『夢の浮橋』は、第1稿の完成までは終始和やかに進み、そのまま決定稿の筆記に入ったところで雲行きが変わったことが、伊吹和子著『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』に書かれている。その経緯をかいつまんで引用してみる。
先生は、総じて自分の作品について、目の前で話をされるのを、非常に嫌われたし、執筆中の雑談も稀であったのに、この初稿の時だけは、毎日何かと楽しそうに話をされた。松子夫人は、夕方私が退勤する時、毎日のように石段の下まで見送って、「主人が、伊吹さんがよく話の相手になってくれて嬉しい、って言ってますのよ、ほんとに、よろしくね」とおっしゃった。
八月一日、嶋中鵬二氏が熱海に来られ、『夢の浮橋』が九月発売の「中央公論」十月号に掲載されることに決った。ついでに私には、中央公論社からの正式の辞令が、間もなく届くだろうと伝えられた。(中略)私は、先生が手の痛みも忘れて口述を続け、京言葉をはじめ、小さな思いつきなどを、すべて参考になると言って取り上げて下さるのが嬉しくてならず、何とかもっと、先生の意に添った文字をスムーズに並べられるようにと、送り仮名などのいわゆる「谷崎文法」の疑問点を書き出し、当時出版部に所属してその前年から刊行されていた『谷崎潤一郎全集』(新書版)の編集に携わっておられた、本社の綱淵謙錠氏に送って、ご教示を仰ぐことにした。
『夢の浮橋』の第一稿が完了したのは、八月十三日のことであった。直ちに、今度は原稿用紙を拡げて、決定稿の筆記にかかった。その日の夕方は、第一稿完成のお祝いの宴が張られたが、その頃から降り出した雨が、だんだんと強まり、風も激しくなって、深夜にはひどい嵐になった。
どういうわけか、その日から、先生のご機嫌が俄かに悪くなった。(中略)私が知人に協力を求めて集めた資料も、「用がすんだものは、さっさと焼き捨ててしまってください!」と、いらいらして叫ぶように言われた。(中略)そして、そんな状態のまま、日曜日も返上して原稿用紙に向い、二十三日に第二稿を完了、二十五日には中央公論社に渡さなければならないとあって、引き続いて休みなく、推敲が重ねられた。
決定稿で、糺の母の名が変更された。実は初稿ではまず「有為子」という名がつけられたが、それは、先生が普段から、小説に使いたい名前を書きためておられたリストから、選ばれたものであったと記憶する。一時は「虢(かく)」という名も候補になった。「虢」とは、中国の春秋時代の国名で、楊貴妃に三人の姉があり、その中の次姉が「虢国夫人」の称を賜ったということであったが、(中略)しかし、何分にもむずかし過ぎるという理由から「虢」は中止になった。
「茅渟」の名は私に、当時から四年前の昭和三十年に詠まれた、
茅渟の海の鯛を思はず伊豆の海にとれたる鰹めしませ吾妹
という先生の歌を思い出させた。
「糺」の生母の名が、「有為子」や「虢」から「茅渟」になったのと同様に、継母の名も初稿は「経子」ではなくて、「静子」または「静」であった。(中略)実は旧作『蘆刈』(昭和七年)の登場人物「おしづ」と共通するものである。推敲の途中で、先生は、イライラしながら、
「静子じゃなくて、つねこ。ケイザイのケイの字にルビ。お経って字!」
とおっしゃった。
二十五日の夕刻、小滝穆氏が見えた。(中略)先生は、とてもこのまま全部を渡すわけには行かない、と言って、とりあえず前半、「糺」の父の遺言のあたりまでを同氏に預け、残りは、出来次第私が編集部に届ける、ということにされた。今も私の手許にある初稿ノートもちょうどこの辺で一杯になっているから、後のノートはこの時に、どこかへ紛れてしまったのかも知れない。
小滝氏は書斎の入口で私とすれ違い様に、あとでちょっと僕の宿へ寄るように、と囁かれた
(中略)
「先生の御機嫌が悪いんでしょう? 大分やられてますな」
とおっしゃった。私が、でも、お手が痛むので無理もないのでしょう。奥様が大変心配して、よろしく頼むと、いつもおっしゃいます、私の筆記が至らなくて先生をいらいらさせてしまっても、奥様が何かととりなして、庇ってくださるので……と言いかけると、小滝氏は、
「やっぱり判らないんだなあ。それはあなた、あまり先生の役に立ち過ぎて、松子さんを怒らせてるってことなんだよ。でも、まあ、あなたに、あんまり人の心の裏を読むことを教えちまっちゃ、まずかいな」
と言って、喉の奥で、く、と笑い声を立てられた。
松子夫人だけでなく、きっと小滝氏をも怒らせていたのだろう。
小滝穆氏については、『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』も併せて読むと、そのキャラクターが見えてくる。
伊吹氏は、遥か後になって小滝氏の言いたかったことを推し量ってみたこともあったが、ここでは触れないと書いているが、これで大体想像はつくと思う。谷崎もお見通しだったのだろう。この騒動が、初稿では故人になっていたはずの乳母が糺に言う次のせりふに活きているように思う。
近頃めったに寄りついたこともない彼等が、誰からどういう噂を聞いて左様な憶測をするようになったのか、私には不思議であったが(中略)
「ぼんさん、気イおつけやすや、世間の口に戸オは立てられんて云いますけど、人は他人のこととなると、えらいこと云うもんでござりまっせなあ」
乳母は語り終わると、ちらりと妙な横眼を使って私を見た。
ということで、いろいろな障りから短い時間で原稿を修正せざるを得なくなったわけだが、乳母が生き返ったということは、初稿では沢子が母を殺すことになっていたのが、そうできなかったからではないかと想像する。
沢子については、これまでも書いてきたとおり、千萬子さんではなく千代夫人を投影しているように思う。沢子の容姿について、細面の、色白の、瓜実顔の浮世絵式容貌とか、その頃はときどき高島田に結って来たが、浮世絵式の彼女の顔がその髪型によく映ったと書かれているからだ。谷崎と千代夫人との結婚式の写真を見るとよくわかるのではないかと思う(谷崎潤一郎 新潮日本文学アルバムなどに掲載されている)。
もし千代夫人を悪女にすることができれば、乳母の復活は必要なかったということだろう。
そこで本題だが、伊吹和子著『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』には、発表時の酷評でこの作品に対する自信を失いかけていた谷崎が、水上勉著『越前竹人形』(あらすじはディアクオーレ成城のサイトをご覧下さい)を読んで、その感想を書いたことからこの作品に対する谷崎の評価が好転したのではないかということが書かれている。ちなみに『越前竹人形』の京都弁を担当したのは、伊吹氏である。
『「越前竹人形」を読む』で、谷崎は次のように書いている。
そういえば京都弁ばかりでなく、いろ〳〵の点で水上君のこの作品は私の「夢の浮橋」を思い出させるものがある。(中略)「夢の浮橋」では息子の糺が父の生前にその命を受けて継母の経子を事実上の妻とするのであるが、竹人形では喜助が最後まで玉枝を実の母のように慕い、彼女と同棲しながらも妻にすることを拒む。そこが「夢の浮橋」と違っているけれども、玉枝の方は父に愛されたように子にも愛されたいと願い、いつかは喜助が自分を抱いてくれる日のあることを期待する。心持の上では「夢の浮橋」と似通っている。
そして次のような文章で締めくくっている。
しかし今度の作品は推理小説めいたところのないのがいい。推理小説だから悪いと決った訳ではないが、推理と言うことに囚われ過ぎると、どうしても調子の低い、不自然なものになりがちである。忠平とのいきさつや流産のところなど、扱いように依ってはもっとあくどくエロに書けるのに、わざとそれを避けているのもいい。作者がそれを意識していたかどうかは分からないが、何か古典を読んだような後味が残る。筋に少しの無理がなく自然に運ばれているのもいい。玉枝を竹の精に喩えてあるせいか、何の関係もない『竹取物語』の世界までが連想に浮んで来るのである。
これについては、水上勉も喜助を行方不明にさせようとしたり、玉枝に子を宿させた京都の人形屋の番頭が死体で発見される場面を考えたり、玉枝をどこで殺したらいいだろうかとか言っていたそうだが、伊吹氏が帰り際に
この美しい物語に血なまぐさい事件はそぐわないのではないでしょうか
と言ったことにより、翌日には書き直してあったことが『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』に書かれている。
『夢の浮橋』も、物語の裏ではかなりサスペンスなことが起きているように思うが、『越前竹人形』を読むことで、そういうものを美しい世界の後ろ側に隠した『夢の浮橋』の良さを再発見できたのではないだろうか。そしてまた、千代夫人を悪女にしないで良かったと思ったのではないかと私は思う。
1回休んで、次は乳母や加藤医師について考察してみたいと思う。