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2010 年 1 月 14 日

その431 『夢の浮橋』と『幼少時代』

カテゴリー: 小説・作家 — みよこ @ 4:19 PM

その430で予告させていただいたが、『幼少時代』の気になるところを再び確認していたところ、『夢の浮橋』と『幼少時代』に書かれている年齢がシンクロしていることが確認できた。2005年にその280を書く時に作った年表(糺の生まれたときからになっているが、これを最初の母16歳の時から作っていたら、2人の母の関係や乳母の位置が浮かび上がってきたのではないかと思う)を見ながらそれらを検証してみたい。
なお、この過程で、『春琴抄』の春琴と佐助の別のモデル(谷崎の伯父と伯母、いずれも谷崎の両親の実の兄であり姉である)や、春琴の失明に菱田春草の名前や市川新造のエピソードを引いているらしいこと、それから佐助が眼を潰すのも幼時に見た歌舞伎から来ているらしいのを見つけたが、これはまた別の話なので、またの機会に書くことにする。

さて本題だが、糺の年齢を基準に、谷崎が同じ年齢だった頃の『幼少時代』の記述を引用してみることにする。

○糺6歳 生母が子癇で亡くなる

東京ではどの程度の地震だったのであろうか。私のおぼろげな印象に依ると、それは二十七年のよりはずっと小さかったような気がするので、弱震というくらいのものではなかったろうか。私は地震そのものよりも、母の慌てかたを見て自分も慌てた。母は夢中で、家の前の往来を亀嶋川の方向へ向かって走って行ったが、私も後から追って行った。母は寝間着のまま素足で地面を歩いていた。その時分亀嶋川の岸から二、三軒手前の左側に、私たちのかかりつけの松山セイジという医師の家があったが、母はそこまで駈けて行って、そこの玄関の式台に上った。そうこうするうちに地震が止み、ばあやが漸く追い着いて来たが、母の白い小さい素足が、足の蹠だけ泥にまみれて、まだぶるぶると顫えが止まらないでいた。

ばあやに聞くと私は六歳ぐらいまで母の乳を吸ったというのであるが、自分にもその記憶がある。それもやはり南茅場町の最初の家においてのことで、もうその時は精二がいた。私は、精二が乳を吸ったあとで、母の膝に腰かけて乳房をいじくりながら吸った。
 「まあ、可笑しいこと、大きななりをして」
 などと、傍からばあやに笑われながら吸っていると、母もちょっと羞渋むような顔をしながら吸わせていた。

○糺9歳 父が第2の母と結婚し、第2の母の乳を吸う(母乳は出ない)

私は両側から家が崩れ落ちて来るのを恐れつつ、無我夢中で一丁目と二丁目の境界の大通りへ出、活版所の方へ曲がる広い四つ角の中央に立った。と、前から私と一緒だったのか、その時私に追い着いたのか、私は始めて、母が私をぎゅっと抱きしめているのに心づいた。最初の急激な上下動は既に止んでいたけれども、地面は大きくゆるやかに揺れつつあった。私たちが抱き合って立っている地点から、一丁ほど先の突き当たりにある人形町の大通りが、高く上ったり低く沈んだりするように見えた。私の顔は母の肩よりなお下にあったので、襟をはだけた、白く露わな彼女の胸が私の眼の前を塞いでいた。見ると私は、さっきは確かに氷あずきを食べていて、地震と同時にそれを投げ捨てて戸外へ走り出したはずだのに、いつの間に何処でどうしたのか、右手にしっかりと習字用の毛筆を握っていた。そして四つ角の真ん中で相抱きつつよろめき合っている間に、私は母の胸の上へ数条の墨痕を黒々と塗りつけていた。
その四つ角からは、の店と活版所とが同じくらいな距離にあったが、地震が収まると、母は家へは帰らずに、私の手を曳いて真っ直ぐ活版所の祖母の許へ行った。三年前の十月二十八日の朝、裏茅場町の往来を裸足で逃げて、松山医師の玄関へ辿って行った時の記憶が、鮮やかに私に蘇生った。今度も母は活版所の上り框へ腰かけて、泥だらけの足をバケツで洗った。

母はその時分まだの店がどうやら営業しつつあった間に、精二の弟に当る三番目の男子を挙げたが、生れ落ちると怱々、その子を千葉県東葛飾郡の、法華経寺で有名な中山村へ里子にやってしまった。母が我が子を里子に出したのはこれが最初で、その後女の子を二人までも手放すようなことになり、結局はこれらの三人を皆里流れにしたのであるが、三男の子を出した時は初めての経験だったので、どんなにか辛かったことと想像される。中山から里親が迎いに来て、その子を人力車に乗せて行くのを、泣き〳〵何丁も追いかけて行って別れを惜しんだという話を、後に私は母の口から聞いたことがあった。だが、そんなにまで悲しい思いをしてその子を他家へ預ける必要があったのであろうか。里扶持を払うにしてからが、贅沢に慣れた町の家庭で育てるよりは経済であるというような意味があったのであろうか。それにしても、その考は父から出たことなのか母から出たことなのか。谷崎家は先祖代々子供を里に出す習慣があるのだ、お祖父さんだって男の子を三人までも手放しているではないかと、父にそんな風に説かれて、母も漸くその気になったのでもあろうか。

このあたりは、その389も併せて読んでいただければと思う。

○糺13~14歳頃 母と一緒に寝ることがあった

ばあやのおみよが死んだのは私の十二、三歳ぐらい、でなければせいぜい十四歳ぐらいの時であったが、はっきりした記憶はない。彼女は乳母を止めてからは女中代りに台所で働いていたが、或る晩流し場の前の板の間に屈んで、食事の後の洗いものをしていると、急に体が左の方へ傾き、鼻から夥しく血が流れ出してバケツに一杯以上も溜った。松山医師が直ぐに来てくれて、脳溢血と分かったので、それから暫く女中部屋に寝かして置いたが、幾日かを経て、麻布の十番に住んでいる娘の夫婦に引き取られて行き、間もなく亡くなったという知らせが来た。私が生れた時からの奉公人で、並一と通りの関係とは違うのだけれども、生憎な時に死んだので、恐らく遺族に対しても十分なことをしてやる訳には行かなかったであろう。
(中略)
新たに雇い入れた女中が、無断で暇を取って桂庵へ逃げて帰ってしまうことも珍しくなかった。用足しにやると、何時間たっても戻って来ないので、変だと思って女中部屋を調べると、当座の身の回りの物がなくなっている。
 「おや、また逃げて行っちまった」
と、両親が顔を見合わせてガッカリする。それはよいとして、次の女中が来るまでの数日間、もしくは十数日間は、私にとって最悪の日がつづくのであった。
(中略)
で、女中のいない日は父が母より先に起きて、火をおこしたり、竈を炊きつけたりしたが、私もときどき父の代わりを仰せ付けられた。冬の朝など、まだ蔵座敷に行灯がともっていて、両親が寝床にいる時分に、私一人だけ早起きをして、台所の用をするのであったが、夕方のランプ掃除や折々の使い走りにも増して、このことが何よりも味気なかった。

こうして並べてみると、『夢の浮橋』で糺の身の上に何かが起こった年齢は、谷崎にとっても自分の境遇に重大な変化が訪れる可能性があったり、実際にあった時なのがわかる。

谷崎が母と歌舞伎を見てきた帰りのシーンでは

わけても私は、私の母と同じ年恰好の女が、忠義や貞節を全うするために自害をしたり、夫に刺されたり、最愛の子に別れたりする場面を見た暁には、自分の母が万一そんな羽目になったらどうするであろうか、自分の母も忠義のためや貞節のためには私を捨てたり殺させたりすることがあるだろうか、などと考えながら俥に揺られつつ家路を辿った。

と書かれている通り、特に10歳頃から15、6歳に達するまでの谷崎は、自分の境遇について色々と空想を巡らしていたらしい。『幼少時代』の記述自体にもそれらの網がそのまま被されているようで、行間からそれらの幻影が浮き出してくる。そしてそれらの幻影がそのまま『夢の浮橋』の中にも漂っているように感じられるのだ。

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