その387 『谷崎潤一郎東京地図』(その1)
ふるだぬきさんのご紹介で、近藤信行著『谷崎潤一郎東京地図』を読んだ。
この本は、谷崎の幼少時代から文壇デビュー、そして関東大震災後、関西に移住してから書いた『痴人の愛』までの作品の舞台になる地域を、谷崎が書いたものからの引用を主体に描き、谷崎の原点を映し出している。タイトルは地図となっているが、地図は最初に1つあるくらいで、ほとんどは文章と引用、写真である。
まず最初は、水天宮の交差点から谷崎の生誕の地や幼少時代の場所などが書かれている。このあたりは、私も何十年も前、一人で谷崎巡礼に行き、「ああ、ここが生誕の地なのね」と、この本にも出てくる松子夫人の筆による「谷崎潤一郎生誕の地」という黒御影の石碑をしげしげと眺め、谷崎が通った阪本小学校を外から覗き、周辺をそぞろ歩いた。
といっても、ビルばかりで谷崎が住んでいた頃の面影はなく、「ふーん」という感じでただひたすら歩いていただけだが、それでも銀杏稲荷(残念ながらこの本での引用部分には登場しない)の前に来たときだけは、何となくほっとしたことを覚えている。
この本では、谷崎が『幼少時代』を書き上げた後の「中央公論」のグラビア企画でその辺りを歩いたときの写真にについて、印象深く綴られている。
谷崎潤一郎は人形町にかろうじて残る昔の面影を探し出そうとしている。といってもこの一連の写真からは、ふるさとの風景の変化に茫然としている彼の表情をよみとらないわけにはいかない。そのなかでは、水天宮の社殿に手を合わせ、薬師堂の中を背のびして覗きこむ彼の姿が印象的である。
この本の中に引用されている『幼少時代』に、次のような一節がある。
私は又、幼少時代に見た新富座や歌舞伎座の舞台の幻影、団十郎や五代目菊五郎等の演技の数々が、後年の私を形成する上に計り知れない影響を与へてゐることを、見逃す訳に行かない。いや、時とすれば人形町の水天宮の七十五座のお神楽や、南茅場町の明徳稲荷のお神楽の茶番の類までも、団菊の芝居に劣らないほど、非常に深い印象をとどめてゐるのに、今更のやうに気づくのである。
そういえば、関東大震災後、関西に移住したときに、東京の芝居と何かと引き比べながらも文楽を取っ掛かりに関西文化に親しんでいったのよね。
そのあたりについては、『いわゆる痴呆の芸術について』に、興味深い箇所があったので、長文になるが引用する。ラブレターズにも何度か登場した原智恵子さん(ウィキペディア) (関連する本) (ラブレターズ内で登場する記事)も登場するので、さらに興味深い。
この間京都大学の「ロマンロラン友の会」で、この文人が愛していたピアノの古典曲数番を原智恵子さんが演奏した時、私は始めて智恵子さんに紹介され、智恵子さんの泊っていた柊屋の二階の一室で暫く彼女と談話を交える機会を得たが、その時私が日本音楽をお聴きになりますかと尋ねると、義太夫の三味線が好きで、道八が生きていた頃はしばしば聴きに行ったとこのことであった。長唄は? というと、余り好きではないらしい口ぶりであったが、けだし西洋音楽で鍛えられた人には、長唄のような繊弱なものよりは義太夫のような逞しいものの方が気に入るのであろう。道八の三味線の如何なる点が好きであるのか、その音色であるか、その力強さであるか、等のことを私は遂に尋ねずにしまったが、智恵子さんのように娘時代の十年間を巴里で過し、仏人の家庭で教育された近代人でも、やはりあの太棹の音に惹き付けられることを思うと、あの音色の中には日本人の血に訴える宿命的な魅力が籠っているのかも知れない。まして私のように明治中期の東京に生れ、少年時代と青年時代の殆ど全部を日本橋や京橋界隈の下町で暮した者にとっては、あれくらい郷愁を催さしめる音楽はなく、道八の如き名手のでなくともふとしたときに旅芸人が門を流して過ぎるのを聴いても、つい恍惚としてしまうことがあるのは、何か理性を超越した、反抗しがたい郷土的感情の作用とでもいうのであろうか。
原智恵子さんが、長唄を好まず義太夫を好むのは、彼女が神戸出身ということが大きいのではないかと思うが、谷崎が震災後関西に移住して、まず文楽に惹かれていった、その心理的なものが見える興味深い文章だと思う。







