その437 『夢の浮橋』加藤医師の件(1)
乳母の次は加藤医師について書きたい。
これに先立ち、資料として合歓亭で糺が「母」の乳を吸うシーンで読むつもりだったトルストイ著『アンナ・カレーニナ』と、妹尾君子さんが亡くなった時の様子について調べるために中河与一著『探美の夜』、そして『夢の浮橋』の構造を解き明かす資料として、谷崎が昭和5年に『春寒』というエッセイで「これは自分の今迄の全作品を通じてもすぐれてゐるものの一つと思う」と書いた、大正10年に書かれた一人称の作品である『私』(『潤一郎ラビリンスVIII 犯罪小説集』や『谷崎潤一郎犯罪小説集』に入っている)と、丹治愛編『批評理論』の中から、東京大学の山田広昭教授による「テクストの無意識はどこにある――精神分析批評」を読んだ。
山田先生の批評では『夢の浮橋』が例として分析されている。先月一橋大学で開かれた研究セミナーで山田先生とお会いすることができ、この本を教えていただいた。
実は、2007年にその351で
糺が澤子と別れるときにいろいろ注文を付けられたとワザワザ記されていることと、この『春琴抄』の件とを結びつけて考えた人は誰もいなかったのだろうか。さらに、『母を恋ふる記』に出てくる「母」に繋げた人はいないのだろうか。
と書いているのだが、やはり結びつけた方はいらっしゃったのだ。それをテクストから論理的に説明する著述に出会うことができたのはとても嬉しい。特に、第2の母に心臓の疾患があることを知っていた人物が、糺と医師だけであるということを示す記述には、その頃から頭に浮かび始めた加藤医師の件と合致するものを感じ、心強く思った。
お会いしたセミナーでは、加藤医師と糺の父との会話が距離を感じさせるためなのか、いくぶん標準語らしくしているという話をさせていただいた。これは伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』に書かれていることなのだが、実際に該当個所を読むと何とも言えない距離を感じるのだ。この時、山田先生の表情がすっと引き締まり、メモをとられていた。
ここであらためてその個所を読んでみると、次のようになっている。
また、父親が二度目の妻を娶りたいと「糺」に告げるところや、遺言、青年期になった「糺」、父親の主治医である「加藤医師」の会話のあたりは、幾分か標準語らしく、間接話法めかして書きましょう、と、先生は指示された。
となっている。重要なシーンばかりだ。つまり、父と加藤医師だけでなく、糺をも含めた関係性がこの言葉の使い方に含まれていることを示しているのかもしれない。
講演者であるアンヌ・バイヤール=坂井先生とお話しができたのもとても有意義だった。研究者でもない素人が場違いなところに出て行ってどうしたものかと思ったが、勇気を出した甲斐があったというものである。
『私』は、やはり一人称の小説なのだが、語り手が犯人という構図のものだ。そして最後に結構長めに主人公が語るのだが、これが谷崎が悪人意識を持つようになって以降、生涯にわたる理論だったのかもしれない。ここでは語り手は決して嘘はついていないのだが、読者はどうしても語り手の無実を信じてしまう。語り手と彼を疑うもう1人以外の登場人物も、もしやと思いながら、そう思うことは己を賤しめることだと思い、主人公を疑わないことを選ぶのだ。つまり、『夢の浮橋』で糺が沢子について言っているようなことを読者も登場人物も考えるわけである。
ただ、『夢の浮橋』は話をもっと複雑にしている。糺は、読者がそういう心理を持っていることを十分承知のうえでこの告白を書いているのだ。
そういえば、以前『黒白』について書いたが、これもこの系列の作品だったのかもしれない。この作品では、罪をなすりつけるための人物も登場する(『春琴抄』では利太郎に相当し、『夢の浮橋』ではこれにさらに1クッション入る)が、話の流れでもはやひっくり返せない状況になり、それを拷問で告白するのでは意味がないということで中断やむなきに至ったのではないかと、『私』を読んで思い至った。
『探美の夜』は小説だが、モデルが大変はっきりしているものだ。著述の方針として、著者はあとがきで次のように書いている。
私は根と葉とを丹念に調べるために出来るだけ多くの土地に行き、多くの人々に逢ったのにすぎない。だから此処に書かれている限り根と葉とに於ける正確は保証するが、登場人物の心理や行動については保証しない。それは私のものであってモデル自身のものではないからである。
実際、当時は谷崎も生きていたし、当事者の中にも生きている方がいらっしゃったため、幾人かについては抜かしてあり、別の人のエピソードとして書かれているところがあるが、妹尾夫人の死の経緯については十分な資料になると思う。
『アンナ・カレーニナ』は、シチェルバッキー家の3姉妹やその夫やその兄弟を中心とした物語だが、この作品の男性登場人物にはことごとく谷崎を見てしまった。『細雪』や『蓼喰う虫』等への影響も見られる。この作品が実母亡き後、いや、小田原事件後の谷崎の私生活のフィクション化の台本だったのではないだろうか。
実際、晩年にニコライ教会派のキリスト教徒になり、男の子は1人だけ残して長女と三女に婿を取り「己は馬車に乗るようになる」と言った『幼少時代』に書かれている祖父の言動は、まるでシチェルバッキー老侯爵になろうとしていたようだし、『幼少時代』全般を通じて谷崎や他の兄弟の境遇についてある疑いを持つように誘導されている気配があるが、これは『夢の浮橋』のストーリーへの布石だったのかもしれない。
次回以降、これらの資料について詳しく見ていきながら、加藤医師および『夢の浮橋』全体の謎について迫ってみたい。







