その318 『われよりほかに』
その310で書いた『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』を読み終わった。お昼の僅かな時間だけ読んでいたのでずいぶん長くかかってしまったが、なかなか面白かった。特に、谷崎の言葉がその口調そのままに書かれているのは、他の本では見たことがなかったので、「へぇ~、谷崎ってこういう話し方してたんだ」と思いながら読んだ。
谷崎は関東大震災以来関西に移住していたのだが、その後もずっと江戸商人言葉を使い続けていたんだぁという新鮮な驚きを感じた。あとがきにも、この作品の新聞に連載中に末弟終平さんが著者に送ってきた手紙に「生前の兄の肉声を聞くようだ」と書いているのだが、作品中に出てくる谷崎の言葉は、その声まで聞こえてきそうにいきいきと書かれている。
その一部を挙げると、口述筆記の際の注意として、よそ見をせずにじっとこちらを見ていてほしい、書き終わったらハイとはっきり言って、またこちらを注視してほしいと言っていたにもかかわらず、ある日
「あなたね、そんなにじっとこっちを見ないで下さい。どうも気になって仕方ないじゃありませんか」
と言われ書き終わって「ハイ」と言ったら
「そんなにいちいち返事をしなくたってよござんす。書き終ったら、黙ってこっちを向いていてくれりゃ、いいんです」
と言われて困ったという記述がある。
一方、谷崎のかわいい一面をのぞかせるものもある。もうじき夕食という中途半端な時間にお腹がすいた谷崎に、松子夫人が洋菓子店にケーキを注文したとき、それも待ちきれず、
「あんまりお腹がへったから眠くなっちまった。お菓子が来たらそ言っとくれ」
と言って寝てしまい、ケーキが届いたらしい様子が聞こえると、夢うつつの中で
「ああ、たべるよう」
とつぶやいて、そのうちにガバッと起きてきたと思ったら、立ったまま、普段は「あんなもの嫌いだよ」ということになっているバタークリームのたっぷりと載ったショートケーキを、一個ずつ両手に掴んで、むさぼりながら廊下を歩きまわり、二つとも食べ終わると、バターまみれの手をべろべろと舐めて、あとは浴衣の裾で拭いてしまったというものだ。
著者は源氏の口語訳を口述筆記した縁から谷崎の秘書の役がまわってきたが、その生真面目すぎる性格に谷崎が不満を持ち度々クビを言い渡しながらも、結局彼女しかこの難しい仕事をやり遂げることができなかった、そのお互いの微妙な気持ちや、年数を経て気心が知れてくる様子、それから、松子夫人の複雑な心理などがこの本に描かれている。「われよりほかに」というタイトルは、谷崎の
我といふ人の心はただひとりわれよりほかに知る人はなし
という和歌からとられているのだが、このタイトルの中には、谷崎がいくら女中さんを秘書に仕立て上げようとがんばっても、結局自分しかこの難しい役をこなすことはできなかったという自負が大いに含まれているように思う。
(つづく)







