その355 『捨てられる迄』(その2)
随分と間が開いてしまったが、『捨てられる迄』と絡めて『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』、それから遺言のような未完の小説のお話を書きたい。
『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』を読むと、昭和36年は千萬子さんにとってさんざんな年だったようだ。
この年は、正月早々第2子妊娠中らしき話が出てくるのだが、その後さっぱり出て来ず(出産したがすぐに亡くなったらしい)、この年に出てくる話はたをりさんのポリオのワクチンに関わる大騒動が中心だ。
この件については、祖母である松子夫人と母親である千萬子さんの意見が合わず、ほとんど千萬子さん1人対他の皆さんという状況になっていった。出産の頃はご主人は九州。ご主人との間も冷え込んだ。9月には例の松子夫人がお金を返さない事件があり、12月4日の手紙ではついに
「今まで一番つらかった時期を独りでしかもこの家に放っておかれたのですからこれから先きもやってやれないこともありますまい。
このまゝ年をとったらどうなるのだらうとそんなことばかり考へて居りますが。
生きてゐたらもう一度 恋 などをする時がありますかしら?」
という手紙を谷崎宛に出すに至っている。
昭和37年3月4日の谷崎の手紙には、千萬子さんへプレゼントした歌額について
額がお気に召して結構です。あれを書くには家内にも見せないやうに隠れて書きました、
「千萬子に書くならエミ子にも書いてやつてくれ」と云はれるのがイヤだつたからです
という文面が見える。松子夫人、そんなことを言うようになっていたのか…。
それから、その348で書いた昭和37年10月の手紙の件は、もしかしたら千萬子さんの意見ではなく、松子夫人が言わせたのかもしれないなどと思うようになった。というのは、『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』で伊吹氏も書いているが、松子夫人、自分が直接言いにくいことを、この人から言ってもらえば谷崎が聞いてくれるかもしれないという人にそれとなく話してくれるよう頼むことがあるからだ。
実はそれより前に、谷崎の学生時代からの友人に紹介された秘書について松子夫人が、「あの人にそんな高い給料を払ふ価値はない阿呆らしいと千萬ちゃんが言っていた」(もちろんそんな風には言っていない)と2度も谷崎に言って言外にやめさせようとした事件があるのだが、方法を変えたようだ。
昭和37年10月の件についてもそうだったかどうかは想像でしかないが、「家の新築と名義のこと」と「谷崎の創作の源泉に関わること」という、大層言いにくいことをこのタイミングでなぜ千萬子さんが谷崎に勇気を奮って言わなくてはいけなかったかと思うと、そんな気がするのだ。
その前の昭和37年6月には、千萬子さんのところへ忙しくて大変そうだから女中さんを貸すと松子夫人が言い、千萬子さんがそれを断るという事件が起きている。とてもきな臭い。
結局、10月の件のときに谷崎から千萬子さんに電話がかかったり、「何とかしてお目にかかりたい」という手紙が届き、このあたりから2人の間が急速に近づいている。
ここで、遺言のような小説がどういうものになる予定だったか、『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』から一部引用する。
ところが、つい近頃、老人は「御菩薩(または深泥)魑魅子」という若い女性に夢中になって、もう余生は何年か多寡が知れているのだから、好きなことをして死にたい、「魑魅子」と「閼伽子」とを天秤にかけて過すのは嫌だから、ついては、この際、「閼伽子」と離別し、この家を出て、「魑魅子」と暮そうと思う、と言い出した。ただ、今さら「閼伽子」に実家に帰って旧姓を名乗らせたり、経済的な不自由をさせたりはしたくないから、思い切って財産を家族全員に分け与えようと思うと、老人は言うのだが、家族はもちろん大反対である。第一、「魑魅子」というのは、あまり上流の家庭の育ちであるとは言い難く、才ばしったところのある油断のならない女なので、どうせ老人の懐ろを狙ってのことに決っている、と、周囲からは誰にも理解されないまま、「夢白」は自分の望みを押し通し、「魑魅子」と同棲して、色欲に溺れた結果、心臓発作を起して死ぬ、そして彼の死後、初めて家族の前に、「夢白」の秘していた本心が明かされる
この老人は兜町の株式仲買人になって成功した人物とされている。谷崎の祖父を思わせる設定だ。『夢の浮橋』のときもそうだが、こういう作品を書くときには祖父の影がチラリと入る。
谷崎は実妹が離婚する際にその息子を谷崎の戸籍に入れて跡取りにされては困ると弟の精二氏に手紙で書いていたことがあったが、千萬子さんの嘆きに遇ったことと自分の死期が迫ってきていることで、それならばと千萬子さんと過ごす甘美な世界を思い浮かべることで死の恐怖から逃れようとしたかもしれない。そう考えたら、この際複雑になってしまった戸籍を整理したいという気持ちが出てきたとしても不思議ではない。鮎子さんのこともあるし。
昭和37年11月9日の千萬子さんの手紙には、谷崎が着々と千萬子さんの改造に取り掛かっている様子が見えるが、もちろん最終的なところまで実行できるはずもなく、死の2ヵ月前、千萬子さんに別れを告げるように京都の渡辺家に滞在、帰宅後千萬子さんとの交流を絶った。そして、昭和40年の誕生日、いよいよこの小説に取り掛かろうとしていた矢先に自分の誕生会で食べ過ぎ体調が悪化、そのまま帰らぬ人となった。
昭和38年3月7日の谷崎の手紙にある短歌
香港の花の刺繍の紅き沓
沓に踏まるゝ草と
ならばや
を昭和38年8月に叶え、その後千萬子さんはお母様と大喧嘩。それ以後の書簡は見つかっていないものがかなりあるようだ。
『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』によると、谷崎の真の「死者の書」ともいうべき日記が姿を消しているそうだ。これが私たちの前に現れるまでにはまだ何十年か必要なのかもしれない。
『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』の「文庫版のためのあとがき」には、千萬子さんが小田原で暮らしていることが書かれている。谷崎と小田原との関係について、千萬子さんは全然知らずにこの地を選んだそうだ。








