みよこの部屋 コメントページ

2007 年 12 月 8 日

その368 『当世鹿もどき』(その3 芥川龍之介が結ぶの神)

カテゴリー: 小説・作家 — みよこ @ 12:00 AM

随分と久しぶりになったが、『当世鹿もどき』の続きを書きたい。
今回は「芥川龍之介が結ぶの神」というタイトルが付いた一文について。

谷崎が松子夫人と知り合ったのは、松子夫人が芥川龍之介のファンだったことによる。芥川龍之介が谷崎と一緒に松子夫人のよく知る旅館に来ていることを知った、当時大店の御寮人だった松子夫人が、ぜひお会いしたいと旅館のおかみにお願いしたことが出会いのきっかけになった。

芥川龍之介はまったく乗り気ではなかったのだが、当時岡本に住んで、阪神間の上流夫人たちとの交流を始めていた谷崎にとって、こんな機会を逃せるものではない。ぜひ会いたいということで、東京に帰りたがっている芥川龍之介を谷崎が必死に引き止めた。と、この一文では書いている。
で、しぶしぶながら芥川龍之介が了解し、会食することになった。おかみさんの話では、電話をすればすぐに来るという話だったが、結局3~4時間待たされた。後で松子夫人に聞いてみると、出てくるときに当時の夫である根津氏に引き止められたということだそうだ(そりゃそうだろうなぁ)。
そのあたりのことが次のように書かれている。

後で聞きますと、そんな文士の座敷へなんか行くことあれへん、と旦那さまが云ひますのを「奥さん」が聴きいれず、いゝえ、こつちから約束して引き留めたあんねんさかい、今更行かんちふ訳には行かしまへんと、ちよつとした押し問答がありまして揉めたんださうでございます。

こうして会食が始まる。その様子は次のように書かれている。

「奥さん」は誰かお附きの人でも従へて来るのかと存じましたら、誰も連れず、全くの一人きりでございました。千福には時々見えることがあるらしくて、おとみさんとは余程お馴染みらしい言葉遣いでございました。旦那さまと一緒にこゝの座敷へ藝者を呼んで遊んだりすることもあるとみえまして、二十三四と云ふ年に似合はず、いかにも世慣れた、応対を心得た、もの怖ぢをしない態度でした。その時芥川さんは三十五歳、手前は四十一歳の筈でございますが、その「奥さん」はその年でさう云う二人を向うに廻して、夜の酒肴を適当に注文したりしまして、それから三四時間の間主人役として座を繋いでゐた訳でございます。

なんとも大胆だが、この本によると、それは大正15年12月(この12月中に昭和元年になる)の出来事となっている。

松子夫人の当時の夫である根津氏が、松子夫人の妹である信子さん(『細雪』のこいさんのモデル)と駆け落ちしたのは昭和4年、恵美子さんが生まれてすぐ(これもまた何とも)のことなので、この頃すでにそういう兆しがあって自棄になっていたのだろうか。
この出会いの時期についても、他の資料によると谷崎と芥川の間に文学論争が始まったばかりの昭和2年3月ということになっている。

この時期すでに芥川龍之介の精神が厳しい状況であったことは次の文でも見て取れる。

余談にわたりますけれども、芥川さんが自殺されましたのはこの事件の明くる年、即ち昭和二年の七月のことでございますが、もうその千福に泊まつた時分から、よほど尋常でない様子がございましたな。たしかその晩もその明くる晩も、廣い座敷に手前と二人向ひ合つて寝たんでございますが、芥川さんはひどい不眠症に悩まされてをられるらしくて、酒とヂアールとをちやんぽんに飲み、それでもどうしても寝られないと零しとられました。
(中略)
手前はその頃社交ダンスに凝つてをりましたので、あまり気の進まない芥川さんを誘ひ出して、引っ張って行つたことがございました。その時手前がタキシードか何かを着ようとしまして眞珠のボタンをワイシャツに嵌めようとしてをりますと、芥川さんは何を思つたか、
「僕が嵌めて上げませう」
と、手前の前に膝をついて手傳つて下さいました。芥川さんがこんなことまでして下さるのは忝いけれども、それにしても少し親切過ぎる、何だかなさることが尋常でない、何か変だなと感じましたつけが、その時気がつきましたのは、芥川さんの眼の中に一滴の涙が潤んでゐるのでございました。ほんの一瞬間のことで、その涙は消えてしまひましたけれども、どうも手前は薄気味が悪く、不吉な豫感のやうなものを感じたことでございました。

他の資料(市居義彬著『谷崎潤一郎の阪神時代』)に引用されている、谷崎による芥川龍之介の追悼文『いたましき人』の一部ではこうなる。

君はその明くる日も亦私を引き止めて、ちょうど根津さんの奥さんから誘われたのを幸い、私と一緒にダンス場を見に行こうと云うのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換えると、わざわざ立ってタキシードのワイシャツのボタンを嵌めてくれるのである。それはまるで色女のような親切さであった。…

しっかし、追悼文にこんなこと書くかねぇ(^^;
両者を並べると、引き止める人間が逆だ。さらに、ダンスに行ったのは、松子夫人との会食の翌日らしいのだが、『当世鹿もどき』では、会食の後、芥川は夜行で帰ったことになっている。芥川とダンスに行ったときと松子夫人とダンスに行ったときは別であるかのように書かれている。

これについては、その後谷崎と松子夫人がダンスホールで踊っていることを記事にされて当時大店の夫人だった松子夫人が親戚中から非難されたことを思い出し、さすがに会食の翌日に3人でダンスホールに行ったと書くのは憚られたのかもしれない。
時期については、谷崎と芥川が文学論を話していたという松子夫人の証言があるので、やはり昭和2年3月、つまり論争の初めの頃のようである。

ちなみにさきほどの資料だが、引越し魔の谷崎が阪神時代に住んだ各家を年代順に検証しているものである。谷崎と芥川が千福に泊まったのは谷崎が岡本好文園というところに住んでいたときで、このときは谷崎はなぜか家族とは別に近くに一人で勉強部屋を借りて住んでいる。この本が書かれたときには和田六郎のことは知られていなかったため、著者の市居氏はさかんに首をひねっている。
後に和田六郎との件を発表した終平氏にもこの本の中でこのときの事情を確認をしているのだが、終平氏はとぼけている。

コメントはまだありません »

コメントはまだありません。

このコメント欄の RSS フィード

コメントをどうぞ

*
画像に書かれた文字を入力してください

スパム対策用画像
ログインすると画像認証なしで投稿できます

Powered by WordPress

ホットワード 部屋 コメント 芥川龍之介 padding margin
割引クーポンまとめ情報 - クー割