とはずがたりがとりあえず一段落したので、再び香港のお話でこぼれたものを書きたいと思う。
とはずがたりについては、まだ奥がとても深く、まだ書き足りないことがいっぱいだし、とりあえず「愛憎編」といわれる部分については書いたが、「修行編」といわれる部分には手がついていないので、これについてはまた後で書きたいと思う。
さて、標題の件だが、せっかく香港に来たら、ここに行かなければウソという、ヴィクトリアピークで夜景を見た。JTBのオプショナルツアーで風水学による開運料理をいただいた後、そのままヴィクトリアピークへ。
期待に胸ワクワクで行ったのだが、当日は生憎もやがあったこともあり、登っていく途中で行き会う人々にはそれぞれウ~ムという表情がありあり。実際に私も見て、これなら東京の高速道路から見る夜景の方がずっときれいだと思ったくらい。
何しろ、香港は工事中の街なので、夜景にも影響があるのは当然かなとも思った。100万ドルといわれたのはいつ頃の話なのだろうか。
写真にすると、もやがかかってるなりに幻想的に見えないこともないが、九龍側の暗さが目立つ。試しに補正して光を強くしたら、光がコバルトに輝いて、これより美しくなったが、それでは意味がないので、写ったままを載せた。

とはずがたり第6弾。
昨日出てきた東二条院のただ1人の娘、遊義門院について書きたい。実は、長々書いてきた目的はこの人のことである。もう想像がついている方もいらっしゃると思うが、この人、実は二条の娘ではないかと思うのである。
二条が曙に手引きされた有明の月と契ったときにできた女の子がいた。この子が後に病にかかったときに生まれてすぐに連れ去られたこの子のことを二条が気にかけているからだという占いがあり、曙が会わせたことがあった。曙の子供として、将来は帝へ差し上げるつもりで育てているということだった。
曙(のモデルと言われている人)には宮中へ上げた女子が3人いた。このうち、最初は一番上の子が二条の子供だろうという説が出た。でも、それは消えたらしい。
実は、二条は上の子が入内するときに女房として出仕している。出家するまでのとても短い期間らしいが。そのことからその説が有力になったのだろうと思うが、何しろ二条である。そんなことをしたら、「私が母です」という態度を隠すだろうか。まず確実にそういう態度を出すと思うのである。二条のことを幼い頃から熟知している曙がそんな危険なことをするだろうか。実際、この時に二条が、二条という名前さえ気にいらないのに、三条とつけられたものだから、相当文句を言ったらしい。ただ、既に二条という名前は他の人についているので、ということでなだめられた。
で、二条が産んだ女の子を対面させるときに、曙がいろいろ条件をつけている。父母の墓参りの後にと二条が言えば、それは縁起が悪いとか、5月にといえば、5月は不都合だとか。結局4月の30日に会ったのだが、5月が困る理由についてはよくわからないが、
墓参りの後が縁起が悪いというのは、もしかしたら死の穢れとか何とか、そういうこともあるのかなと今思っている。
とはずがたりには、なぜか東二条院のお産の場面が出てくる。それもこの遊義門院を産むときだ。今までが今までなので皆胸つぶれて大騒ぎの中で、もうだめかと思っていたところ、生まれたという記述がある。この時東二条院40歳。もう後がないかもしれない時期だ。なぜわざわざこれを書いたのだろう。
もう1つ。この日記の最後の方で、二条は遊義門院の御幸に会い、ちらと姿を見た瞬間から涙を止められず、段差を降りかねている遊義門院に涙をぬぐいながら、「どうかこの肩を踏んでお降りください」といっている。どう考えてもあの東二条院の娘に対する態度ではない。また、遊義門院の侍女の中で、自分のことを知っている人がいないか、なんとか自分が誰なのか知らせたい知らせたいとしきりに書いている。普通、あれだけのことがあった人の侍女に、自分が二条だと知らせたいだろうか。知られたところで、あまりいい顔をされないと思うのではないだろうか。だとすると、他に何か事情があって、そのことを知っている者を探していたのではないか。この時既に後深草院も東二条院も亡くなった後だ。
さらに、この女の子を二条が身ごもったときに扇に油壷の夢を見ている。扇といえば、最後に、尼になった二条が那智の山にこもっているときに、夢で院から貰ったものが醒めても手元にあり、これを後に遊義門院に献上したという記述がある。この夢の中で、二条の父雅忠が、院が来る途中だといい、その後に遊義門院もいらっしゃるぞと言っている。そして、夢の中の遊義門院は、那智に篭るために、二条がついに両親から受け継い形見の品を東と西に売ることになったことに対して、気の毒だから、この衣を賜ぶぞと、左右から白い衣を取り合わせ二条に下賜している。その後に、院からの白い扇だ。なぜわざわざ雅忠が「遊義門院の御方も出でさせおはしましたるぞ」というのだろう。もう、こうなるとこの遊義門院が二条の子供でないという方が難しい。そして、二条の子であるという前提に立つと、この日記を書いた動機がはっきりしてくるのである。
では、父親は誰か。
二条が女の子を受胎するときのことだが、ここで相手が曙なのか有明の月なのかとても分かりにくく書いてある。前に有明の月だろうと書いたが、よくよく考えるとどうも不自然な気がしてきた。取ってつけたように「有明の月」らしき、曙とは別の人が出てくるのである。いくら有明の月が人に頼ってもという性格だったとしても、あの時期にそれはどう考えても不自然。やはり本当は曙と二条の子供なのではないかと思うようになった。実際、この女の子の出産に際して、曙は春日の社にこもったふりをして、代わりの者をこもらせ、自分はずっと二条のそばにいたのである。これほどのことを、いくら自分が手引きしたからといってできるだろうか。
また、最後に遊義門院御幸のときに、曙の息子もいたのを見て、
「太政入道殿の左衛門督など申しし頃の面影も通う心地して」
つまり、二条がその女の子を身ごもった時期の曙にそっくりだと書いている。なぜわざわざそういう記述をするのか。
結局、途中で女の子の父が曙だとまずいと思い、皇族の男性らしく書き、二条を追いかけた高貴な阿闍梨のことを院にも「有明の月」と呼ばせることで、既に亡き阿闍梨のことと印象づけようとしたのではないだろうか(作中でも、有明の月との出会いからすっかり院に話したことになっているので、院にも女の子を産んだ話はしていると思われる)。有明の月は院の弟とみられている。
なぜ曙だとまずいのかというと、東二条院は曙の叔母で、東二条院の後ろ盾というのは、実は早くに祖父、父を亡くして名門の家を守っていかなくてはならなくなった曙なのである。曙が自分の子供を院の子供にしたとなれば、これは政変の材料になるのだ。
もう1つ、このお産の記述が、史実に残っている時期より約1年遅い。もし史実通りの出産だとしたら、二条がまだ東二条院方に出仕していた時期でもある。この縁の近さは、もし東二条院が産んだ子が死産、もしくは生まれてすぐに亡くなったとして、その子供とすりかえることが可能だっただろう
(その場合は二条の出産の時期も違ってくるが)。また、もしこの子供が二条の子供だとしたら、東二条院があれほど激しく二条を追い出そうとした、本当の理由として合点がいく。
曙は、一番上の子を後深草院の皇子である伏見天皇に、二番目の子を、なんと亀山院に入内させている。亀山院の皇子である後宇多天皇には入内させなかった。当初はこれは曙の妹が亀山院に愛されず、皇子を産むことができなかったことへの恨みからと言われるが、その後は後宇多天皇の最愛の人が遊義門院であったことも、影響したのではないだろうか。
ちなみに、後宇多天皇は北山准后九十の賀で遊義門院を見初め、皇后にしたが、後深草院側が手放さず、何年も経てから後深草院の御所から盗み出し、彼女が亡くなるまでむつまじく暮らした。そして彼女の死の2日後に出家した。
この日記は、遊義門院が38歳で亡くなる前年で終わっている。
とはずがたり第5弾。
今日は作者二条本人ついて書きたい。
きのう、近衛大殿と亀山院について書いたが、ここではいかにも仕方なしにという書き方をした。実際に、二条は仕方なしにこの2人と契ることになった。が、本当のところはどうだったのだろうか。
この人は、本当に嫌だったら嫌という意思表示のできる人である。実は、この2人についてはひそかに好意をもっていたフシがあるのだ。
二条は、父方が村上源氏の流れをくむ久我氏、母方が四条家であり、女御として入内してもおかしくない家柄の出身である。したがって、常日頃自分の出自に引き比べて、なんと屈辱的な扱いを受けているのかと嘆いている。二条という名前さえ気にいらないのだ。そんな中、上記の2人は後深草院に対して二条の目の前で二条の家柄の良さについて説いている。つまり、二条の気持ちの代弁者なのだ。
六条院の女楽の席次のことで、二条はこともあろうに祖父に屈辱的な思いをさせられた。そのとき、彼女は枇杷の弦を切り、和歌を残して御所を出奔した。これに対して、後深草院は最初怒り出そうとした。が、ここで亀山院は彼女のやり方を素晴らしいといい、その場の雰囲気が二条に対する同情に変わるということがあった。また、彼女が御所を追放された後、北山准后九十の賀に出席できることになったときも、亀山院はなぜ彼女が歌を差し出さないかと気遣った。とはずがたりの中で、亀山院は常に彼女の味方だ。近衛大殿も、あのようなことがある前に後深草院に久我氏と四条家について語っている。
後深草院にも、そのあたりの二条の気持ちが伝わっていたのだろう。だから、自分はかまわないみたいな対応をしたのだと思う。でも、決してそうではない。亀山院のときには、正直言って、二条がはっきりと断ってくれることを後深草院は期待していたのではないだろうか。つまり、二条は二条で院にかばってもらいたく、院は院で二条にかばってもらいたかったように思う。
だいたい後深草院は、自分でとりはからっておきながら、後であてこすりを言ったりすることがある。二条がいかにも不承不承という感じで、院の合意のもとに別の人と契るのは自分がかかわっただけに仕方ないと思うが、自分の知らないところで、二条が積極的に別の男性と関わるのは気にいらないのだ(当たり前だが)。これは有明の月の場合にも当てはまる。そして、二条は二条で、このことについて「犯せる罪もそれとなければ」などと嘯いている。つまり、あまり罪悪感は持ってないし、後悔もしていない。が、読者の手前、一応言い訳がましく書いているだけだ。
院が、なぜ二条を公の妻にしなかったか。それは既に東二条院という後ろ盾のしっかりした中宮がいたからである。院は何かとそちらの意向を気にせざるを得ない。でも、二条からすれば、東二条院と自分とどこが違うのかということになる。そういう態度は常に出ていたに違いないと思える。だから、東二条院はことあるごとに「我をないがしろにする」と言って二条を非難する。
東二条院は、何人か子供を産んだが、いずれも育たなかった。結局姫宮1人だけが残った。皇子は産めなかったのだ。それに対して、二条と比較的気の合ったらしい東の御方という人が皇子を産んでいる。でも、東の御方の親は東二条院の気持ちをおもんぱかって、あまり大喜びできない。それくらい東二条院はそのことを気に病んでいたのだろう。
なぜ東二条院の産んだ子が育たなかったか。実は彼女は後深草院の叔母である。母の妹なのだ。つまり近親結婚だ。私は結局このことが原因だったように思う。だから、自分より10歳どころではない20歳以上も若い、自分に仕えている二条に院の手がついたときから、東二条院は猛烈に嫉妬したのだろう。
でも、二条も院との皇子を1人産んだが、結局育たなかった。これはなぜだろう。実は、二条の母は院の性教育係だったが、役目を終えたあと、別の男性の愛人になった。でも、院は二条の母を忘れられず、隙をみては「人わろく盗み云々」と院が述懐するようなことがあった。院は常々二条のことを「あが子」といっているが、もしかしたら、冗談ではなく本当に「あが子」だった可能性もある。
とはずがたり第4弾。
今日は作者二条の運命が暗転するきっかけになった2人の男性について書きたい。
まず最初に近衛大殿。この人物、亀山院側の重臣である。亀山院というのは後深草院の弟で、後深草天皇の後に天皇になった人である。この2人は同じ母をもつ兄弟だが、後深草院がまだ若いうちから強引に帝位を譲らされたり、その時東宮に亀山帝の皇子を立てたことから2人の間がこじれた。鎌倉側でもこの2人の間が悪くなることを好まず、結局東宮は後深草院の皇子が立つことになったという経緯がある。2人も鎌倉側の意向をくみ、2人が仲が良いということを鎌倉側にアピールするためにいろいろ遊びを企画した。
そのなかの1つでのこと。二条の後見をしていた祖父とひょんなことから仲違いをし、二条はこのときに着る衣装を調達しあぐねていた。すかさず雪の曙がひそかに衣装を彼女に渡し、彼女はその衣装を身に付けてその場に出た。
第一夜、最初の酒宴が終わったあと、たぶん彼女は雪の曙のところへ行った帰りに、夜だし、誰も見てないだろうと、なんと掛湯巻という、まあ、下着のような格好で自分の局に帰ろうとした。そこを近衛大殿につかまり、あわやというところで解放されたが、また大殿の部屋へ来るように誓わされる。そして…
その後再び酒宴が始まったが、それが終わって後深草院の腰を叩いていたところ、大胆にもそこに大殿がやってきて、用を頼みたいと言ってきた。何の用かはすぐわかる。それに対して、院は小声で早く行けという。私はかまわないからと。この院、決定的に気が弱い。直接対決するなどということはできない性質なのだ。結局障子一枚隔てて大殿と契るはめになる。もちろん院は寝入ったふりをして耳をそばだてている。このことについて二条は「死ぬばかり悲しき」と言っている。当然だろう。翌朝、院は彼女に気を遣いながらうらうらと、つまり朗らかな様子でいた。
次の日も、今度は大殿が幹事となって酒宴が催された。もうこの時点でまた何が起こるかと二条はおびえている。その酒宴のときに、院はこともあろうに雪の曙が二条に与えた衣装の1つをその酒宴に呼ばれた鵜匠に与えてしまう。前夜のことはもちろん雪の曙も知っているはずだ。それに続いてこれはもう曙の不快感は想像を絶する。そして、その夜も再び二条は大殿と契ることになる。
実はこの大殿、雪の曙にとっては最大の政敵である。雪の曙は亀山方とはあまり合わず、ただひたすら後深草院との結びつきと鎌倉との結びつきを頼みにしている。後深草院は、このあたりの心理を利用して二条と雪の曙の間を引き裂きにかかったのだろう。
そして翌日、それぞれの御所に帰るとき、雪の曙と二条は同じ車に乗った。亀山方の車と別れるとき、二条はなぜか大殿の車を名残惜しそうに目で追ってしまった。以来、雪の曙は二条に冷たくなる。当然だろう。
それでも2人の仲が復活しそうになったときがあった。でも、これは明らかに後深草院の横車によって果たすことができず、以来2人の間は消滅していった。この時になってなぜ院が2人を引き裂きにかかったかというのも興味のあるところである。
次に亀山院。
この人は言うまでもなく後深草院の弟である。実は二条はこの人とも契るはめになる。上の件とは別の機会だが、兄弟2人が1つところで寝ることになり、そこで後深草院の足を揉んでいたときである。亀山院が二条を貸せと言う。後深草院はウンとはいわない。そういいながら、結局後深草院は大量に酒を飲み、早々と寝てしまう。とことん気が弱いのだ。ということでその後はなるようになり、翌朝、その場に彼女がいないことを亀山院が後深草院にいいわけをし、後深草院も納得したふりをした。でも、当然寝たふりをして一部始終を聞いていたに違いないのだ。
このときはこれで終わるが、後で二条が里にばかりいて、なかなか出仕しなかったとき、二条は後深草院とはこのまま離れて、亀山院の世話になろうとしているという中傷(しかし、その手引きをしたといわれる者の名前が妙に具体的だ)が播かれ、それを信じた後深草院に、ついに御所を追放されることになる。
有明の月の場合とは明らかに異なる、結局、いちばん触れてはいけない人間と契るはめになり、その挙句に御所を追放されるはめになった。
2002.6.20
近衛大殿、私は好かないなぁ。二条の家柄の良さを強調しながら、四条家のゴタゴタ(祖父と叔父の太政大臣職をめぐるトラブル)について、その時院政を行っていた亀山院の政治を非難している。明らかに後深草院への追従だ。二条の出奔についても、あの歌は素晴らしいと亀山院が誉めていたことを強調し、二条を持ち上げる。その後に起こったことを考えると、下心ありありだ。そういう相手でも二条は目で追ってしまうんだなぁ。
とはずがたり第3弾。
今日は作者二条におぼれて追い掛け回した阿闍梨、「有明の月」について書きたい。
この人物、後白河院御八講のときにはじめて二条を口説いたようにかかれている。
が、違うのではないかという説がある。実は、その前に契っているかもしれないのだ。私もよくよく読んでみて、そうかもしれないと思うようになった。
というのは、御八講から後には、この人物が「有明の月」という名前をつけられる由来が見えないのだが、その前にはあるからだ。
父雅忠の四十九日に乳母の家にいるところを、雪の曙の従者が築地のくずれに植えてある茨をみて、「さてはゆゆしき御通ひ路になりぬべし」と言って刈り取っている。二条はその報告を受けて、「何事ぞ」とはいうものの、別に心配はしていない。この様子から、作者は曙がその晩に来るかもしれないと思っただろうと、私は思う。
案の定男性が来た。だけど、このとき、妻戸をあけた童が大騒ぎしている。曙ならばそんなことはないのではないだろうか。何しろ曙は十日くらい前に泊まっているのだ。何もしなかったが。もし曙だったら童だってそんなに驚きはしないだろう。
で、その後の記述をみていくと、どうもこの男性、皇族らしいのだ。さらに、このときの後朝に、
「帰るさは涙にくれて有明の月さへつらき東雲の空」
と男性は詠んでいる。どうも、本文中にはこれくらいしか「有明の月」の由来になるような歌がないのだ。作中に、有明の月という言葉を使った歌はいくつもある。ありすぎるくらいだ。だけど、これが名前の由来となると、これくらいしかないのだ。
結局曙を案内役に有明の月が忍んできたと思われる。
この有明の月、曙だけでなく、二条の叔父の善勝寺大納言や、果ては院にまで甘えている。二条に会うためならどんなツテでも使うという執念を感じる。さらに、会えば会ったで、人目を気にするということがない。人の噂になろうがなんだろうが、毎日のように通ってきたりする。あまりのことに、二条が縁を切ろうとすると、大量の起請文をそのとき頼りにしていた善勝寺大納言に送りつけてきたりする。
しばらくは遠ざかっていたが、何しろ相手は阿闍梨。何かの祈祷のときには会わざるを得ない。そうこうするうちに院にも知られる結果になる。で、何と院も有明の月のためにいろいろ取り計らうことになるのだ。なんたって相手は阿闍梨。呪いをかけられたらたまらないのだ。また、相手は僧侶なので政治的力はない。だから、結局取り計らうことになるのだろう。宗教的には大いに問題なのだが。