参考にしたと思われるスタンダール著『カストロの尼』が思い浮かぶ。さらに、『春琴抄』執筆前後からの観察の対象として、谷崎のお気に入りの女優である高峰秀子母娘がいたのではないかと想像する(高峰秀子著『わたしの渡世日記』を読むと、彼女が明らかに自らを春琴と重ねているのがわかる)。
さらに、もう一人のモデルとして、川田順の長姉に「琴子」さんという方がいらっしゃる。この人の夫は三郊杉山令吉という人だそうだが、この方は「お琴、お琴」と妻を大切にしながら、結婚前に秘密の女性があって、子供もいたそうだ。このあたりも『春琴抄』に埋め込まれているだろう。
ここでもう1つ、もっと重大なことに気づいた。
川田順の幼少期、お竹さんという方が川田順とその妹の面倒を見ていたそうだが、この方のお父様の亡くなり方が、谷崎の『幼少時代』の伯父の亡くなり方と酷似している。次に引用してみる。
お竹の父は或る年の六月の夜に千住大橋から落ちて溺死した。過失か、他殺かわからなかった。(中略)商賣は實直な兄が繼いでますます繁昌したけれども、(後略)
実は、この件については、父に失敗の責任を取らせることになった従兄の気持ちを考えると前々から不自然な感じを持っていたところに、谷崎の末弟である終平さんが『懐しき人々』で妙な書き方をしていることに最近気づいた。
それとなく、私の親父と別れの盃を交した伯父は、その夜伊豆行の船に乗って入水した。(次兄は三崎通いの船だと書いているが、訊そうにも、もう知っている人はいない。)長兄が小田原の旅館で仕事をしていてたまたま立ち会う事が出来たというが、足一本しか上らなかったが、それが佐野屋の足袋をはいていて、特別な小鉤だったので証拠となったと子供の折聞いたが本当だろうか。
その伯父は妻を非常に大切にしていたけれども、やはり愛人がいて、その娘も一人いたそうだ。大正4年8月ということで、一連のお須賀物が終わる頃にあたる。谷崎と川田順が初めて直接対面したのは昭和5年だったようだが(出典:高木治江著『谷崎家の思い出』。交友関係からみて、明治の末から大正初めには会っていてもおかしくないのだけれども。)早川の「かめや」に隠れ住んで作品を書いた時には、間接的な影響があったと思われる。
この事件も『春琴抄』に深く埋め込まれているように思う。大塩平八郎生存説や『カストロの尼』の恋人が生きていた件と絡めて。晩年に足を悪くして寝たきりになった伯母は明治34年に亡くなっている。もう隠居して、信用のない息子の代わりに弟を置いて遠隔指導することにしたと思うのは考えすぎか。眼ならぬ足を捧げ物にして。
『春琴抄』が長くなったので、他の作品についてはまた次の記事で書きたい。








