その405 『卍』と『捨てられる迄』、そして『細雪』(その8)
10月末から続いたこの連載も、今回が最後になる。
ここで、『卍』と『捨てられる迄』がどのように似ているか、それから『卍』が後の『細雪』にどのように発展していくかについて書いていきたい。
『捨てられる迄』は、体裁を気にし、恋愛においても自分が上位になることを画策し、そのために駆け引きするような主人公が、彼女と交際していく間に、男子としての体裁をあまり気にしないと思われるライバルの存在を知り、だんだんライバルと同じように変化していき、最後にはそのライバルに破れ、最後に彼女の歴史を飾るべく、彼女の前で華やかに死のうと決意するというお話である。
主な登場人物は、翻訳作品を書いている主人公と、その彼女、彼女の義姉、それから彼女と彼女の義姉と妙に親しく、主人公の作品の愛読者でもある男性である。
彼女はこの主人公と、主人公の作品の愛読者である男性とを天秤にかけ、両方にやきもちを焼かせるようなことをする。初めは主人公に分があるような感じだったのだが、主人公が段々ライバルと同じように女性化していくと共に、形勢が逆転していき、最後はライバルがごく普通の男性になって、彼女と婚約することになる。
彼女はそれほど賢いとは思えないのだが、裏に強力なブレインがいた。それが彼女の義姉である。具体的な方法はあまり書かれていないが、彼女の行動を操っているのが彼女であることは、読んでいるうちに見えてくる。私が見るところ、義姉は、ライバルと主人公と、どちらが自分にとって都合がよいかを天秤にかけていたように感じる。ところがよく考えてみると、ライバルは主人公の本の愛読者である。主人公の心の中はお見通しである。このあたりに陰謀が仕込まれているのではないかと気がついた。
で、これを『卍』の登場人物に当てはめると、『捨てられる迄』の主人公は『卍』の園子の夫、彼女と姉の2人の役割を光子とお梅どんが担うということになる。そして、主人公のライバルが、綿貫栄次郎である。
『捨てられる迄』と『卍』で最も共通する部分が、対照的な2人の男性の性格が似てくるというところである。谷崎は一時、ドッペルゲンガーを思わせる物をよく書いていたが、この2つの作品とも、ある人間が別の人間に次第に吸収され、存在ごととって変わられることになる。表面に現れている自分を壊して、中にいる自分を表に出したいという欲求が働いているのだろうか。したがって、主人公には彼女の歴史の一部になると言わせているが、実際にはそんなことではないということは、その7で取り上げた『日本におけるクリップン事件』の引用でもわかると思う。
ということで、『卍』では、谷崎は園子の夫と綿貫の両方の中にいるということになる。ある時点までは綿貫を和田青年をイメージして物語に登場させていたが、和田青年が自分の前からいなくなった頃から綿貫を自分を乗り移らせる存在として使っていた節がある。そこへ和田青年のいきなりの来訪である。そこで、『卍』の方でも園子の夫に「光っちゃん僕を第二の綿貫にするつもりやねん」と言わせ、具体的にどのように似てきたかを表現する間もなく、いきなり閉じた。
柿内園子が未亡人になることと、光子が亡くなることは初めに書かれていたため、その点はなんとかうまく格好がついたという感じである。
もう1つ、『卍』について考えているうちに、『捨てられる迄』の解釈に変化があった。彼女と義姉の関係である。『捨てられる迄』では、主人公以外にも、それまで何人かの犠牲者があったということがほのめかされている。つまり、義姉は義妹を結婚させたくないから、主人公の愛読者と結託して主人公を排除しにかかったという解釈が成り立つ。例によって、そのあたりの謎解きはしないのが谷崎作品なので、これは私の想像でしかないが、結構自信のある推理である。そうなると、『黒白』の真犯人も主人公の作品のファンである人物以外、他の人間ではあり得ないということになるのである。
さて、『卍』は当初は標準語で書かれていたのだが、途中から園子に関西弁を使わせることになった。こうなると、園子については松子夫人を頭に描いているとしか思えない。実際、柿内家のモデルに根津家の別荘を使い、そこに柿内夫妻の形代に使っていたと思われる妹尾健太郎氏と江田治江さんと、それから谷崎で泳ぎに行っている。で、園子が松子夫人となると、園子の夫が貞之介、光子が松子夫人の妹である信子さんになり、これが後の『細雪』につながっていく。
そうなると、園子の夫に根津清太郎氏をあて、光子(根津清太郎氏と駆落ちした松子夫人の妹である信子さん)に引っ張っていってもらって、谷崎が自分を乗り移らせていった綿貫と園子を残すことで、自分たちの将来を生み出そうとした可能性も考えられなくはない(松子夫人と結婚するつもりはなかったが)。
谷崎は、『「細雪」回顧』で次のように書いている。
あの吹き捲る嵐のような時勢に全く超然として自由に自己の天地に遊べるわけではない。そこにそこばくの掣肘や影響を受けることはやはり免れることが出来なかった。たとえば、関西の上流中流の人々の生活の実相をそのままに写そうと思えば、時として『不倫』や『不道徳』な面にも亙らぬわけに行かなかったのであるが、それを最初の構想のままにすすめることはさすがに憚られたのであった。
つまり、本来はもう少しドロドロしたものにするつもりだったのだが、時勢柄、あのようにおだやかなものになったということである。『卍』はかなりドロドロしているが、お梅どん等、女子衆を介した関西の上流の家庭同士の行き来のシーンなどを読んでいると、そのまま『細雪』を読んでいるような感覚に陥る。
よく、谷崎の転換点になった作品は、『痴人の愛』なのか、『卍』なのか、『蓼喰う虫』なのかという議論があるが、10月末から2ヵ月の間、このテーマでずっと書いてきた私の結論としては、どうやらそれは『卍』ということになりそうだ。(『卍』と『捨てられる迄』、そして『細雪』終わり)







