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2010 年 5 月 29 日

その448 〔仮説〕『蘆刈』・『夢の浮橋』系図

カテゴリー: 小説・作家 — みよこ @ 4:19 PM

『蘆刈』・『夢の浮橋』系図前回、加藤医師と乳母との関係を書くと予告したが、『蘆刈』『夢の浮橋』通しての系図を作ってみた。見るとエエッと思うかもしれないが、これにはもちろん理由がある。

実は、この系図をいったん作った後に、注文していた高見澤たか子著『金箔の港―コレクター池長孟の生涯』が届いたのだが、そこには『蘆刈』『夢の浮橋』通してのモデルがしっかりと登場していた。

この、池長孟(はじめ)という人が『蘆刈』の「葦間の男」のモデルであり、糺や加藤医師のモデルなのだが、乳母のモデル、茅渟のモデル(すっごい美人)、経子の嫁としてのモデル、姑としてのモデルもはっきりとわかる。もちろん『夢の浮橋』ほど1人にいろいろな役割を当てはめて複雑になっているわけではないが、続柄はある程度踏襲されている。
この本はまだざっと読んだ程度だが、『蘆刈』も『夢の浮橋』も、池長孟(はじめ)という、谷崎にとってはまるで自分の影法師のように親近感を覚えたであろう人の人生を素材に、谷崎自身の人生と重ね合わせて作られた小説だということは間違いないだろう(『蘆刈』でお遊様が産み、亡くなった子供の名前が一(はじめ)、『夢の浮橋』で生まれる子供の名前が武。2人が並んで映っている写真を見ると、身長は随分違うのだがまるで兄弟のようだ。特に谷崎はその表情から池長氏になりきっているようにも見える。)。
この本と出会った時期もちょうど良かったかもしれない。もう少し前だったら、『蘆刈』『夢の浮橋』にこれほどこの池長孟という人の人生が投影されていることに、あるいは気付かなかったかもしれない。

ここで、系図を見ながら各登場人物について説明を加えていきたいと思う。系図は『夢の浮橋』をベースに『蘆刈』の登場人物を加えて作っている(引用文:谷崎潤一郎文庫, 六興出版, 昭和53年)。

○糺の祖母(お遊様)

推定:根引きの松の文様のある遺愛の琴はお遊様のもの。五三の桐は小曾部家の紋。

「お母ちゃん、写真嫌いやったさかいな、一人で撮ったんこれ一枚しかないのやそうな。うちい来てからお父ちゃんと撮ったんが一二枚あるけど、写真屋はんがけったいな直し方してるさかいに、どだいいやらしい顔になってるさかい、お母ちゃんその写真見るの大嫌いやったんや。この写真はな、娘はんの時のやさかい、お前が覚えている顔と違てるかも知れんけど、娘はんの時はほんまにこんな顔してはったんやぜ」
父にそう云われると、なるほどどこやらに面影を伝えてはいるものの、到底忘れ去った母の姿を生き生きと思い出させるものではなかった。

ここで父が「お母ちゃん」「お父ちゃん」と言っているのは、父の「お母ちゃん」であり「お父ちゃん」ということになる。
23歳で亡くなった人の16、7の時の写真が全体に薄くぼやけているのは、いかにも奇異であり、どこやらに面影を伝えているのは、お遊様が茅渟や経子の叔母だからと思われる。

○乳母お兼どん(静)

推定:お遊様の死後、糺の父を養育するために乙訓家に奉公に出る。糺の父にとっては叔母。『蘆刈』の時点では、もしかしたらお遊様の身代わりに宮津にお嫁に行った可能性もある。

親戚はほとんど一人も見えず、母方の人さえ来てくれなかった。来たのは梶川一家の縁につながる人々だけであった。仲人役を引き受けてくれたのは医師の加藤氏夫妻であった。長年観世流の稽古で喉を鍛えていた加藤氏は、この時とばかり高砂の一くさりを謡ってくれたが、その朗々たる音声を私は上の空で聞いた。

長年鍛えていた喉は、『蘆刈』の葦間の男に通じる。
このシーンで、乳母が来たのかどうか直接の表現がないことに注目する。系図に示す通り、乳母は梶川の縁につながる人物なので、それだけでも良いのだが、あえて「加藤氏夫妻」と記しているのはなぜか。そこが気になり、これは糺の場合と同じなのではないかということで、このようにさせていただいた。

ということで、糺の父に対しては乳母から「妻」、加藤氏に対しては義母から妻になったということになる。

「そういうことなら、もう一度ちっさいぼんちゃんのお相手をさせていただきましょう」と、お神輿を上げて出て来てくれた。

『蘆刈』では、慎之助が息子に対して「坊よ」と呼びかけていた。ちっさいぼんちゃんという表現は、自分のところに養子に来た葦間の男(加藤医師)と同じような立場であることを示しているように思う。

○糺の父

推定:乳母を事実上の妻とし、茅渟、経子とは夫婦の関係を持たず、ひたすらお遊様と重ねていたと思われる。加藤医師は双子の兄。

十二畳の間には夫婦の寝床がすでに延べてあるけれども、父は合歓亭へでも行っているらしく、まだ床に就いていない。母も寝間着姿ではなく、普段着のまま帯も解かずに横になって、

なお、父は糺が今後2人の母をどのように混同していくか知っており、糺に対して断言するように言っている。これは、父自身も同じ体験をしていたことを示しているように思う。

父はこのところ健康がすぐれぬらしく、匂欄の間に支那製の紅い張り子の枕を持ち出して昼寝をしたり、微熱でもあるのか検温器を挟んでいたりした。

この枕は、谷崎が岡本の家を出るときに池長氏に買い取ってもらった寝台を表していると思われる。先妻との想い出につながるのだろうが、それが張り子になっているということは、この先妻との間に夫婦関係がなかったことを暗示しているように思う。
なお、この寝台については、高木治江著『谷崎家の思い出』にも次のような記述がある。

こんなこともあったっけ。それも月の美しい晩、支那間で妹尾さんと話し込んでいた先生は、備え付けの三方立派な彫刻のされた支那寝台の前のカーテンをした方が落ちつくと言い出した。夕食後だったが、すぐさま三人で神戸元町へ古い布地を探しに出かけることになった。いつも行きつけの浜側の古道具屋に古着類(ふるてもん)がちょいちょいあるので、先ずそこへ行ったが、手ごろなものがなかったので早々に引き上げて、その足で大阪は八幡筋の古着(ふるて)屋へ直行した。ちょうど江戸時代の打掛けがあったが、先生は八重垣姫等が着る緋縮緬に刺繍のした赤姫もんがいいと言い、妹尾さんと私は、政岡や相模のような片はずしの着る納戸縮緬に渋い刺繍のある老(ふけ)もんの方があの寝台にしっくりすると主張し、先生はどうも赤い方に魅力があったが私共も譲らなかったので、両方とも買って帰った。

丁未子さんと松子さんを打掛にたとえているようなエピソードだが、この後岡本の家に泊まって寝台を使ったのは丁未子さんと思われるので、谷崎は、枕に例えた寝台を持ち出すことで茅渟に先妻としての丁未子夫人を重ねたのかもしれない。

なお、上記の前には、次のような記述もある。

九月になれば、鮎子さんの学校のために佐藤家が帰ってこられるだろうから、それまでに引き上げたいと思っている月の美しい夜のこと、挨拶に行こうと二階の書斎を見上げると真暗である。そんなはずはない今の今まで"由縁(ゆかり)の月" が手馴れた撥捌きで聞こえていたのに、そういえば、灯はつかないままであったような気もする。気分でも悪くなったのではなかろうかと気にかかるままに、階段を抜き足さし足で上り、書斎の襖を細目にあけて覗くと、衣桁に赤姫の着る打掛けをかけて几帳のようにし、その前に、黒塗りに金蒔絵の乱れ籠を置き、紫の衣を両の手に捧げ持って、皓々と射し込む月の光を浴びながら、あたかも菅原道真の" 配所の月" さながらの場面である。月があまり美しいのと一人取り残されたセンチメンタリズムが思わず主人公の道真になって、遙かに皇居を拝す気持ちに先生を引きずり込んだのだろう。先生にはこんなロマンチックな一面があった。そういえば、伯母に当る方が永年宮仕えをしていて、下る時に拝領の紫の衣をそのまま先生が所望してもらい受け大切にしていると女中が話して聞かしてくれたことがあったが、捧げ持っているのはおそらくその御衣だろう。

この伯母は、もしかしたら母の2番目の姉のお半さんをイメージしているのだろうが、果たして宮仕えという事実はあったのかどうかはわからない。ただ、このシーンが『蘆刈』執筆のためであることは疑うべくもない。それはそのまま『夢の浮橋』にも通じるのである。

○茅渟

推定:経子の姉。店がまだ潰れないうちに乙訓家に嫁ぐ。

私を生んでくれた母は私が数え年六つの秋、あの玄関の橡の葉が散り初める頃、私の弟か妹にあたる胎児を宿しつつ、子癇という病気に罹って二十三歳で死んだ。そして二年余りを過ぎて第二の母を迎えたからである

生んでくれたとはっきり書かれている。糺は嘘を書かないとは言っているが、ここの部分については糺が知らない可能性もある。
なぜ茅渟が糺の母ではないと考えるかというと、あえて初産に多いという子癇という病名をつけているからだ。実は、経産婦である池長氏の最初の奥さんもこの病気で亡くなったのだが、子供を産むたびに妊娠中毒症の症状が重くなっていき、最後の出産後、産褥熱の中、子癇発作を引き起こしたということなので、妊娠中の茅渟の場合とは少し事情が異なるように思う。

また、池長氏に『紅塵秘抄』という現代今様集があるのだが、その中に、最初の子が生れた時のものがある。

赤ん坊ぴよつこり生れけり
広大無辺のこの娑婆へ
おんみ何しに生れしぞ
答へて曰くただ「おぎゃあ」

非常に無邪気なのだが、タイトルは「不可解」とつけている。谷崎は、このタイトルから浮かぶインスピレーションを採用したのかもしれない。

○経子

推定:茅渟の妹。店が潰れてしまったため、姉とは異なる境遇を歩むことになった。

客嫌いで人づきあいの悪かった父は、母がいるからこそそれで満ち足りていたのであったが、母亡き後はさすがに寂寥(さびしさ)を覚えるらしく、おりおり気晴らしにどこかへ出かけることがあった。日曜にはよく私や乳母を伴って、山端(やまばな)の平八へ食べに行ったり、嵐山電車で嵯峨方面へ行ったりした。
「お母ちゃんが生きてた時分、あの平八ちゅう家(うち)へ始終とろろ食べに行(い)たことがあんねやが、糺おぼえてるやろかなあ」
「一遍だけおぼえてるわ、うしろの川で河鹿が鳴いてたなあ」
「そやそや、
  お笹を担いで大浮かれ
  ちんとろとろのとろろ汁
ちゅう唄、お母ちゃんが歌(うと)てたん覚えてるか」
「そんなん覚えてへん」

父と経子との出会いはこの時と思われるが、これは『蘆刈』での慎之助とお遊様との出会い方とよく似ている。山端の平八によく行ったというのも意味深だ。比叡山を挟んで反対側は近江である。

経子のモデルの一人である池長氏の養母と池長氏の関係は、最初の子が生まれた後あたりから日に日に悪化した。ついには別居となったが、養母の死後何年かを経て、兵庫の家を整理するとき、仏壇の裏から池長氏名義の貯金通帳が見つかった。月掛の貯金は養母の死を以って終止符が打たれていたというエピソードがある。
糺の経子に対する感情もこのような経緯を辿ったのではないかと推測する。

○加藤医師(葦間の男)

推定:糺の父の双子の兄で、糺の実の父。双子なので、糺が父とそっくりということは、加藤医師にもそっくりということになる。

父の性格を呑み込んでいる加藤氏は、父の云うことをその言葉通りに受けた。

糺の父の死後、加藤医師が糺から家督を奪う形になるが、これは谷崎が松子夫人の前夫である根津清太郎氏から家族をそっくり奪った形になったことと、池長孟氏が長崎在住のコレクター永見徳太郎氏から最後にはその蒐集品をそっくり譲り受けることになったことを念頭に置いているのかもしれない。
この兄弟と糺の雛型として、越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主であり、越前松平家の宗家初代である結城秀康とその双子の弟である永見貞愛を意識していると思われる。

そこから貞愛つながりで伏見宮貞愛親王とその第1王子第2王子の関係をイメージすると、さらにわかりやすい。

○糺

推定:乳母と加藤医師の子で、沢子とは兄弟にあたる。

「膀胱炎もあることはあるんですが、そんならあんたは、お父さんから何も聞いておいでやないのですか」
と、幼い時から昵懇にしている加藤氏は、いささか意外という顔つきで云った。

「実は私は、お父さんの御病気の実際を、御当人にはそう露骨には申し上げてないけれども、おおよそ分るようには匂わしてあります。だからお父さんもお母さんも大体の覚悟はしていらっしゃるらしいのですが、なぜそのことをあなたに隠しておられるのか、私には分らない。多分あなたに、早くから無用な悲しみをさせたくないというおつもりなのかも知れない。しかし私には私の立場もあるから、あなたがそれほど心配しておられるのに、隠しておくのもどうかと考える。お宅と私とは昨日や今日のつきあいではなく、御先代からの関係もあることだから、ここで私が独断を以てお知らせしても差支えないと思います」

この時点で、加藤氏にどのような感情が芽生えたのだろうか。妙に気色ばんでいるような感じも受ける。

「あの児ォのことはお前も大体知ってるやろがな」
と、父は沢子の生い立ちや気立てについて簡略な説明をしてくれたが、私も前から聞き込んでいたことがあるので、別に新しい事実はなかった。彼女が私と同い年の、明治三十九年生まれの二十歳であること、

同い年の子供が生まれる件については、『金箔の港―コレクター池長孟の生涯』にその元となるような話が書かれている。

ただその場合、もう一つお前に聴いてもらいたい条件がある、それは外でもないが、お母さんがお前のために自分の生んだ児を余所へ預けたように、お前ももし子供が生れたら家に置かないことだ、こんなことは、嫁や嫁の親達に今から知らすには及ばない、その必要が起こるまでお前の胸に納めておけばいい、

恐らく経子が父に嫁ぐ際も、父はその覚悟だったのだろう。相続をややこしくしないために。だが、これは経子のウルトラCで踏みにじられてしまい、結局父もそれを了承するしかなくなったと思われる。つまり、この時点で糺の家督相続は無くなった。
ただ、この縁組についてはそれだけではなく、兄妹だということの方が大きい。したがって、糺と沢子の間には夫婦関係も禁じられたのではないかと想像する。

なお、『夢の浮橋』の初めの方に鴨長明の歌が入っているが、これは、父の死後の糺の運命を暗示するために入れられたと思われる。
これについては、小谷野敦氏による谷崎潤一郎詳細年譜昭和34年の記事に、安倍能成から貰った明月上人の巻物の詩について松子夫人が何やら詮索しているらしき様子が見える。秘書とは伊吹さんのことだろうから、これまで名前によるトラブルと思っていたのは、これがきっかけだったのかもしれない。
明月上人の詩がどのようなものかはわからないが、もしそれが入るとしたら、決定稿で鴨長明の詩が入っているところなのではないかと推測する。

花聟(はなむこ)の私の服装は、特に母の云いつけでモーニングを避け、父の形見の品である五三の桐の黒羽二重の紋付であった。

ここで「父」と言っているのは、梶川の先代で、本当の父である慎之助かとも思うが、あるいは経子の父である小曾部の兄の形見なのかもしれない。これは、森田家の強請によって谷崎が家紋を変えたことと符合することになる。

なお、余談だが、五三の桐の黒羽二重の紋付のモデルは「勲一等旭日桐花大綬章」ではないかと思う。この伝でいくと、経子の「茶色の皮の座布団」は茶色のソファーが想像されるが、これがどのような由来の何をイメージしているかはわからない。

○沢子

推定:加藤医師と梶川の妻の子。糺とは兄妹になる。

乳母がいなくなってから、女中が一人殖えて四人になった。

殖えた「女中」は沢子。これは徳富蘆花著『不如帰』を踏襲している。父の死後、経子は女中達に揉み療治をさせていたが、その中でも沢子が担当することが多かったのではないだろうか。

なお、沢子に遺伝的要素がある「そばかす」をつけたのは、糺と同い年でも双子ではないことを示す意味もあるのではないかと推察する。

○武

推定:加藤医師と経子の子で、糺とはまさしく兄弟になる。

私はまた、故郷の長浜で安らかな余生を送っている今年六十五歳の乳母に、せめて武が十ぐらいになるまで面倒を見てくれるように頼んだところ、まだ幸いに腰も曲らず、孫子の世話をしていた彼女は、「そういうことなら、もう一度ちっさいぼんちゃんのお相手をさせていただきましょう」と、お神輿を上げて出て来てくれた。武の歳は今年七歳、当座はなかなか私や乳母になついてくれなかったが、今では事情を理解してすっかり親しみ深くなった。

ここで『蘆刈』の親子に戻るわけだが、そうなると糺が父ということにもなる。ここが糺のまさに「お得に正した」ところで、糺は世間の噂を認める形で武が自分の息子であるように振る舞っていたと思われる。一度手放した家督をこの子に自分の子として相続させるために(そのためにも沢子との離婚は必須であった)。

○梶川の先代(慎之助)

推定:お遊様だけでなく、静をも宮津に渡した後、植木屋の弟子になった。謡曲『蘆刈』からの推定。

祖父の時代にこの五位庵の造園をしたのは植惣であるが、梶川の先代は植惣の弟子で、師匠の植惣が死んでからこの庭の仕事を受け継いでいた。私は当主の梶川はよく知っていた。

梶川の先代と当主を分けていることに注目する。当主の方は、池長氏の南蛮美術蒐集を司った高見澤忠雄氏がモデルと思われる。池長氏の子と同い年の子供が生まれている。

○梶川の当主(あるいは梶川の親父)

モデルになったと思われる高見澤氏の生い立ちについて、『金箔の港―コレクター池長孟の生涯』からいくつか引用する。

高見澤は池長より八歳年少で東京日本橋生まれ、メリヤス問屋の四男である。次兄は浮世絵復刻の名人として、当時美術愛好家たちの間で名前を知られていた高見澤遠治である。

その年の夏、次兄上村益郎が京橋で初期肉筆浮世絵を中心とした画廊丹緑堂を開いたばかりであった。

高見澤の生家は日本橋の大店であり、中学くらいまでを気ままな坊ちゃん暮らしで過ごしたが、父親が死に兄の代になるとたちまち店はつぶれ、それからは兄たちの世話を受けて生活しなければならなかった。もはやぜいたくの許されない境遇にありながら、なぜか坊ちゃん気質が抜けず、それがまた海千山千の商人たちを煙に巻くことになった。

日本橋生まれのメリヤス問屋の息子で、なおかつ店が潰れたというところに注目する。ここから、『蘆刈』の「粥川」家とつながる。経子の父と梶川の当主が兄弟であり、出身が松子夫人の前夫をなぞらえていると思われる「粥川」の一族であると思うのは、この点からである。

なお、この記事を書く際に参考にしたサイトをブックマークしてあるので、興味のある方はご覧になっていただきたいと思う。谷崎が幼少時代に見た歌舞伎やお神楽・茶番、稲葉先生の薫陶、池長氏との交際によって得た歴史に関する知識を総動員した観がある。

『増鏡』『とはずがたり』関連では、南北朝時代のように兄弟で互い違いに家督を譲り合う形、自分の子でないのに自分の子であるように読者に思いこませるというアイデアが取り入れられている。

また、この小説には、昭和22年の大宮御所での昭和天皇との会見から得たインスピレーションも使われたのではないかと推測する。その時のメンバー全員、誰から辿っても、この小説のヒントにつながる。それについてはツイログの方を見ていただきたい。

次回(たぶん来月になると思う)は、ここまで調べてきたものの成果として、この小説の隠された部分も含めたあらすじを書いてみたいと思う。

2010 年 5 月 3 日

その447 『夢の浮橋』と『蘆刈』

カテゴリー: 小説・作家 — みよこ @ 6:06 AM

先日、丁未子夫人のことを調べたくて三島佑一著『谷崎潤一郎と大阪』を読んだところ、『夢の浮橋』『蘆刈』の関係について気になり、久しぶりに『蘆刈』を読み直した。
もちろん、夫婦で一人の女性に仕える理想が共通しているとか、『夢の浮橋』の第1稿で、第2の母の本名が「静」だということは知っていたが、読み直して、「これほどとは」と驚いた。『夢の浮橋』は、『蘆刈』のいわば続編だったのだ。これは加藤医師のことについてまとめる際にも重要な発見なので、ここで書いておきたいと思う。

『蘆刈』は、主人公が「まだおかもとに住んでいたじぶんのあるとしの九月のこと」、ふと思い当たって水無瀬宮址まで散歩に行くところから始まる。

冒頭には、謡曲『蘆刈』から歌が引いてある。

君なくてあしかりけりと思ふにも
  いとゝ難波のうらはすみうき

この後には「千世」という文字が出てくる和歌も登場する。まさに千代夫人と別れた後、寂しさをこらえていたころの心境から、この物語が始まる。

ここで水無瀬宮址の場所について、次のように書かれる。

山崎は山城の国乙訓郡にあって水無瀬の宮址は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引き返してそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。

水無瀬宮址に着いた主人公は、離宮の占めていた形勝を次のように想像する。

院の御殿は南に淀川、東に水無瀬川の水をひかえ、この二つの川の交わる一角に拠って何万坪という宏壮な庭園を擁していたにちがいない。いかさまこれならば伏見から船でお下りになってそのまま釣殿の匂欄の下へ纜をおつなぎになることもでき、都との往復も自由であるから、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひてという増鏡の本文と符号している。

月の出を待つあいだに夕餉をしたためておこうと饂飩屋に入った主人公は、そこの主人に月を見るために淀川へ舟を出したいと言うと、川幅が広く、まん中に大きな洲があるので、そこで渡船を乗り換える間に川の景色をご覧になってはと言われたので、露に湿った雑草の中を踏みしだきながら一人でその洲の剣先の方へ歩いて行って蘆の生えている汀のあたりにうずくまり、酒を飲みながら月を眺めていたところ、蘆の間から主人公の影法師のようにうずくまっていた男が現れ、主人公にお遊様と呼ばれる女性と男の父である芹橋慎之助とその妻になる静の話を聞かせるのだった。

蘆荻の生い茂る2つの川が合流する場所というように、谷崎が幼少時に住んでいた茅場町や真鶴館のあった霊岸島(蒟蒻島)を思い浮かべる設定から、影法師のようにうずくまっていた男は谷崎の分身であり、それを誰か関西の人の上に当てはめたのではなかいと推定する。

『蘆刈』で特に重要なシーンはここだ。

そんな場合父はあの別荘の女あるじのことを「あのお方」といったり「お遊様」といったりしてお遊さまのことをわすれずにいておくれよ、己がこうして毎年おまえをつれてくるのはあのお方の様子をお前におぼえておいてもらいたいからだと涙ぐんだこえでいうのでござりました。

男の母は、男が父にお遊様を覗きに連れて行かれる2~3年前に亡くなり、父と男は2人暮らしをしていたことになっている。ここが『夢の浮橋』の最後と重なるのだが、果たしてこの時この男の母である「静」は亡くなっていたのだろうか。この答えが『夢の浮橋』の第1稿ということになる。

第1稿では、先妻が「有為子」である。「お遊様」がニックネームであることは『蘆刈』に書かれているので、つまり、お遊様は伏見の造り酒屋に嫁いだ何年後かに亡くなり、その後身代わりに「静」が入ったということになる。つまり、この後妻が男の母であり、『蘆刈』の父は妻を通じてお遊様を、息子は母を覗きに行っていたということになる。それが、「お遊様」と「あのお方」というように呼び方を微妙に分けている所以だろう。元妻を「あのお方」と呼ぶのは不自然に思うかもしれないが、そこには父の静に対する尊敬が現れているのではないかと思う。

ということで、『蘆刈』の冒頭の和歌は、その時の谷崎の心境と男がお遊様だけでなく、妻をも譲り渡した心境を示していることになる。これは「お遊様母説」に対する答えにもなるのではないかと思う。

ただし、「お遊様」と「静」が先妻と後妻に投影されるのは第1稿までの話だ。決定稿で『夢の浮橋』の主人公の名前を変更せざるを得なくなった時、谷崎はその主役の役割を大きく変えたのではないかと推定する。それは、どちらかわからない「茅渟」に対する「特殊な性格」という表現に集約される。

決定稿では、血の継承がテーマになっているように思う。そこには、第2の母のモデルの一人である松子夫人の妹重子さんの夫が越前松平家をルーツにもつ、津山松平家の血を引く人であることから、松子夫人の入籍に際して松子夫人の実家から強請されて松子夫人の紋に家紋を変えた経緯を含めて自分の人生を投影させながら、最終的に欲しい結果、つまり武(得三)を引き取るという結果を得るための苦心が詰まっている。

ただし、『蘆刈』とのつながりがまったく途切れているわけではない。それは乳母である。乳母の家が近江になったのは決定稿で、第1稿では丹波だった。これが近江になったことで、乳母が芹橋の嫁である「静」であることを意味することができるのである。そしてその方がより謡曲「蘆刈」の筋に合うことになる。
『蘆刈』の芹橋(つまり男の父)は、滋賀県彦根市芹橋とかかわりがあると思われる。谷崎は『私の姓のこと』という随筆の中で

「江戸ッ児の多くは、近江、伊勢、三河の国の出身であるから、私の家も多分は江州商人の子孫であると考えて間違いはあるまい」

と書いていることが野村尚吾著『谷崎潤一郎風土と文学』に書かれているのだが、『蘆刈』で谷崎はその地をその芹橋に設定したのではないだろうか。また、『蘆刈』で「静」は小曾部の娘ということになっているが、現在の高槻市に古曽部という地名がある(近くに日吉という地名もある)。武は丹波の黒田村の芹生に預けられたという。高槻市は丹波の一部に当たる。ということで、武はいずれにしても乳母の実家筋または嫁ぎ先に預けられたと考えられるのではないだろうか。

『夢の浮橋』の裏の物語を解くには、これまで書いてきた『アンナ・カレーニナ』、徳富蘆花の『不如帰』を読む必要があるが、さらに、登場人物の苗字や住んでいる場所も大変なヒントになる。

人間関係のつながりは、「名前」がキーポイントになっている。つまり、そこに該当する人がどういう人であるかは関係なく、いくつかのエピソードとあとはひたすら名前をつなげてイメージを膨らませていく方法が取られているように思える。

最後に、調べているうちに挙がってきた名前や地名について、ここに列挙して置こうと思う。
結城秀康永見貞愛伏見宮貞愛親王伏見宮博恭王邦芳王
日吉神社(京都・室町仏光寺)、二条あたり等々。これらの名前が挙がってきた経緯について詳しくは、ツイログを見ていただきたい。

それから、伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』をめくっていて気づいたが、谷崎の『三つの場合』は要チェックのようだ。糺の父の亡くなり方は岡さんそっくりだし、「明さんの場合」はさらに重要だ。
さらに、「母」が「ほととぎす」の歌を記した色紙に使われている古代の手法に依った本式の墨流しの紙は、

豊臣秀吉にも、代々の徳川幕府にも重用されたこと、皇室にもたびたび献上した

ということが「無形文化財墨流の由来」という説明書の紙面いっぱいにびっしりと書かれていたと書かれている。

今回挙がってきた人名等については、糺の苗字の「乙訓」や、高木治江著『谷崎家の思い出』に出てくるシーンから端を発したものだったが、新たな発見をしていくたびに、『夢の浮橋』解明のヒントはことごとく伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』に書かれているということを実感する。

次回は、これまでの成果をもとに、乳母と加藤医師との関係を明らかにしていきたい。

2010 年 5 月 1 日

2010年04月 経る時

カテゴリー: 思い出の壁紙 — みよこ @ 11:50 AM

経る時

正解

「経る時」 8名 久しぶりに多くの方に正解していただけました(^^)

ヒントの表示 2名

※ここで表示した○名という数字は、スペルの書き換え等のために続けて回答された分を差し引いた数字です。



2010年04月 経る時

歌詞情報:松任谷由実さん『経る時』の歌詞
(いつものgoo音楽になかったのでうたまっぷ.comさんにリンクさせていただきます)

アルバム:REINCARNATION

フランソワーズさん

桜の歌はいっぱいあるけれど・・・やっぱりこれ以上のものには出逢えません。この歌を聴くたびに走馬灯のように沢山の想い出がよぎって胸が熱くなります。子供の頃に行ったあの辺りはもう少し静かだった記憶があります。

pikkaさん

この時期になると思い浮かぶ曲です。

Fairmont Hotel 一度泊まってみたかったホテルです。

ばばさん

いよいよお花見シーズン到来!!
今年も桜が見れて良かった。。。

おととし千鳥が淵の桜を見に行きました。
フェヤーモントホテルの跡地は高級マンションになってました。
ペントハウスに住んでるのはどんな人なんだろな。

お堀がピンクに染まるのは美しいけど寂しくもありますね。

foojiさん

REINCARNATIONラス曲、最初に買ったユーミンのLPで擦り切れるほど聞きました。苗場バージョンより、オリジナルのはかなさが好きです。

ふるだぬきさん

苗場のアンコールでよく聞きますが、本編で聴きたい曲です。

首都高の竹橋から三宅橋方向に走るとき、この曲を思い出します。

cygnusさん

苗場で毎年アンコールとして聴くことのできるこの曲。最初に聴いたのはいったい何時のことだったか。「...さびれたこのホテルまで」という歌詞が「...いつものこのホテルまで」となるのを聴くたびに次の苗場を想い描くのが最近の習わしです。

みよこの思い入れ

今回の写真は、2004年にラブレターズに書いた時に撮影したものを使いました。当時すでにフェヤーモントホテルはなく、マンション建設中でした。一度はティールームでお茶を飲みながら桜を見たかったんですけど、叶いませんでした。

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