谷崎の母―『幼少時代』より
『谷崎潤一郎東京地図』を一旦休んで、このあたりで谷崎の「母」について整理しておきたいと思う。
前回、谷崎が母の愛情をあまり受けずに育ったらしいということを書いた。それが「捨てられ不安」につながっていると。
そのあたりを確認するために、『谷崎潤一郎東京地図』にもたびたび登場する『幼少時代』を入手した。
読んでみたところ、前回は、谷崎の「捨てられ不安」について転居のことを書いたが、それよりも、その年、谷崎の「母」は「女」だったのではないかという仮説が私の中に生まれてきた。つまり、「女」である母によって、自分が捨てられてしまうのではないかという意識が、この年に生まれたのではないかと思うのである。
この年にあったことを列挙してみると、
1. 浜町に転居、住居と店を分ける
2. 谷崎、幼稚園に通う
3. 濃尾大地震
4. 南茅場町の最初の家に転居
がある。
さらにこの時期、母とばあやと一緒に毎日のように夕方になると本家に遊びに行っており、さらに、母や本家(活版所)を継いだ叔父と一緒に盛んに歌舞伎見物に行っている。
そのような背景を踏まえたうえで、この時期の母について、気になる部分を順次引用していこうと思う。
まずは、その明治24年。歌舞伎で「出世景清」「蘆屋道満大内鑑」を見たときのことである。
私はこれを誰々と一緒に見たのであったか。母に連れられて行ったことは疑いないが、ほかには父がいたか、活版所の叔父がいたか覚えがない。
二番目の「蘆屋道満大内鑑」は、これも前から葛の葉の葉狐の物語を母から聞かされていたのであった。尤も母は、団十郎の葛の葉が「恋ひしくば尋ね来てみよ」の歌を障子に記すのに、赤子を抱えて、筆を口に銜えて書くといっていたので、それを楽しみにしていたのであったが、私の見た時は手で書いたので、それには少し失望した。私は後に四十歳を越えてから、大阪の文楽座で図らずも文五郎の使う葛の葉を見、遠い昔の団十郎の面影を思い出すとともに、そっと私の耳もとへ口を寄せて、「ほら、あれはこれ〳〵の訳なんだよ」と囁いてくれた母の姿までが浮かんで来て、懐旧の情に堪えなかったことがあったが、私の昭和六年の作に「吉野葛」というのがあるのは、母と共に見た団十郎の葛の葉から糸を引いていることは、争うべくもない。
次に明治27年の記憶から(この時期は、生涯の親友の笹沼源之助と知り合い、ませた彼にいろいろ教わったらしいことが、「源ちゃん」という章で書かれている)。
察するところ、私の家はその前々年あたりから左前になりつつあったので、昔のようにしげしげ芝居見物などに出かける余裕がなくなっていたのだろう。尤も母だけは時々活版所の叔父に誘われて行ったらしいが、私も一緒に誘われることは次第に稀になったのであろう。
芝居が跳ねて再び俥で帰る時に、しばしば雨が降っていたことが記憶にあるのは、そういう晩の方がひとしお観劇の印象が後に残ったせいであろうか。俥には雨を避けるために支那料理のテーブルの覆いに用いるオイルクロースのような幌がかかっていたので、その油の匂と、母の髪の油の匂と、甘ったるい衣装の匂とが、真っ暗な中に一杯に籠っていた。私はそれを嗅ぎながら幌の上をパラパラとたたく雨の音を聞いていると、その日の舞台で見たさまざまな俳優たちの幻影や、声音や、チョボや下座の音楽やが、またもう一度闇の世界に再現してく来るのであった。わけても私は、私の母と同じ年恰好の女が、忠義や貞節を全うするために自害をしたり、夫に刺されたり、最愛の子に別れたりする場面を見た晩には、自分の母が万一そんな羽目になったらどうするであろうか、自分の母も忠義のためや貞節のためには私を捨てたり殺させたりすることがあるだろうか、などと考えながら俥に揺られつつ家路を辿った。
明治27年の頃については、さらに次のような記述が「南茅場町の二度目の家」という章に書かれている。
おりおり、夜遅くまで父や母が帰って来ないで、精二と、ばあやと、三人で留守をすることがあったが、多分両親が蛎殻町で話し込んでいたか、そうでなければ、父は蔵座敷で先に寝床に這入ってしまって、母が銭湯へ漬かりに行っていたのであろう。
この銭湯は、代官屋敷の方にあったそうだが、時にはばあやも連れて行って、子供たちだけで留守番した。そんな時、ばあやは先に帰ってきたが、母は長風呂なので、1時間たっても帰ってこなかったということが書かれている。
さらにこの家に住んでいた頃、母は叔父(つまり弟)の恋愛に便宜を図っている。そんなときは、母は二人を黙って蔵座敷へ案内し、谷崎らは六畳の間でひっそりしていたり、母に眼顔で知らされて、外へ遊びに出たりしている。
これについては教育上甚だよろしくないと思うが、谷崎は当時の心境を次のように書いている。
弟の恋愛に同情を寄せ、意気な計らいをしてやる気持には何も後暗いところはないのだし、ちょっと任侠な、芝居じみたところもあるのが、私にはかえって嬉しかった。
もう1つこの時期、母と、あろうことかいつもは母がお灸をすえようとしても必死でかばってくれるばあやと2人がかりでお灸をすえられ、そのようなことが2~3回あったが、あるときちょうど父が帰ってきて、気味の悪いほど優しい言葉で慰めてくれたことがあったと、「悲しかったこと嬉しかったこと」という章に出てくる。
「幼年より少年へ」という章では、
父が米屋町で◯久商店を営んでいた時代に、精二の弟の三男に当る男子が生れて、それが千葉県の中山へ里子に遣られたことは述べたが、その後南茅場町の二度目の家に住み着いてから一、二年を経て、明治二十九年に始めて長女の園が生れた。そしてこの子は、長女であるが故に何処へも遣られず、家で養われることになった。(園のあとに二人つづいて女子が生れ、そのあとに終平という末子が生れたが、次の二人の女子は他家へ遣られた)
三男を里子に出したときのことについては、次のように書いてある。
母がわが子を里子に出したのはこれが最初で、その後女の子を二人までも手放すようなことになり、結局はこれらの三人を皆里流れにしたのであるが、三男の子を出した時は始めての経験だったので、どんなにか辛かったことと想像される。中山から里親が迎いに来て、その子を人力車に乗せて行くのを、泣き〳〵何丁も追いかけて行って別れを惜しんだという話を、後に私は母の口から聞いたことがあった。だがそんなにまで悲しい思いをしてその子を他家へ預ける必要があったのであろうか。里扶持を払うにしてからが、贅沢に馴れた町の家庭で育てるよりは経済であるというような意味があったのであろうか。それにしても、その考えは父から出たことなのか、母から出たことなのか。谷崎家は先祖代々子供を里に出す習慣があるのだ、お祖父さんだって男の子を三人までも手放しているではないかと、父にそんな風に説かれて、母も漸くその気になったのでもあろうか。
非常に気になる記述である。
また、この記述に続いて、谷崎が父と二人だけで食べに行った記憶を存外に多く持っていることが書かれている。谷崎の美食は、この父の影響によるところが大きいようである。
園さんが生れた頃(ちなみに母は33の厄年)、谷崎はあちこちの店へ盛んにお遣いに行かされている。それらを並べた中で、次のような記述がある。
餅菓子(近頃東京では餅菓子といわずに生菓子というようであるが、以前は餅菓子とのみいった)は母が三橋堂に限るといって、いつも小網町へ買いに行かされた。(中略)買いに這入ると、主人であったか番頭であったか、襷がけで前掛を締めた男が出て来て、菓子を詰めてくれたことを、それが三十前後の、やや面長な、色白な人であったことを、私は今も忘れずにいる。
谷崎の母は、この園さんをことのほか可愛がり、彼女が亡くなった後、心労のあまり急速に老けたそうである。
それにしても、この作品の、特に「団十郎、五代目菊五郎、七世団蔵、その他の思い出」という章を読むと、特に松子物と言われている『吉野葛』 『盲目物語』 『春琴抄』 『武州公秘話』等が、ことごとく母との歌舞伎見物を元に作られているのがわかる。当時の松子夫人が、想像以上にその当時の母と似通っていたのではないだろうか。だから、松子夫人を知ることで、谷崎は改めてこの時期の母を思い出したのではないかと思う。
なお、『夢の浮橋』については谷崎の幼少時代そのものがテーマになってくるが、それについては次の記事でまとめようと思う。









