『卍』は、雑誌「改造」に昭和3年3月から断続的に連載され、5年4月で終わった。その間、確認している範囲で4年6月と4年11月に休載されているので、計24回ということになる。
新潮文庫版を見ると、その33で終わっている。ということは、1号に1~2話ということになる。江田治江さんが助手を引き受けたときには、少ししか進んでいなかったという証言があるので、当初は1号1話だっただろう。そして、江田さんが助手を担当したのが4年の2月号からなので、『卍』の連載が始まってから12号目からということになる。
ところで、昭和4年2月には、松子夫人の夫、根津清太郎氏が、松子夫人の実妹信子さんと駆落ちしている。1月に松子夫人が恵美子さんを産んだばかりの時である。
その九、その十では、綿貫と光子が宿屋で着物を盗まれるという事件が起こり、園子が光子と揃いの着物を届けるという事件が起きている。もしかしたらこの件も参考にされているかと思ったが、んー、少し時期がずれているか。
でも、駆落ちをする前に、ここまで行かなくても、松子夫人がこの2人のことを知らざるを得ない事件が起こっていたとしたら、それをその九~その十へ続く事件の参考にしたということもありえる。
これに続いて、今度は光子の妊娠事件が起こる。これは、結局光子による狂言ということになるのだが、このリアリィーは何だ。もしかしたらここでは千代夫人の妊娠・中絶騒動が、ある程度そのまま写し取られたのかもしれない。ただ、今の感覚からすると随分と乱暴なと思える表現があるが、当時の闇で堕ろさざるを得ない社会状況と、結局光子の狂言であるということを考慮しての表現と思えば納得はいく。
綿貫の容姿は前にも書いた通り、和田青年に思える。
そこでよーく名前を見てみると、苗字は和田青年で、それに松子夫人の夫、根津清太郎の清太郎と、和田青年の六郎、ほんの少し、谷崎の弟精二が組み合わさったような名前である。細江光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』によると、この当時、谷崎は千代夫人に母を重ねていたということなので、和田青年は「母」の恋人、松子夫人にはお嬢様育ちの母のイメージを重ねていたと思われるので、根津清太郎氏は「母」の夫、谷崎の弟精二は、実母に一番可愛がられていたということなので、この3人の共通点は、「自分に向けられるべき母の愛情を横取りする人」ということになる。単純に、当時の谷崎を苦しめていた人間を集めたともいえるが(^^;
この綿貫が、だんだん悪役化していく。もしかしたら実際に証文がどうのこうのに近いこともあったのかもしれない。佐藤春夫への手紙の中にある君を呼んだためニどうなつたかうなな(ママ)つたと、あとで文句が出てハ困るを読むと、特にそう思う。実際、弟精二とはこの当時、親類の借金のことで証文がどうのこうのというやりとりをしているので、そのこともあって証文という表現を使ったとも考えられる。
しかし、「百%安全なるステッキ・ボーイ」という悪口はひどい。これは、その頃にはこのキャラクターにその当時の谷崎自身を埋め込んできた結果だと思われるが、東京にいる和田青年にはこれがどう映るだろうか。何しろ容姿は自分だ。和田青年を知る周囲の人間にも、たぶん登場時からこのモデルは和田だと思われていただろう。いくら小説の中のことだと言っても、これが自分に対する中傷と受け取らないとは限らない。
実際、和田青年は、谷崎家から京都に陶芸の勉強に通っていたという経緯がある。園子と光子が通っていた技芸学校と重ねると、千代夫人に会う口実もあるとしても、一言何か言いたくなったかもしれない。
ちなみに、ステッキ・ボーイというのは、新潮文庫版の解説によると、ステッキ・ガールという、当時東京の銀座に出現した新しい風俗で、散歩の際、ステッキ代りに同伴する代わりに一定の料金を取る女性の男性版として造られた言葉だそうである。
ここでは、アクセサリー代わりに連れて歩け、しかも一定以上の関係になることは百%ないという意味だろう。
ところで、千代夫人に母を重ねているという件についてだが、宮本徳蔵著『潤一郎ごのみ』を読んでいたら、昭和7年に書かれた谷崎の『正宗白鳥氏の批評を読んで』という文章から次のような引用を見つけた。
私の近頃の一つの願ひは、封建時代の日本の女性の心理を、近代的解釈を施すことなく、昔のままに再現して、而も近代人の感情と理解に訴へるやうに描き出すことである。女大学流の道徳や倫理を信じそれに縛られてゐる一人の女性を、眞に生かして書いてみたいのであるが、何事にも慎み深く、感情を殺すことばかり馴らされて生活し、夫以外の男子にはめつたに顔を見せなかつた往時の女子を主人公として、その微妙な心の動きを写し出すことは容易ではない。見かけは貞女のやうな女にも、形に表れない不倫な恋があつたであらうし、嫉妬、憎悪、残虐、その他いろいろな背徳な感情のかげが淡く胸中を去來したのであらうが、それらを少しも外に出さないで、内部でばかり生きてゐたさう云う女を、彷彿と浮かび上がらせることは極めてむづかしい。
これは松子夫人の妹で、後の『細雪』の主人公雪子のモデルである重子夫人を思い浮かべて書いていると思われるが、途中に現れる「形に表れない不倫な恋があつたであらうし」というのは、まさに若く美しかった頃の母をイメージしているのだろう。谷崎にとって幼馴染である笹沼源之助氏と並んで善人の代表だった千代夫人が和田青年との不倫に堕ちたことにより、千代夫人を、若くて美しかった頃の母に重ねたということも、確かに考えられる。(その6に続く)
その2には、まだ誤りがあった。最も肝心な手紙の日付である(T_T)。江田治江さんが手紙を受け取ったのが昭和4年1月25日、同日付と書いた佐藤春夫宛の手紙は、2月25日付だった(その2の該当個所は修正済)。
ということは、その2で書いた前提が危うくなる。1ヵ月あれば状況の変化もあるだろうから。
ただ、「過日来君ニ会いたい心切であつたが、君を呼んだためニどうなつたかうなな(ママ)つたと、あとで文句が出てハ困ると思ひ差支へてゐた。」という状態を考えると、谷崎の心境としてはやはり佐藤春夫にこの話をつぶしてもらいたかったような気がする。というのは、あとで文句が云々というのは、谷崎自身が『卍』で疑心暗鬼な話を書いていたし、独身の青年からすれば、そのように思うのは当然と思うからだ。
それから、その1で「微妙な一年を過ごした」と書いたが、たぶん昭和4年5月の時点で完全にこの話はなしということになっていたのだろう。昭和4年5月2日の佐藤春夫宛の手紙に次のようなものがある。
先日はお騒かせした、來てもらはないでもいいやうになつた、本月十四日母十三回忌につき十日前後妻子同伴上京、宿をホテルにする豫定也
覆 水 返 盆
この春は庭におりたち妻子らと
茶摘みにくらす我にもある哉
をかもとの宿は住みよしあしや潟
海を見つつも年をへにけり
いづれ拝顔の節萬〃
五月二日
いろいろな意味の含まれている手紙だと思う。特にタイトルの「覆水返盆」だが、確か瀬戸内説では、小田原事件で壊れた話を復活させるぞという意志表示の意味もあるとのことだったが、この時点では、単に和田との話が壊れ、別れないで済んだという意味のような気がする。
で、1句目はなんかホッとするような感じが漂い、2句目は、その結果、これからも続くことになった家庭について思うときの微妙な感じが含まれているような。
となると、昭和5年の和田青年のいきなりの来訪には、『卍』に関わることしかその理由はつけられなくなる。それだけでわざわざ出向くには弱いかもしれないが、そこに終平さんの思惑(昭和4年のときは嫂が和田青年のところに行ってしまうのを壊したかったが、今度は嫂を佐藤春夫に取られるのではないかと不安)による後押しがあればと思うのは、私の考えすぎだろうか。
さて、その『卍』の内容だが、想像以上に実生活が反映されていたように思う。そしてその反映は、その九から始まる事件での綿貫栄次郎の登場から始まったのではなかろうか。
この作品の場合、当初は実生活とは別の次元で、恐らくは昭和2年の芥川龍之介自殺から端を発してこの作品を書く動機が生まれたのではないかと、私は思っている。つまり、自殺をしたい人間が、一人で死ぬのが心細いのか誰か道連れを求める、そしてついに心中に至る、その過程を描きたかったように思うのだが、目の前に心中もしかねない恋愛事件が出現したために、筆がそちらに移ったのではないか。『卍』のその九から次々と起こる事件の緊迫感は、もしかしたら現実にこれにかなり近いことが起こっていたからなのではないだろうか。(その5に続く)
その2を書いてから網野菊についてさらに調べていたのだが、なかなか情報が集まらない。これは全集を調べるしかないと思うが、とりあえずその後わかった情報は、次の通りである。
母校(日本女子大学)で教師をしていた時に、夏休みを利用して友人と福島県の温泉に出かけたが、帰る途中で関東大震災に遭い、東京に入れないため、友人の出身地である京都に行った。その時に、今期の思い出にと当時京都に住んでいた志賀直哉を訪ね、『光子』の原稿を置いてきた。
京都出身の友人というのは、湯浅芳子と思われる。
谷崎家に呼ばれたとき、湯浅芳子は中条(宮本)百合子とソ連に行っていたが、網野菊は湯浅芳子と中条百合子両方と友人であるため、この2人のことについても詳しく知っていた。
ということである。谷崎が網野菊の作品によって彼女に親近感を持ったことと、志賀直哉の弟子であることもあったと思うが、この時の谷崎の取材の最も重要な点は、『卍』で描く女性同士の恋についてであることは間違いない。
また、中条百合子は湯浅芳子と出会って当時の夫と離婚した。その経緯については、大正13年に発表された中条百合子の小説『伸子』に書かれていることから、この詳しい経緯についても当然知りたかったと思われる。
したがって、柿内夫妻のベースは中条百合子とその夫と思われる。
しかし、この作品を書く際には別の人もイメージしていたように思う。
まず第一に柿内園子だが、このキャラクターは、私にはどうしても後に谷崎夫人になる根津松子夫人を当てはめているとしか思えない。最初は標準語で書かれていた『卍』がその後関西弁に変更されていった第一の原因はこれではないかと私は思う。
『卍』の中で柿内園子と夫との喧嘩で夫が言っている言葉に、「不良少女」とか「文学中毒」というものがあるが、もちろんこれは中条百合子にも当てはまったことだろうけれども、芥川龍之介に単身で会いに行った当時の松子夫人についても当てはまる。となると柿内氏については当時の松子夫人の夫である根津清太郎氏になるかと思うが、内容からして、この役柄には妹尾健太郎氏を当てているように思う。
では、徳光光子はどうだろう。先ほど柿内園子は松子夫人をイメージしていると書いたが、光子は女子学生でなければならない。そうなると、園子には松子夫人の他に、もう1人、もう少し若いモデルも必要になる。そこで白羽の矢が当たったのが江田(高木)治江ではないかと思うのだ。
この小説で最初に関西弁の助手をしていた武市遊亀子さんからの手紙によって江田治江さんに話が来たのだが、この時の文面には、貴女を含めて五人のお友達を誘ってと書かれている。これに驚いた江田さんは、武市さんと同クラスで既に大朝の社会部の記者をしており、谷崎のところにも出入りしている隅野滋子さんに相談したのだが、この時隅野さんは次のように答えている。
「そう! 心配するほどのことないよ。大丈夫。先生はねェ、若いお嬢様方にお酒をすすめて賑やかな雰囲気がお好きなのよ。中華料理の豪華な御馳走をして下さるわよ。行ってらっしゃい。テマコでもひっぱって行ったらどう。お酒のまされる覚悟だけはしてね」
ここでテマコと呼ばれているのが、谷崎の2番目の妻になる古川丁未子さんである。江田さんと丁未子さんが普段から仲が良いこともあるとは思うが、ここであえて隅野さんが「テマコ」と言ったのは、やはり偶然ではないように思うのだ。江田さんに誰かを誘ってという手紙を出せば、当然丁未子さんもついてくることは、容易に想像ができたと思うからだ。
当時の丁未子さんについて、『谷崎家の思い出』には次のように書かれている。
入学当時、あのかた、地方から出て来たらしいが、顔立ちの整った美しいかたね、という噂がたちまち学校中に拡がった。おさげ髪を首の辺に束ね、絣の長袖にグリーンの袴、白い鼻緒の麻裏草履が有名になる一要素でもあった。ところが最初の夏休みがすむと、俄然第一級のモダンガールに変身して現れた。当時ミーハー族のする、衿合わせを長いV字型にして袴を胸高にはいてという話は伝説のように聞かされていたが、二回英文に病を癒えて現れた時は普通の女子学生で、美人の病み上がりというものは、梨花風に靡く風情と言いたいほど痛々しかった。しかし骨細のきゃしゃな体に似ず、どこか芯の強いものは感じとれる人である。
徳光光子のイメージにピッタリである。このようなことから、この2人を園子と光子のモデルに加えたのではないかと私は思う。
この仮説を立てたとき、後に周囲のすべての人が反対する中、江田さんだけが谷崎と丁未子さんとの結婚に賛成したのは、『卍』の助手をしている中で、江田さんと谷崎の間で彼女に光子のイメージを与え続けていた結果なのではないかと思い当たった。それが、後に谷崎が彼女について江田さんに愚痴を言ったとき、本来ならそれをとりなさなければならないところを谷崎と一緒になって残念がった原因なのかもしれない。(その4に続く)
『卍』の連載が始まったばかりの頃、昭和3年、3月23日付で、谷崎は当時奈良に住んでいた網野菊という人に、3月29日に岡本好文園の谷崎家に来て欲しいという手紙を出している。
この人は、関東大震災後、当時京都にいた志賀直哉を訪ね、以来、彼を生涯の師とした作家だが、谷崎がこの手紙を出すにあたっては、師匠である志賀直哉から彼女の住所を教えてもらっている。このとき志賀直哉は奈良に移転していた。
彼女が志賀直哉に師事するきっかけになったのは、今生の思い出に志賀直哉を訪ねたことらしいのだが、そのあたりはまだあまり詳しく調べられていない。
そのようなことから、谷崎が網野菊を呼んだのは、『卍』のための取材と思われ、この取材が、『卍』の第3回の、園子と光子の若草山での楽しい時間の表現に活かされているようである。
網野菊は、大正5年に『二月』を書き、大正15年に『光子』という小説を発表している(講談社刊『一期一会・さくらの花』に収録されている)。どちらも光子という名前の女性が主人公であり、そのまま彼女自身がモデルになっている。光子には、お梅どんというお付きの女中さんがいる。つまり、光子とお梅どんの関係は、そのまま『卍』と同じである。
しかし、谷崎が網野菊に興味を持ったのは、『光子』よりも『二月』の方が大きかったかもしれない。
『二月』は、彼女が6歳のときに他の男のところへ行ってしまった母が、突然目の前に現れるところから始まる。彼女はそのみすぼらしい姿を嫌い、かなり冷たい態度を母親に対してとる。これを読んだ谷崎は、将来鮎子が千代夫人に対してこのような態度をとりはしまいか、それより何より、千代夫人がこのようなみじめな状態になりはしないか、相当心配したと思われる。そのため、もしかしたら『卍』のための取材よりも母親に置いていかれた娘の気持ちを聞きたいという気持ちの方が大きかったのかもしれない。それくらい、『二月』は、当時の谷崎には衝撃的だったように思う。千代夫人が果たして和田青年のところに嫁いで、本当に和田の家できちんと受け入れられるのか、谷崎がかなり心配したであろうことは十分に想像される。
さらに、彼女が母親を失ったのが、谷崎にとっても思い入れのある6歳の時だったということ、彼女が東京出身ということも、谷崎には興味深いところだっただろうと思う。
昭和4年の正月、千代夫人が和田青年に嫁ぐことが決まった。鮎子さんは谷崎家に置いてという条件だが、これは谷崎自身、おそらく相当に不安だったのではないかと思われる。というか、もしかしたら和田青年に強引に押し切られたのではないだろうか。
事実、江田(高木)治江さんたちを谷崎家に呼び出したのが昭和3年の末、谷崎から江田さんに仕事の依頼の手紙が来たのが翌昭和4年の1月25日である。そんなときに離婚など、まったくもってありえない。
さらに、2月25日付で佐藤春夫宛に、次のような手紙を出している。『つれなかりせばなかなかに』から引用する。
千代はいよいよ先方へゆくことにきまった。三月中に離籍の手つづきをすませ、四月頃からポツポツ目立たぬように往ったり来たりしてだんだん向ふの人になると云ふ方法を取る。神戸へ家をもつそうなのでそれにハ都合がいいことになつてゐる、従ってまだ発表されてハ困る。
何やかやで僕も今度こそ新聞が書けず弱つてゐる。幸い議会が忙しいので催促もされないが、東京の方ハもう一回も余裕がなくなつている、今日東京から和田の兄なる人が和田と同伴で来訪、スツカリ話がついたのでやや落ち着いた、明日からは書けるだらう。
過日来君ニ会いたい心切であつたが、君を呼んだためニどうなつたかうなな(ママ)つたと、あとで文句が出てハ困ると思ひ差支へてゐた。お千代も一ぺん君に相談しやうかと云つた事もあつたが僕が止めた。志かしもうきまつてしまへバ構わないから一度会ひたい。こちらから出ても行きたいが新聞があるのでさうも行かぬ。来てくれれば大へんありがたい、今度は家もひろいから仕事を持つて来ても大丈夫だ。
妻が果たして相手方の家に受け入れられるかについては、確か『蓼喰う虫』の要が心配していたと思うが、これについては兄なる人を連れてくることでパスということなのだろうか。
しかし、こうなるともう、表面上の言葉とは裏腹に、この手紙は、佐藤春夫に和田青年との結婚話を壊してもらうことを期待して書いたとしか(佐藤春夫の心をつかむ殺し文句はきっちり入れている)、私には思えないのである。(その3に続く)
2008-11-04
最後の手紙の文を、瀬戸内寂聴著『つれなかりせばなかなかに―文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相』から引用し直し、若干の補足を加えました。
2008-11-06
不確実な部分および誤りと思われる部分を削除、修正しました。
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正解
「私のフランソワーズ」 8名 今回は、MISSLIMからの出題ということもあり、中身の濃い思い入れが集まりました。ありがとうございました。
その他の回答
「ハルジョオン・ヒメジョオン」 2名 そういえば、赤い背景と草の色が共通していますね。
ヒントの表示 5名
※ここで表示した○名という数字は、スペルの書き換え等のために続けて回答された分を差し引いた数字です。
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2008年10月 私のフランソワーズ
歌詞情報:私のフランソワーズ 松任谷由実 歌詞情報 - goo 音楽
アルバム:MISSLIM
tcさん
この季節、沁みる曲ですね。
キャサリンさん
MISSLIMのアルバムはレコードが擦り切れるくらい聴きました。
青春のバイブルみたいな・・・
全曲イントロからそらで唄えます。(笑)
ayaさん
やった!
見たとたんに浮かんだタイトルで正解でした♪
私事ですが
2000年の12月
某アマチュアユーミンコピーバンドサークルのライブにて
女性3人のユニットでやった曲の中のひとつ
「これ、やりたい!」って言ったのは私でした。
~~~~~~~~~~~~~~
寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき
楽しいとき...切ないとき
思い出す、聴きたくなるのは
「”私が帰る”のは」
ユーミンであり、みゆきです。
私にとって「私のフランソワーズ」は
「私のユーミン」
~~~~~~~~~~~~~~
そんなMCを”やりたい”と言った記憶もあります。
したのか否か?の記憶は???(汗)ですが
私の中では
その日のこと、そのサークルのこととも
深く・・結びついているなぁ・・って
今でも、思う思い出の曲です。
ふるだぬきさん
この曲を初めて聴いたのはセカンドアルバム「MISSLIM」発売の時、銀座山野楽器で開催されたミニライブの時でした。
歌い上げるところが好きです。
にこごりさん
今月の壁紙を見て、フランソワーズ・アルディのFRANCOISEというアルバムのジャケットを思い出しました。
曲への思い入れじゃなくてすみません。
フランソワーズさん
はじめまして。
めぐりめぐってこちらへたどり着きました。
壁紙クイズが、偶然にも私の名前と同じでしたので曲名はすぐにわかりました。
小さい頃から大好きな歌で、聞くたびに勇気をもらっています。
みよこの思い入れ
フランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」は、私もよく耳にしていましたが、この壁紙を作るにあたって、フランソワーズ・アルディのアルバムジャケットの写真や、YouTubeでの映像など、いろいろ調べました。特にYouTubeに上がっていた映像で、ああ、この髪型、この雰囲気、なるほど。と、深く納得しました。
壁紙に使った女性の写真は、フリー素材なので、フランソワーズ・アルディ本人ではないのですが、何となく「さよならを教えて」のジャケットの雰囲気に似ていたので使わせていただきました。
にこごりさんの思い入れにある「FRANCOISE」の画像も検索して見てみましたが、赤い夕陽を背景にした顔ということで、確かに似ていますね。
この壁紙ですぐこの方を思い浮かべていただけたのは、本当に嬉しいです。