その399 『卍』と『捨てられる迄』、そして『細雪』(その2)
『卍』の連載が始まったばかりの頃、昭和3年、3月23日付で、谷崎は当時奈良に住んでいた網野菊という人に、3月29日に岡本好文園の谷崎家に来て欲しいという手紙を出している。
この人は、関東大震災後、当時京都にいた志賀直哉を訪ね、以来、彼を生涯の師とした作家だが、谷崎がこの手紙を出すにあたっては、師匠である志賀直哉から彼女の住所を教えてもらっている。このとき志賀直哉は奈良に移転していた。
彼女が志賀直哉に師事するきっかけになったのは、今生の思い出に志賀直哉を訪ねたことらしいのだが、そのあたりはまだあまり詳しく調べられていない。
そのようなことから、谷崎が網野菊を呼んだのは、『卍』のための取材と思われ、この取材が、『卍』の第3回の、園子と光子の若草山での楽しい時間の表現に活かされているようである。
網野菊は、大正5年に『二月』を書き、大正15年に『光子』という小説を発表している(講談社刊『一期一会・さくらの花』に収録されている)。どちらも光子という名前の女性が主人公であり、そのまま彼女自身がモデルになっている。光子には、お梅どんというお付きの女中さんがいる。つまり、光子とお梅どんの関係は、そのまま『卍』と同じである。
しかし、谷崎が網野菊に興味を持ったのは、『光子』よりも『二月』の方が大きかったかもしれない。
『二月』は、彼女が6歳のときに他の男のところへ行ってしまった母が、突然目の前に現れるところから始まる。彼女はそのみすぼらしい姿を嫌い、かなり冷たい態度を母親に対してとる。これを読んだ谷崎は、将来鮎子が千代夫人に対してこのような態度をとりはしまいか、それより何より、千代夫人がこのようなみじめな状態になりはしないか、相当心配したと思われる。そのため、もしかしたら『卍』のための取材よりも母親に置いていかれた娘の気持ちを聞きたいという気持ちの方が大きかったのかもしれない。それくらい、『二月』は、当時の谷崎には衝撃的だったように思う。千代夫人が果たして和田青年のところに嫁いで、本当に和田の家できちんと受け入れられるのか、谷崎がかなり心配したであろうことは十分に想像される。
さらに、彼女が母親を失ったのが、谷崎にとっても思い入れのある6歳の時だったということ、彼女が東京出身ということも、谷崎には興味深いところだっただろうと思う。
昭和4年の正月、千代夫人が和田青年に嫁ぐことが決まった。鮎子さんは谷崎家に置いてという条件だが、これは谷崎自身、おそらく相当に不安だったのではないかと思われる。というか、もしかしたら和田青年に強引に押し切られたのではないだろうか。
事実、江田(高木)治江さんたちを谷崎家に呼び出したのが昭和3年の末、谷崎から江田さんに仕事の依頼の手紙が来たのが翌昭和4年の1月25日である。そんなときに離婚など、まったくもってありえない。
さらに、2月25日付で佐藤春夫宛に、次のような手紙を出している。『つれなかりせばなかなかに』から引用する。
千代はいよいよ先方へゆくことにきまった。三月中に離籍の手つづきをすませ、四月頃からポツポツ目立たぬように往ったり来たりしてだんだん向ふの人になると云ふ方法を取る。神戸へ家をもつそうなのでそれにハ都合がいいことになつてゐる、従ってまだ発表されてハ困る。
何やかやで僕も今度こそ新聞が書けず弱つてゐる。幸い議会が忙しいので催促もされないが、東京の方ハもう一回も余裕がなくなつている、今日東京から和田の兄なる人が和田と同伴で来訪、スツカリ話がついたのでやや落ち着いた、明日からは書けるだらう。
過日来君ニ会いたい心切であつたが、君を呼んだためニどうなつたかうなな(ママ)つたと、あとで文句が出てハ困ると思ひ差支へてゐた。お千代も一ぺん君に相談しやうかと云つた事もあつたが僕が止めた。志かしもうきまつてしまへバ構わないから一度会ひたい。こちらから出ても行きたいが新聞があるのでさうも行かぬ。来てくれれば大へんありがたい、今度は家もひろいから仕事を持つて来ても大丈夫だ。
妻が果たして相手方の家に受け入れられるかについては、確か『蓼喰う虫』の要が心配していたと思うが、これについては兄なる人を連れてくることでパスということなのだろうか。
しかし、こうなるともう、表面上の言葉とは裏腹に、この手紙は、佐藤春夫に和田青年との結婚話を壊してもらうことを期待して書いたとしか(佐藤春夫の心をつかむ殺し文句はきっちり入れている)、私には思えないのである。(その3に続く)
2008-11-04
最後の手紙の文を、瀬戸内寂聴著『つれなかりせばなかなかに―文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相』から引用し直し、若干の補足を加えました。
2008-11-06
不確実な部分および誤りと思われる部分を削除、修正しました。








『光子』より『二月』と書きましたが、これは『蓼喰う虫』での要の心配からまず浮かびました。
でも、『光子』もやはり大きかったようです。
『光子』は、二番目の母の機嫌を始終伺いながら、母の機嫌を損ねないように、過度に自分を合わせていく主人公の姿が描かれています。
これには将来の鮎子さんに対する心配も浮かんだと思いますが、それよりも谷崎自身がそういうところを持つために、なおさら会って話を聞きたくなったのかもしれないと思いました。
それから、『卍』を書く動機についても、昭和2年の芥川龍之介の自殺と絡めて、自分に引き寄せて興味を持ったのではないかという仮説が、私の中に生まれてきました。
コメント by みよこ — 2008 年 11 月 3 日 @ 3:47 PM
> (佐藤春夫の心をつかむ殺し文句はきっちり入れている)
というのは、この手紙を読んだ佐藤春夫は、
「そんな馬鹿なことがあるものか。これでは肝心のお千代の気持ちが二の次ではないか。」
といきり立つこと必定だと思うのです。
また、「君を呼んだためニどうなつたかうなな(ママ)つたと、あとで文句が出てハ困ると思ひ差支へてゐた。」というのも、かえって壊してくれと言っているようなものに思えます。
コメント by みよこ — 2008 年 11 月 4 日 @ 2:36 AM