『春琴抄』を改めてじっくり読み直してみたところ、『夢の浮橋』との間に見過ごし難い共通点、あるいは相違点を見つけた。『春琴抄』の「佐助犯人説等(お湯かけ論争)」や、『夢の浮橋』の、糺の語らないところを埋める資料にもなると思うので、列記してみたい(引用文:谷崎潤一郎文庫, 六興出版, 昭和53年)。
〔告白の信頼性〕
○温井琴台(佐助)著『鵙屋春琴伝』(架空)に対する著者の評価
これらの記事が春琴を視ること神の如くであったらしい検校から出たものとすればどれほど信を置いてよいかわからないけれども彼女の生れつきの容貌が「端麗にして高雅」であったことはいろいろな事実から立証される。
○乙訓糺著『夢の浮橋』(小説全体)
ここに記すところのすべてが真実で、虚偽や歪曲はいささかも交えてないが、そういっても真実にも限度があり、これ以上は書くわけには行かないという停止線がある。だから私は、決して虚偽は書かないが、真実のすべてを書きはしない。父のため、母のため、私自身のため、等々を慮って、その一部分を書かずにおくこともあるかもしれない。真実のすべてを語らないことは即ち虚偽を語ることである、と云う人があるなら、それはその人の解釈のしようで、あえてそれに反対はしない。
〔奉公人の出身地〕
○佐助(春琴抄)
江州日野町(現:滋賀県蒲生郡日野町)
○乳母(夢の浮橋)
江州長浜(現:滋賀県長浜市)
〔登場人物のかかった病気(クライマックスを除く)〕
○春琴の失明(鵙屋春琴伝および鴫沢てるの証言を総合した著者の見解)
一番下の妹に附いていた乳母が両親の愛情の偏頗なのを憤って密かに琴女を憎んでいたという。風眼というものは人も知る如く花柳病の黴菌が眼の粘膜を侵すときに生ずるものであるから検校の意は、蓋しこの乳母がある手段を以って彼女を失明させたことを諷するのである。しかし確かな根拠があってそう思うのか検校一人だけの想像説であるのか明瞭でない。
○最初の母の死因(夢の浮橋)
私を生んでくれた母は私が数え年六つの秋、あの玄関の前の橡の葉が散り初める頃、私の弟か妹にあたる胎児を宿しつつ、子癇という病気に罹って二十三歳で死んだ。
○父の死因(夢の浮橋)
腎臓結核で、しかも致命的な症状であることが明らかになった。というのは、どちらか片側の腎臓が冒されているのであったら、それを摘出すれば一応は助かる望みがある。もっともそれでも予後が悪くて三四割は死ぬのである。然るに父の場合は不幸にして左右の腎臓が冒されているので、如何ともし難い。
〔クライマックスでヒロインが受難する前の状況〕
○春琴の場合(春琴抄)
極端に奢侈を好む一面極端に吝嗇で欲張りであった。
(中略)
畢竟彼女の贅沢ははなはだしく利己的なもので自分が奢りに耽るだけ何処かで差引をつけなければならぬ結局お鉢は奉公人に回った。彼女の家庭では彼女一人が大名のような生活をし佐助以下の召使は極度の節約を強いられるため爪に火を燈すようにして暮らしたその日その日の飯の減り方まで多いの少いのと云うので食事も十分には摂れなかったくらいであった
○第二の母の場合(夢の浮橋)
たまには三人で観劇や遊山にも出かけたが、母は金遣いが細かい方で、わずかな金銭の出入りにも気を配り、私達にも努めて冗費を省くように誡めていた。特に沢子に対しては監督が厳しかったので、台所の帳面を預かる彼女は相当に気を遣った。母がますます色つやがよくなり、頤が二重頤になりかけ、これ以上太ったら醜くなるという程度に肥えて来たのは、父の生前に比べて気苦労がなくなった証拠と思えた。
〔事件の状況〕
○鵙屋春琴伝
佐助は春琴の苦吟する声に驚き眼覚めて次の間より馳せ付け、急ぎ燈火を点じて見れば、何者か雨戸を抉じ開け春琴が伏戸に忍入りしに、早くも佐助が起き出でたるけはひを察し、一物をも得ずして逃げ失せぬと覚しく、既に四辺に人影もなかりき。此の時賊は周章の余り、有り合はせたる鉄瓶を春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪を欺く豊頬に熱湯の余沫飛び散りて口惜しくも一点火傷の痕を留めぬ。素より白璧の微瑕に過ぎずして昔ながらの花顔玉容は依然として変らざりしかども、それより以後春琴は我が面上の些細なる傷を恥づること甚だしく、常に縮緬の頭巾を以って顔を覆ひ、終日一室に籠居して嘗て人前に出でざりしかば、親しき親族門弟と雖もその相貌を窺ひ知り難く、為めに種々なる風聞臆説を生むに至りぬ
○鴫沢てるその他二三人の証言
賊はあらかじめ台所に忍び込んで火を起こし湯を沸かした後、その鉄瓶を提げて伏戸に闖入し鉄瓶の口を春琴の頭の上に傾けて真正面に熱湯を注ぎかけたのであるという最初からそれが目的だったので普通の物盗りでもなければ狼狽の余りの所為でもないその夜春琴は全く気を失い、翌朝に至って正気付いたが焼け爛れた皮膚が乾き切るまでに二ヵ月以上を要したなかなかの重症だった
○春琴死後の佐助が門弟に語ったこと
春琴が兇漢に襲われた夜佐助はいつものように春琴の閨の次の間に眠っていたが物音を聞いて眼を覚ますと有明行燈の灯が消えてい真っ暗な中に呻きごえがする佐助は驚いて飛び起き先ず灯火をともしてその行燈を提げたまま屏風の向こうに敷いてある春琴の寝床の方へ行ったそしてぼんやりした行燈の灯影が屏風の金地に反射する覚束ない明りの中で部屋の様子を見廻したけれども何も取り散らした形跡はなかったただ春琴の枕元に鉄瓶が捨ててあり、春琴も蓐中にあって静かに仰臥していたがなぜか呍々と呻っている佐助は最初春琴が夢に魘されているのだと思いお師匠さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺り起こそうとした時我知らずあと叫んで両眼を蔽うた佐助佐助わては浅ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴もまた苦しい息の下から云い身悶えしつつ夢中で両手を動かし顔を隠そうとする様子に御安心なされませお[かお(白の下にはち)]は見は致しませぬこの通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛んだものかそのまま人事不省になった。(中略)これほどの大火傷に面体の変わらぬはずがあろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が恢復するにつれて一層云い募り、医者の外には佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌がり膏薬や繃帯を取り替える時は皆病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間焼け爛れた顔を一と眼見たことは見たけれども正視するに堪えずして咄嗟に面を背けたので燈明の灯の揺らめく蔭に何か人間離れのした怪しい幻影を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その痕は常に繃帯の中から鼻の孔と口だけ出しているのを見たばかりである
○第二の母(夢の浮橋)
そんな風にして足掛け三年を過ごしたが、私が大学三年生であった年の初夏、六月下旬の夜十一時頃であった。寝入りばなの私は沢子に強く揺り起こされて眼を覚ました。
「お母さんがえらいこってすのや、起きとくりやす」
と沢子は云って、急いで私を母の寝室へ引っ張って行った。
「お母さん、どうしたんや」
母は何とも答えず、俯きに臥て枕を両手で苦しそうに摑み、微かなうめき声を洩らしていた。
「あんた、これやのどすがな」
沢子はそう云って、母の枕元の畳の上に伏せてある団扇を取って除けて見せた。団扇の下には一匹の大きな百足が、押し潰されて死んでいた。事情を聞くと、その夜沢子は十時過ぎから母の云いつけで治療に勤め、肩から腰を揉み終わって、右足の踝を揉んでいる時であった。それまですやすやと寝息を立てていた母が、にわかに苦悶の声を発して、足の指を痙攣させた。沢子が驚いて仰向きに寝ている母の顔を覗き込もうとすると、百足が胸の心臓部に近いところを這っているのを認めたので、仰天した彼女は怖いことも何も忘れて、あり合う団扇で払い除けると、いいあんばいに弾き飛ばされて畳に落ちたので、団扇の上から手で押し潰した、というのであった。
○第二の母治療の状況(夢の浮橋)
加藤医師がすぐ駆けつけて応急の処置を取り、注射をつづけざまに打ったが、母の苦悶は刻々に増して行った。血色、呼吸、脈搏、等の状態は、最初に私達が考えたよりも重大な容態にあることを示した。加藤氏はつききりであらん限りの手を尽くしたが、夜が明ける頃には危篤に陥り、間もなく母は死亡した。「ショック死と考えるより外考えようがありません」と、加藤氏は云った。
〔容疑者(長くなるので概略を改行を入れて記述)〕
○春琴にお湯をかけた容疑者
・利太郎
なかなかの放蕩者でかねてより遊芸自慢であったがいつの頃よりか春琴の門に入って琴三味線を習っていたこの者親の身代を鼻にかけ何処へ行っても若旦那で通るのをよいことにして威張る癖があり同門の師弟を店の番頭手代並みに心得見下す風があったので春琴も心中面白くなかった
そこは例の附け届けを十分にたっぷり薬を利かしているので断りもならずせいぜい如才なく扱っていた。然るにさすがのお師匠さんも己には一目置いているなどと云い触らし殊に佐助を軽蔑して彼の代稽古を嫌いお師匠さんの教授でなければ治まらずだんだん増長する様子に春琴も癇癖を募らせていた
父親九兵衛が老後の用意に天下茶屋の閑静な場所を選び葛家葺の隠居所を建て十数株の梅の古木を庭園に取り込んであったがある年の如月に此処で梅見の宴を催し、春琴を招いたことがあった。
やがて夜に入り座敷を変えて再び宴を開いた時佐助どんあんたも疲れたやろお師匠はんはわいが預かる、あっちに支度したあるさかい一杯やって来とくなはれと云われるままに、無闇に酒を強いられるうち腹を拵えておくに如かずと佐助は別室に引き退って先に夕飯の馳走を受けたがご飯をいただきますというのを銚子を持った老妓の一人がべったり着き切りでまあお一つまあお一つと重ねさせるお蔭で思いの外時間をつぶしたが食事を済ませても暫らく呼びに来ないので其処に控えていた間に座敷の方でどういうことがあったのか、佐助を呼んで下されと云うのを無理に遮り手水ならばわいが附いて行ったげると廊下へ連れて出て手を握ったか何かであろう、いえいえやはり佐助を呼んで下されと強情に手を振り払ってそのまま立ちすくんでいる所へ佐助が駆け付け、顔色でそれと察した。
また明くる日からずうずうしくも平気で稽古にやって来たのでそれならば本気でたたき込んでやる真剣の修行に堪えるなら堪えてみよとにわかに態度を改めてピシピシと教えた。
遂に春琴は「阿呆」と云いさま撥を以って打った弾みに眉間の皮を破ったので利太郎は「あ痛」と悲鳴をあげたが、額からぽたぽた滴れる血を押し拭い「覚えてなはれ」と捨て台詞を残して憤然と座を立ちそれきり姿を見せなかった。
・北の新地辺りに住む某少女の父親
この少女は芸者の下地ッ子であったからみっちり仕込んでもらうつもりで稽古のつらさを怺えつつ春琴の門に通っていたところある日撥で頭を打たれ泣いてい家へ逃げ帰ったその傷痕が生え際に残ったので当人よりも親父がカンカンに腹を立てて捻じ込んだ多分養父ではない実父だったのであろう何ぼ修行だからといって年歯も行かぬ女の子を苛むにも程がある、売り物の顔に疵をつけられこのままでは済まされないどうしてくれると大分過激な言辞を使った
・その他、同業師匠連等多数
ここに全然意外な方面に疑いをかけようとする有力な説があって曰く、おそらく加害者は門弟ではあるまい春琴の商売敵である某検校か某女師匠であろうと。別に証拠はないけれども或いはこれが最も穿った観察であるかも知れない蓋し春琴が居常傲岸にして芸道にかけては自ら第一人者を以って任じ世間もそれを認める傾向があったことは同業の師匠連の自尊心を傷つけ時には脅威ともなったであろう。
斯くいろいろと疑い得らるる早晩春琴に必ず誰かが手を下さなければ済まない状態にあったことを察すべく彼女は不知不識の裡に禍いの種を八方へ蒔いていたのである。
○第二の母(夢の浮橋)
・沢子
私が駆けつけた時は母は俯いて苦悶していたが、その前は仰向けに臥ていたと沢子は云う。ところで、一つ私の腑に落ちないのは、足をさすっていた沢子が驚いて母の顔を見ようとした途端に、心臓の付近を這っていた百足を認めたということである。その時母は胸を露わにしていたわけではなく、寝間着を着ていたのであるから、寝間着の下を這っていたはずの百足を偶然見かけた、というのはおかしい。前からそこにその虫がいたことを、沢子は知っていたのである、と考えることもできる。
繰り返して云うが、これは飽くまでも私の単なる空想であって、想像を逞しくすればそういう仮説も成り立ち得る、というに過ぎない。
〔ヒロイン死後の子供の扱いからラストまで〕
○佐助の場合(春琴抄)
触覚の世界を媒介として観念の春琴を視詰めることに慣らされた彼は聴覚によってその欠陥を充たしたのであろう乎。人は記憶を失わぬ限り故人を夢に見ることができるが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死に別れたともはっきりした時は指せないかも知れない。因みに云う春琴と佐助との間には前記の外に二男一女があり女児は分娩後に死し男児は二人とも赤子の時に河内の農家へ貰われたが春琴の死後も遺れ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人の実父の許へ帰るのを嫌った。斯くて佐助は晩年に及び嗣子も妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日に八十三歳という高齢で死んだ察するところ二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよ鮮やかにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天龍寺の峩山和尚が聞いて、転瞬の間に内外を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為に庶幾しと云ったというが読者諸賢は首肯せらるるや否や
○糺の場合(夢の浮橋)
私は離縁を決行すると同時に、楽しい思い出や悲しい思い出の数々をとどめている五位庵をも人に譲って、鹿ケ谷の法然院のほとりにささやかな一戸を構えた。そして黒田村の芹生にいた武を、当人もなかなか帰りたがらず、里親も離したがらないのを強いて連れ戻して、一緒に暮らすことにした。私はまた、故郷の長浜で安らかな余生を送っている今年六十五歳の乳母に、せめて武が十ぐらいになるまで面倒を見てくれるように頼んだところ、まだ幸いに腰も曲らず、孫子の世話をしていた彼女は、「そういうことなら、もう一度ちっさいぼんちゃんのお相手をさせていただきましょう」と、お神輿を上げて出て来てくれた。武の歳は今年七歳、当座はなかなか私や乳母になついてくれなかったが、今では事情を理解してすっかり親しみ深くなった。武は来年小学校の一年生になる。私に取って何よりも嬉しいのは、武の顔が母にそっくりなことである。のみならず、母のあの鷹揚な、物にこせつかない性分を、どうやらこの児も受け継いでいるらしいことである。私は二度と妻を娶る意志はなく、母の形見の武とともにこの先長く暮らして行きたいと考えている。私は幼にして生母に死なれ、やや長じては継母にさえ死なれて、淋しい思いをさせられたので、せめて武が一人前になるまでは生きながらえて、この弟にだけはあのような思いをさせたくないと願うのである。
昭和六年六月二十七日(母命日)
乙訓糺記之