その443 『夢の浮橋』加藤医師の件(3)
加藤医師についての3回目ということで、中河与一著『探美の夜』から第2の母のモデル(第2の母の描写には、松子夫人の妹である重子夫人のエピソードも含まれているが、経歴については妹尾君子さんのものが濃厚に投影されている)である妹尾君子さんが亡くなる場面について見ていくことにする。この小説の執筆方針については加藤医師の件(1)に引用した通りだが、著者のあとがきに書かれているところを改めて引用しておく。
私は根と葉とを丹念に調べるために出来るだけ多くの土地に行き、多くの人々に逢ったのにすぎない。だから此処に書かれている限り根と葉とに於ける正確は保証するが、登場人物の心理や行動については保証しない。それは私のものであってモデル自身のものではないからである。
谷崎や一部の当事者がまだ生存している時のものであり、一部のエピソードについては前後の別の人のこととして書かれているように思えるところもあるが、妹尾君子さん急死の経緯については十分な資料になると思う(主要登場人物の名前は小説のため仮名)。
○亡くなる前の状況
妹尾銀一は昭和十年の夏、前の家の西隣りに中川修造の設計で新しい家を建てた。
それは建坪六十坪くらいの二階建で、かいづかの生垣をめぐらしたハイカラな家であった。テラスからは神戸の町から海の方までが一目に見おろせた。
もともと彼女の喘息は相当ひどく、時候の変り目、殊に冬に向う頃になると、月に一度くらいは必ずと云っていいくらい発作を起していた。
黴に敏感すぎるというので板倉医師のすすめで地下室に黴を培養したりしていたが、四日くらい前から烈しい発作に襲われていた。発作には山があって二日くらいすると、何時も峠を越すのに、今度はなかなからくにならなかった。
○亡くなった状況
衰弱がひどかったので医師がリンゲルを注射していると、その時突然彼女は息をひきとってしまった。枕頭には医師と看護婦と銀一とが坐っていた。
○通夜の前
どういうめぐり合せか、その日の昼、東京で新しい家庭生活を営んでいる登志子が下阪して来て妹尾家にやって来た。
彼女は鳥居と一緒に下阪したのであったが、ちょっとの時間でも絹子と逢って、今度の幸福な結婚について報告したいと思ったからであった。
ところが行ってみると、それどころか家の中は深い悲しみにとざされていた。
彼女は不幸な日々を姉のように親切にしてくれた絹子の遺体の前に坐って涙を流しながら、心から絹子の冥福を祈った。
然し考えてみると、その頃潤一郎夫妻は住吉川のほとりに住んでいたから間もなく此処に来るにちがいないと思った。それで、登志子は彼等と顔を合す気まずさを避けるために、早々に妹尾家を辞去するより仕方がなかった。不義理なような気がしたが、あの物わかりのいい苦労人の絹子は、きっと自分の気持ちを許してくれるにちがいないと思いながら、彼女は想い出多い岡本の坂をおりて行った。
○通夜の様子
潤一郎が妹尾家に着いたのは、登志子が帰ってから間もなくであった。その頃はさしもの妹尾家も、どの部屋にも通夜の客が入りきれないほど来て、混雑を極め、喜久の家からの夜食の料理がつぎつぎに運ばれて来ていた。
夜が更けるに従って、通夜の客はつぎつぎに帰って行って、残ったのは潤一郎と中川修造夫妻と親戚の者一人だけであった。
広い応接間にストーブをカンカンたいて、四人は美しく才たけていた絹子の思いがけない早逝を悼みながら、花で飾られた寝棺の前で夜を明かした。
「登志子はとうとうお通夜に出ませんでしたね」
潤一郎はふと気がついて云った。
「御亭主も御一緒やそうで、他にのっぴきならん用が出来たゆうて断ってはりました」
中川夫人が遠慮ぶかげに幼い船場のアクセントで云った。
「だがあれだけ御世話になった登志子こそ来なければならなかったのに……」
潤一郎は力をこめて残念そうに云ったが、その時何故か眼の底には涙がにじんでいた。
ストーブの熱と煙草の煙でムンムンする部屋に入って来た銀一が、そう云いながら窓の方に歩いて行った。
彼が窓にとりつけた黒繻子の幕を取り外して窓をあけると、冷い透き透った海風がサッと部屋の中に流れ込んで来た。
絹子というのが妹尾君子さん、登志子というのが丁未子夫人である。丁未子夫人は谷崎との別離の際、心身共にギリギリまで追い込まれたが、その後結婚前に勤めていた文芸春秋社に再度採用され、そこで知り合った男性と結婚したばかりだった。
小説には、丁未子夫人の結婚に際し、谷崎が菊池寛に出した礼状が小説の一部として引用されている。
それにしても医師の勧めで地下室に黴を培養とはこれいかに。今で言う減感作療法ということだろうか。でもこれ、どうなのかしら。減感作になってないわよねぇ(^^; 新築の家で冬はストーブをガンガン焚いて、しかも海のそば。湿気や化学物質の心配もあるわよね。リンゲルが汚染された? その医師の勧めって、妹尾夫妻が直に聞いたのかしら、それとも誰かが聞いてくれて、それを聞いたのかしら。
参考までに、丁未子夫人との離婚騒動から妹尾君子さんが亡くなる前に起ったことを小説から、その後小谷野敦氏の谷崎潤一郎・詳細年譜から抜き出してみる。
- 妹尾家に預けた谷崎の愛猫と別居中の丁未子夫人との間に『猫と庄造と二人のおんな』に描かれたようなことが起きた。
- 東京で谷崎が丁未子夫人との別れの宴を開き納得させた後、丁未子夫人はやはり松子さんとも和解したいということで、妹尾夫妻を説き伏せて妹尾夫妻、松子さん、丁未子さんで会ったのだが、これが大失敗。帰宅後松子夫人は谷崎に、妹尾夫妻と丁未子さんの三人からいじめられたというようなことを話した。
- 谷崎は、丁未子夫人と妹尾夫婦の行為にひどく立腹し、双方にきつい抗議の手紙を出した。この結果、一度決まりかけた離婚問題はさらにややこしいことになった。
丁未子夫人との離婚後、妹尾君子さんが亡くなるまでの主な出来事(出典:小谷野敦氏の谷崎潤一郎・詳細年譜)
- 昭和10年1月に谷崎と松子夫人が結婚
- 同年12月に志賀直哉宛の手紙に、妹尾家に預けてあった猫が行方不明になり、死骸で見つかったと谷崎が書く。
- 11年2月に丁未子元夫人が鷲尾洋三氏と結婚
- 12年11月24日、妹尾君子さん急死、その後夫である妹尾健太郎氏は天理教に入信
なお、昭和51年発行の小説のカバーには、国文学者の吉田精一氏により次のようなことが書かれている。一部抜粋して引用する。
刊行後十年ならずして、今日までにこの作品の貴重性は増している。二十年、三十年先には更にそれは倍増するであろう。
作者の払った努力は、その時はじめて報いられるかも知れない。
細君譲渡事件のあと佐藤春夫が脳出血を起して倒れた。これについては谷崎自身が春夫の死後明らかにしたので吾々の手にも入っているが、この作品の書かれていた頃は、当事者の間をのぞけば極めて狭い範囲にのみ知られていた。一種の秘密であった。作者はこの事件の重大な意味をみとめて、ちゃんとこの作品に書き込んである。この種の事は他にも相当あり、読者の何げなく読みすごすもののうちに、後になってある啓示をいくつも発見するに相違ない。
読んだところ、実際相当あった。
ちなみに51年発行の単行本の発行所は港リサーチ株式会社、発売元は日本出版貿易株式会社となっている。小説の連載が終わったのは昭和34年11月。『夢の浮橋』が中央公論10月号に発表された約2ヵ月後である。そして最晩年、『雪後庵夜話』の冒頭に
我といふ人の心はたゞひとり
われより外に知る人はなし
と記されることになる。








「・同年12月に志賀直哉宛の手紙に、妹尾家に預けてあった猫が行方不明になり、死骸で見つかったと谷崎が書く。」
とありますが、『当世鹿もどき』によると、
「前記のチュウなども十三年ぐらいゐは生きてをりました。阪急の岡本の家を畳みます時、チュウを友人の妹尾健太郎君に譲りましたが、妹尾君の先夫人が亡くなられましても、なほ生きて残つてをりました」
と書かれている。
志賀直哉宛の手紙は勘違いを元に書かれたのかしら?
コメント by みよこ — 2010 年 3 月 26 日 @ 12:27 PM