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2007 年 7 月 19 日

その351 『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』(その3)

カテゴリー: 小説・作家 — みよこ @ 12:00 AM

その2を書いてから1ヵ月が過ぎてしまった。
その2では、2人の姑と千萬子さんの話を書いたが、この問題とからめて『夢の浮橋』と書かれず終いになった遺言のような小説の話について書いてみたい。『夢の浮橋』についてはその319の『われよりほかに』(その2)で中断したまま止まっていたので、それについても合わせて書いてみようと思う。

『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』の著者である伊吹氏は、『夢の浮橋』について、谷崎が自分の作品の源泉を松子夫人と重子夫人の2人から、千萬子さんへと移そうとして失敗した作品だと書いている。
確かに、『夢の浮橋』の最初の母と2番目の母が姉妹であることは、この作品を注意深く読んでいけばわかる。さらに伊吹氏が書くところによると、糺の嫁澤子のモデルは千萬子さんで、2人の母から澤子へイマジネーションの源泉を渡し切ることを「夢の浮橋」に例えている。

だが、これは相当に無理がある。谷崎は頭の中にある世界を描くために松子夫人を媒介としていたということは伊吹氏も認めているのになぜかこの作品についてはそのまま受け取ってしまっているのだ。

伊吹氏によると、澤子の経歴には千萬子さんの経歴がかなり投影されているそうだ。
後の潺湲亭はもともと千萬子さんの祖父である橋本関雪ゆかりの屋敷だったので、確かにそのあたりは五位の庵と澤子の関係にダブるものがある。だが、私はこの澤子には谷崎の最初の妻である千代夫人の影を強く感じるのだ。

なので、この書簡集の中で、千萬子様と書くべきところを千代子様と誤って書いている書簡を1通見つけたときには「やはり」と思った(もっとも、この手紙は昭和37年、『夢の浮橋』の発表は34年だが)。

伊吹氏は自分が実際に出会った人たちとの話を書くことが自分に求められていることという学者らしい生真面目さをもってこの本を書いたと思われるので、自分が実際に会ったことのない人たちのことはキッパリと除外しているのだろう。
そして伊吹氏は『夢の浮橋』発表時の多くの評論家と同じく、なぜ澤子が第二の母の胸にムカデを置いたのかで躓いてしまう。
でも、なぜ皆が皆糺の書いていることをそのまま信じるのだろう。仮にムカデを置いたのは澤子としても、どうしてそれが澤子の意思だと思うのだろう。

この事件の前に現れる第二の母の変質に気づかないのだろうか。似たようなシチュエーションに『春琴抄』があるが、春琴の顔にやけどを負わせた人物は果たして誰だろうか。
糺が澤子と別れるときにいろいろ注文を付けられたとワザワザ記されていることと、この『春琴抄』の件とを結びつけて考えた人は誰もいなかったのだろうか。さらに、『母を恋ふる記』に出てくる「母」に繋げた人はいないのだろうか。

『夢の浮橋』発表時にここが理解されず散々な評判になってしまったために、谷崎はそれを口述筆記のせいにしてしまうが、後になって、この作品は失敗作だなんて思っていないと伊吹氏に言っている。それだけ谷崎はこの作品に期待を持っていたのだと思うのだ。

千萬子さんが母親と喧嘩をしたことに関して谷崎が書いている手紙の追伸に、「親というものは時々憎くなるものですが憎みきることができないので困ります」と書いてある。実務的なことと芝居がかった文句ばかりが並ぶハニカミ屋な谷崎の手紙の中、珍しい一文で目を引いた。

谷崎についてはとかく母親のことが多くとりあげられるが、父親や祖父の影響もそれに劣らず強いように思う。『夢の浮橋』もそうだが、遺言のような小説にも、娘ばかりを手元に置いて男の子は皆養子に出してしまった谷崎の祖父と、亡くなるときに「お関」と先に逝ってしまった妻の名前をつぶやいた父の影響を強く感じるのだ。

ここまで書いてきて、この書簡集で谷崎が千萬子さんを「貴重品のように思う」と書いた意味が見えてきたような気がした。それは彼女の知性ももちろんだが、それよりも、松子夫人よりさらに強い媒体としての素質だ。
『夢の浮橋』についてはあれほど千萬子さんの影響を説いた伊吹氏が、なぜか『瘋癲老人日記』のモデルについては松子夫人の方を強く挙げている。それは少し頑なではないかと思うくらいだ。でも、『瘋癲老人日記』の颯子のキャラクターは、松子夫人の思う千萬子さんのキャラクターであり、実はそのまま松子夫人のキャラクターでもある。

つまり、千萬子さんは、自分というものを持っている人でありながら、谷崎の理想とするさまざまな女性像の媒介になり得る、それこそオールマイティーな存在だったのかもしれない。(『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』終わり)

谷崎は『痴人の愛』の成功以来、あきらかに女性に対するスタンスが変わったように思う。このあたりで谷崎の純粋な恋愛の話に興味を移したくなった。
谷崎は千代夫人と結婚するよりも前、従兄弟の奥さんと恋仲になってしまうという事件を起しているのだが、谷崎はこの人とそうなる前(たぶん)にえらくじゃれ合っている様子を友人宛ての手紙に書いている。とても微笑ましいものだが、受け取った友人は「これは…」と思っただろう。
で、その事件を題材にした小説がある。『熱風に吹かれて』だ。『潤一郎ラビリンス』の13に収録されている。
この作品は以前から読みたいと思っていたのだが、今日ようやく注文した。届くのが楽しみだ。

2007-08-27
「千代子様」と誤って書かれた件ですが、その後、谷崎の無二の親友で、パトロンでもあった笹沼源之助さんの、長男のお嫁さんが千代子さんだということがわかりました。千萬子さんとは似たような立場の人なわけで、こちらとの混同の可能性もありますね。
まあ、ただ単純に間違っただけという可能性が一番高いのですがが(^^;

1 件のコメント »

  1. > 後の潺湲亭はもともと千萬子さんの祖父である橋本関雪ゆかりの屋敷

    これは違いますね(^^;
    関雪ゆかりの屋敷は「白沙村荘」ですね。失礼しました。

    ただ、こういうお屋敷と「祖父」ということで、
    その点ではやはり千萬子さんとかかわりがありますね。

    > 松子夫人よりさらに強い媒体としての素質だ。

    過去の重要な女性を頭の中に再現する媒体として貴重品だったであろうことは、
    調べているうちにいろいろと符合してきました。
    さらに、橋本関雪から遡ると越前松平家につながることから、
    これまでの女性と重ねたうえで、それらをいったん千萬子さんに収束しようとしたのかもしれないと思うようになりました。
    ただし、結局『夢の浮橋』で糺は離縁を決行するわけですけれども。


    コメント by みよこ — 2010 年 6 月 27 日 @ 2:24 AM

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