その444 『夢の浮橋』加藤医師の件(4)
加藤医師の4回目は、谷崎の母の死の前後について、中河与一著『探美の夜』から引用したい。前回、今回とこのような引用をするのは、『夢の浮橋』の第2の母の死のときに加藤医師が担わされた役割を考える参考になると思うことと、この2人の死を「母」の死として谷崎がオーバーラップさせたと考えるからである。
○義妹(『痴人の愛』のモデル)と旅行に行く計画を立てる
何時の間にか尾張町の四ツ角の近くに来ていた。彼は思いついてガランとしている一軒の店に入ると、おすえに似合いそうな思い切って大胆な柄行の派手な色彩の着物を見立てた。勿論おすえの旅着である。番頭にきくと、仕立あがりは急いでも二、三日はかかるという。彼はその着物が出来あがるのを待って、その次の日あたりにおすえを旅行に連れだそうと決心した。
○母と鮎子、ほぼ同時に発病
小石川の自分の家に着くと、数日前から脹れもので苦しんでいる鮎子の泣き声がすぐ耳に聞こえて来た。黒襟をつけた筒袖の寝巻姿の千恵があわただしく奥の部屋から走り出して来た。
「あなた、蠣殻町のおっ母さんが大変なんですってよ。お顔の丹毒でとてもお悪いんですって」
「えッ、おっ母さんが丹毒だって」
不吉な予感が彼の全身をうちのめした。彼は千恵の顔を見つめたまま痴呆のような表情で立ちすくんだ。
○父から追って手紙が来る
「でもどんなことがあっても、おっ母さんの病気を、嫁として私がほっておくことは出来ませんわ」
何時も従順すぎるほど従順な千恵が、今日は思いがけないほど真正面から我を張って譲ろうとはしなかった。
二人が暫く玄関先きで同じことをくりかえして争っている時、丁度そこへ父からの葉書がとどいた。それには昨日のハガキの追って書きのように手みじかに「赤児に腫物ありては伝染の恐れあり、千恵は見舞に来るに及ばぬ」とだけ認めてあった。その簡潔な追伸の中には、親切な千恵が鮎子をふりきって、自分の疲労を押して看病に来るのではないかという父親の察しと愛情が示されていた。
○母の容態
母は奥の八畳に寝ていた。
ひるむ手で障子をあけて中の様子を見た時、彼はそこに思いがけぬものを発見した。病床のそばには父と看護婦と、それから今しがた納得させたばかりの千恵が、自分より先きに来て坐っているではないか。何という強情な女だろう。そして無智な奴だろう……
彼は初めてそむかれた怒りに衝かれて顔をゆがめたが、ものも言わず、ただ憎々しく千恵の方をグッとにらみ据えた。その形相は後手に出刃を持っていないだけ……と言いたいくらいの見幕であった。千恵は悲しげに詫びるようにすぐ眼を伏せた。
母はと見ると化物のように赤黒く脹れあがった顔には、目鼻さえわからぬほどに黒い薬がぬられ、その上に白い繃帯が巻かれ、高熱にうかされるように絶えずうめき声をあげていた。これが嘗て一枚錦絵にまで写しとられた母の姿かと思うと、彼は胸を押しつぶされて声も出なかった。
○母、一時的に回復
次ぎの朝、彼は起きぬけに自動電話で、近所の電話を持っている人に父を呼びだしてもらい、母の病状をきいた。不思議にも今朝方から急に熱も七度台にさがり、顔の腫れも引いたという返事であった。
(中略)
母もすっかり安堵したらしかったが、ただ食欲がなかった。彼はあれこれと栄養の多いたべ物を言ってみたが、結局鳥のスープだけ食べてみようということだったので、彼は喜んで家を出て笹沼の家に馳けつけた。「偕楽園」で上等の鳥のスープを作ってもらうと、彼は足が地につかぬほどのうれしさで、母のところへ持って帰って来た。
彼がこんなに真情をうちつけて母に仕えたのは、後にも先にも初めてのことであった。彼はこの日になって自分がどれほど深く母を愛していたかということをハッキリ知ることができた。
○鮎子の手術
次ぎの日、彼は鮎子の手術のために鮎子にき添って帝大病院に行った。その時、鮎子の身体を生れて初めて我手で抱いた。親子の愛情が小さい身体を通して熱く通ってくる中で、詫びと祈りの気持を感じながら彼は鮎子を手術台の上に運んだ。メスがあてられると、鮎子は烈しく泣き叫んだ。親も子も汗みどろになっていた。
手術は順調にすすみ、十日ばかりも苦しみ通した大きいゴムマリほど固くふくれあがっていた腫物が間もなく根こそぎ取り去られた。
こうして祖母と孫は殆ど同時に発病したが、全治するのも恐らく同じ頃であろうと、彼は悪夢のような数日を思いかえしながら、やっと安堵の息をついた。
○伊香保へ
一人になると、彼は近所にいる先輩の竹林無想庵を訪ね、そこで伊香保のことを聞いたり、一緒に春陽堂に行って旅行の費用を三十円だけ前借りしたりして夜十時頃自分の家に帰って来た。
彼は次ぎの日の夕方だしぬけに千恵に言った。
「明日の朝から二十日か一ヶ月ほど旅行しようと思うから今夜のうちに支度をしてくれないか」
彼が旅行に行くのは結婚して今度が初めてであった。
(中略)
二人は電車をおりると、急な石段で出来た街の通路をあがって「千明」という旅館に入って行った。徳富蘆花が『不如帰』を書いたことで急に有名になった旅館で、中宿ではあったが江戸時代からあって四百年もつづいているということであった。
○母危篤
彼が母を最も心配させたのは大学時代だった。彼はその時代のことをそのまま題材にして『異端者の悲しみ』という題で作品を書くつもりで、ここへやって来たのであった。
(中略)
お関は潤一郎が伊香保へ旅行に出る前日、あと二、三日で全快間違いなしと医者から断定されるまでになっていた。
然し二、三日すぎても胸のあたりに残っている小さい発疹がどうしても消えず、何となく気にかかった。医者は血清注射のせいで心配はないと説明していた。然し一応は危機を脱したと思っていたものの、誰れもが一抹の不安を感じていた。
千恵は潤一郎が旅行に出ると、その日から雨が降っても風が吹いても重い鮎子を背負って、姑の看病のために毎日、小石川から蠣殻町へ出かけて行った。
(中略)
お関は勿論のこと、倉五郎もそのことが何より嬉しくてたまらなかった。
ところが、千恵が両親の家に通いだして一週間目のことであった。何時ものように朝早く蠣殻町に行くと、昨日まで機嫌のよかったお関が、夜中から急に高熱を出したというので、医者や看護婦にとりかこまれていた。一度退いた丹毒症が、今度は胸の方にひろがりだしたのであった。
医者が夜どおし手をつくしたにもかかわらず、病勢は刻々に急激に悪化してゆき、わずかの時間に、もう救う術のないほど最悪の状態に陥ち入っていた。
○母の死
「潤一があんな性分だからお前も苦労のしづめだね……許してやっておくれ。でもあれで心根は見掛けに似合わず真面目で人一倍情のある子なんだよ。お前のことだって私のことだって心の底じゃ何時も親切に考えているんだからね。でもあれは小さい時からハニカミ屋で、泣き虫の癖があってね。だから表面ああして強がっているんだよ。そう思って辛抱しておくれね。何時かきっとお前にもいい日が来るよ」
風変りの息子を生んだ母親は瀕死の床にありながら、女同士の思いやりと哀しみをこめて年若い嫁を励ました。
然しそんな間も病状は進む一方で、幾度も危険に陥ち入りながらも、そのたびに注射で持ちなおし、日頃の丈夫な体力で、危ぶまれたその夜も奇蹟的に持ち越した。それはただひとえに潤一郎を待つ心の強さのためであったかもしれなかった。
然し次ぎの日、五月十四日、お関はやがて馳けつけてくる潤一郎を待ちきれず、千恵に手を握られて息を引きとった。五十四歳であった。傍らには倉五郎、精二、精二の妻の富士子、修平が涙をためて坐っていた。
潤一郎が帰って来たのは、それから暫くの後であった。
彼は母のなつかしい死顔の前で悔恨と愛慕にゆすぶられ、人眼もなく男泣きに泣いた。生れ落ちて以来、最も大きい不幸と悲しみを彼はこの時体験した。
お関の遺骨はその頃深川大島にあった慈眼寺という日蓮宗の寺の墓地に埋葬された。この墓地は後に小石川の染井に移されたが、そこでは芥川家(竜之介)累代の墓と背中合わせになった。
小説の中で、谷崎がそれまで鮎子さんに触っていないということを妙に強調しているのが気になったが、鮎子さんと母の病気が同根であることが、千代夫人の独り言として次のように示唆されている。
「おばあちゃんもとてもきいきが悪いんですって……鮎子はこの間おばあちゃんところに行ってだっこしていただいたでしょう。おばあちゃんが鮎子はいい子いい子って、言って下さったわね」
『夢の浮橋』のストーリーには『アンナ・カレーニナ』が下敷きとして煉り込まれているが、この年は、谷崎がトルストイ作品と出会った、あるいは再会した年でもあったようだ。千明仁泉亭を常宿にしていた徳富蘆花がトルストイに傾倒しており、この年に谷崎の弟である谷崎精二もトルストイの作品を訳している(この年の出来事について詳しくは、小谷野敦氏の谷崎潤一郎 詳細年譜大正6年の記事をご確認いただきたい)。
徳富蘆花からは、さらに「兄弟の問題」という連想も出てくるが、『夢の浮橋』のストーリーの背景に兄弟の問題が何重にも織り込まれている背景にはこのこともあるのかもしれない(『アンナ・カレーニナ』も兄弟の話で溢れている)。谷崎は『夢の浮橋』のストーリーを寝ながら煉っていたそうだが、そのことが、この作品に連想ゲームのようにいろいろな要素が盛り込まれた要因なのかもしれない。
なお、『夢の浮橋』について気がついたこと等をその都度Twitterにメモ代わりに書いている。それらについても、よろしかったらmiyokosroomのtwilog(「夢の浮橋」で検索)でご確認いただけたらと思う。







