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2008 年 7 月 21 日

その388 『谷崎潤一郎東京地図』(その2)

カテゴリー: 小説・作家 — みよこ @ 3:32 AM

谷崎は、小学校の最初の1年のとき、落第した。事情は、この本に引用されている『幼少時代』に次のように書かれている事情からである。

尋常一年生時代の私は、稲葉先生に認められるどころの段ではなく、入学の第一日から毎日々々先生を手古摺らしてばかりゐた。私は小学校の生徒になつても、幼稚園時代と同じやうにばあやが傍にゐてくれなければ「嫌だ〳〵」をきめ込んでゐた。教室の中へ乳母を入れることは先生が許可しなかつたので、ばあやは仕方なく外の廊下にゐて、絶えず私から見えるやうに窓の向うに顔を出してゐた。或る日、授業中に雨が降り出したので、ばあやは私に無断のまゝひと走りして家まで傘を取りに帰ったが、私はふと窓の外にばあやがゐないのに心づくと、俄然割れるやうに泣き出した。私は稲葉先生が手を引つ張つて留めるのも聴かず、無理に振りもぎつて教室を飛び出し、廊下中に鳴り響くやうな喚き声を立てながら一目散に校門を出て、雨の中を頭から羽織を被って逃げて帰つた。勿論私以外には一年生でもそんな弱虫の子は一人もゐなかつたので、私の存在は学校中で有名になった。

この本では、この後に、精二による兄ほどではなかったが「気の弱いことは同じで、いつも教室で小さくなっていた」という引用が続く。

まあ、普通に読めば、はにかみやの度が強すぎたようにも見えるのだが、谷崎のこの行動の理由はもっと別にあったようだということが、別の本でわかった。つまり、谷崎のこの行動と、精二のはにかみとは別の心理かららしいのだ。

細江 光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』という、大層分厚い本がある。谷崎の作品について、心理学の面から、「作家論」と「作品論」に分けて書かれている。この本に、後の谷崎の作品、言動の謎を解く、キーワードが出てきた。「捨てられ不安」である。そこには、谷崎が、母にあまりかわいがられていなかった。それも、精二が生まれてからではなく、当初かららしいということが、前提として示されている。そのまま、彼のいろいろな作品からそれを示すものを次々と拾い出して、説明が加えられている。これは衝撃だった。この、第一部を読み始めてすぐ、『夢の浮橋』(夢の浮橋について、ラブレターズ内の他の記述はこちらからご覧ください)は、やはり自伝で、自分の中にある「母」の問題に決着をつけるための作品なのだという確信を持った。そして、やはり千代夫人は谷崎にとって大切な存在で、本来の理想の母のような、実際には乳母に近い存在だったのではないかと思った。だからこそインセストタブーが働いて(谷崎はいろいろ理屈をつけていたが、本当の原因はこれだったらしいことが、細江 光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』に書かれている)、うまくいかない。だから、「千代夫人が夜毎に泣く」→「自分の問題で千代夫人を不幸にしている」→「他の人によって幸せになって欲しい」→「でも、まったくの他人にはなりたくない」という心理が働いたのではないかと思うのだ。

また、細江 光著『谷崎潤一郎深層のレトリック』に、次のような記述がある。

『幼少時代』「父と母と」によれば、潤一郎が五歳(精二誕生の年)前後の頃、父母は夏にはしばしば大磯に出掛けた(『幼年の記憶』では、《随分長いこと行ついゐ》たとする)。その際、潤一郎はいつも乳母と置いてきぼりにされていたが、それでも潤一郎は《駄々を捏ねて後を慕つたりはしなかつた》(もし精二誕生がショックなら、置いてきぼりもショックの筈ではないか?)。ところが、潤一郎は《臆病で》(「阪本小学校」)、道で《ほんのちよつとの間でもばあやを見失うことがあると、忽ち大声を挙げて喚》くような子供であり、そのために小学校入学を九月まで遅らせ、それでも落第してしまった程だった。
 つまり、潤一郎が母が居ないことに平気でいられたのは、それだけ母との結びつきが弱くなっていたからであり、乳母が一寸の間でも傍を離れることに耐えられなかったのは、潤一郎が極めて幼くして母を失ったために、不安感が強く、失われた母の代わりである乳母に、病的なまでに強くしがみつかずには居られなかったからなのである。

もちろん父母が長いこと自分を置いて遊びに行ってしまうのは、後にそのエピソードを書くくらい、ショックだったことに違いないと私は思う。引越しが多かったのも母の占い好きによるものだったらしいし、乳母がちょっとの隙にいなくなるということは、一家をあげてどこかに行ってしまい、自分は捨てられてしまうのではないか、そう思ったからこそ、冒頭のような強烈な反応になったのではないかと、私は思うのだ。実際、谷崎が小学校に入学する前年、「父母が大磯に長いこと行っていた」頃の翌年に、2回も転居しているのである。

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