Archive for 5 月 24th, 2008
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ザッハトルテ(独:Sachertorte)は、オーストリアの代表的な菓子(トルテ)。チョコレートケーキの一種。ザッハートルテとも。ウィーンでは母音の前のsを有声化しないため、サッハートアテのような発音になる。
こってりとした濃厚な味わいを特徴とする。ウィーンのホテル・ザッハー(Hotel Sacher)の名物菓子であるが、今日では広く各地で作られる。
概要
小麦粉、
バター、
砂糖、
卵、
チョコレートなどで作った生地を焼いてチョコレート味の
スポンジケーキを作り、
アンズの
ジャムを塗った後に、表面全体をチョコレートでコーティングする。スポンジを切り分けて、中にジャムを塗る場合もある。砂糖を入れずに泡立てた
生クリームを添えて食べる。
ウィーンのホテル・ザッハーの菓子職人フランツ・ザッハー(Franz Sacher)が、メッテルニヒの命を受けて1832年に創出した(1814~1815年のウィーン会議で創出された、とする説もある)。以来ザッハーのスペシャリテとして好評を博す。門外不出とされたが、ホテル・ザッハーが財政難に陥った際に援助を行ったウィーンの王室ご用達のケーキ店・デメル(Demel)の娘が嫁いだ際、レシピが流出し、ザッハトルテの名を冠して発売したことから商標等をめぐる裁判になった。7年に及ぶ裁判の結果、デメルのものもデメルのザッハトルテ(Demel's Sachertorte)として売ることが認められた。ホテル・ザッハーのオリジナルザッハトルテ(Original Sacher-Torte)はアンズのジャムを内部にも挟むのに対し、デメルのザッハトルテは表面にのみ塗る、という違いがある。
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小川 直之(おがわ なおゆき、1953年2月 - )は、日本の民俗学者である。國學院大學文学部教授。
来歴
1975年に國學院大學文学部文学科を卒業の後、1975年から平塚市博物館学芸員、1994年から國學院大學文学部専任講師、1996年に助教授、2003年に教授。
著書
- 『地域民俗論の展開』 岩田書院、1993年
- 『摘田稲作の民俗学的研究』 岩田書院、1995年
- 『歴史民俗論ノート-地蔵・斬首・日記-』 岩田書院、1996年
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重興(じゅうこう)は明末に秦尚行が自立し建てた私年号。1644年。
西暦・干支との対照表
出典
- 順治元年9月山東臨清総兵王国棟「掲帖」(中央研究院歴史語言研究所編『明清史料』丙編第5本所収)
参考文献
- 李崇智 『中国歴代年号考 修訂本』(北京:中華書局,2001年1月) ISBN 7101025129 225ページ。
- 鄧洪波編 『東亜歴史年表』(台北:台湾大学出版中心,2005年3月) ISBN 9860005184 244ページ。
関連項目
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坂本 重武(さかもと しげたけ、1905年3月25日 - 1997年9月11日)は、西南学院大学名誉教授。
略歴
1905年(明治38年)3月25日に
熊本県に生まれる。
1928年(昭和3年)、東京帝国大学英文科を卒業。西南学院高等部教授を経て、1949年(昭和24年)西南学院大学教授、1952年(昭和27年)学長、1958年(昭和33年)学術研究所長、1964年(昭和39年)図書館長。1973年(昭和48年)福岡女学院短期大学教授、同年~1988年(昭和63年)西南学院理事長となる。
専攻は英文学で趣味は釣り。1997年(平成9年)9月11日他界。
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井上 純弌(いのうえ じゅんいち、1970年 - )はイラストレーターとしても活躍するゲームデザイナー。同人活動でのペンネームは希有馬(けうま)。
オタク的サブカルチャーに対して、商業的収益性やトレンドなどの営業的視点に立った考察や作品制作が多く、その論考にも一定の支持がある。
また、近年では玩具プランナーとしての顔もある。同人ベースながらも本格的なフィギュア製作活動を行っており、中国の工場と業務提携して大量生産までしている。
代表作
代表作は『
天羅万象』、『
アルシャード』、『
エンゼルギア』など。近年は
ファーイースト・アミューズメント・リサーチと組んだ
テーブルトークRPG(TRPG)のデザインが多い。
天羅万象はRPGマガジン誌上で世界観の紹介やリプレイなどが掲載され、同誌の1990年代中盤から後半にかけての看板作品の一つとなった。TRPGにおけるイラストレーションなどのビジュアル重視デザインの走りと言ってよい作品のひとつである。初代ギア・アンティークやワースブレイドにも似た重厚な画風と評価する声もある。
作風
イラストレイターとして
天羅万象に提供したイラストなど、モンスターイラストと人物イラストの落差が激しく、描き込みの細かい画風を特徴とする。キャラクターを描いたイラストは好悪が二分され、
RPGマガジン誌上でもその方向性が攻撃を受けることがあったが、醜怪かつ重厚なモンスターイラストは総じて評価が高い。
1996年から
1997年にかけて展開された富士見書房ドラゴンマガジン誌の企画・
ソード・ワールドRPGシアターでは連載期間中のイラストレーターを務め、モンスターイラストでのインパクトを見せ付けた。
モンスターイラストへの評価が目立つ井上であるが、キャラクターを描きつつも邪悪さや毒を滲ませることもこなしており、決してキャラクター画が不得意というわけではない。また漫画を描く際要所で止め絵的なコマを作ったり(
RPGマガジン天羅セッションリポート漫画中の『地獄マスターとの再会』など)、ブログなどでは一コマ漫画的なイラストを描いて目を引くなど、見せる技法は卓越している。
ゲームデザイナーとして
ゲームデザイナーとしては、ルールブックの
グラフィックデザインを最重要とする側面が強い。「いくら良いルールを作っても、それを伝えるルールブックがデザインされていないと意味がない」ということを持論にしており、自身がイラストレイターということもありグラフィカルなルールブックを作ることが多い。
デビュー作である『
天羅万象』はそれが顕著にあらわれていて、「イラストの合間に文章がある」という絵本のような過激な構成をされた製品であった。奇妙奇天烈なガジェットがあふれる『天羅万象』の世界は文章では表現することができないことからの奇策だが、このデザインは功をなし、『天羅万象』のインパクトある世界観をユーザーに広く伝えることができた。
『アルシャード』ではスタンダードRPGを標榜したこともあって、インパクトよりもシンプルで使いやすいエディトリアルデザインを目指した。フォントサイズからミリ単位の文字間隔までこだわったデザインは高く評価され、後の多くのゲームに『アルシャード』のレイアウトが模倣されることになる。
また、ゲームをデザインするときは、アニメや映画の製作のようにイメージボードを多用してスタッフにイメージを伝えていることも特徴的である。
エピソード
- 最近はおとなしくなっているが、かつてはイベントなどでファンや他の業界人に対して非常に攻撃的で過激な言動をしていたことで知られる。(もっとも本気で相手を攻撃しているのではなくプロレスのヒール的な役回りを好んで演じているだけなのだが)。井上のヒールとしてのアピールはテーブルトークRPGのファンの中では人気もあるが、人気と同じくらいに嫌っている者も多い。
- かつてはRPGマガジンなどの商業雑誌上でもヒールとしてのアピールを強く行っていた。しかし過激すぎるアピールが原因でF.E.A.R.社の菊池たけしとの間で深刻なトラブルが起こり、井上が菓子折りを持ってF.E.A.R.社に訪問し謝罪まで行うはめになった。
- 上記事件があった後も井上は反省のそぶりをあまり見せず(F.E.A.R.社提供のウェブラジオ「ふぃあ通」では謝罪のときに反省などしていなかったニュアンスを語っている)、F.E.A.R.社全体に対して過激なアピールを見せ始めるようになる。だが、F.E.A.R.社長の鈴吹太郎は井上の自社への批判をただの「ヒールとしてのネタ」としてだけではなく、ある程度の正当性を見出し、井上に強い興味を持つようになる。鈴吹は井上に自社を通じてゲームを出版することを打診し、以後、井上はF.E.A.R.と協力してゲーム製作を行うようになる。
- システムデザイナーの遠藤卓司とは学生時代からのゲーム仲間で、相棒のような存在である。遠藤は天羅万象の発売直後にF.E.A.R.の社員になったため、F.E.A.R.社と井上との関係が劣悪であるように見えた時期では「遠藤がF.E.A.R.に入ったため天羅の展開がもう進むことはない」というのがファンの間での一般的な見解だった。
- 学生時代はアニメの論考をテーマに精力的な同人活動を行っていたが、庵野秀明に井上の論考は優れているが、論考は儲からないからやめた方がよいと言われて、オタク業界の中でこれだけ儲ける男が言うのならそうなのだろうと、アニメ論考の同人活動はやめたらしい。庵野に「論考は向いていない」と言われたからやめたという説が一部に流布されていたがこれは誤りであると、本人の口からJGC2007のトークショー中に明言された。しかし現在でも論考と薀蓄が好きなのは変わらないようで、商業誌の記事などで隙あらばペダンチックな論説を打とうとする。
- 同人作家としては「希有馬」のペンネームで活動。所属サークルは「希有馬屋」。現在では男性向け二次創作もの中心である。しかし井上の日常の状況をシニカルに描いた日記漫画もファンには人気がある。近年では自身のブログが彼の得意な日記漫画のノリで書かれることも多い。
- 2000年代に入ってからは同人フィギュアのプランナーとして積極的な活動をするようになった。中国の工場に完全受注生産で大量生産しており希有馬屋は同人フィギュア界では現在は大手サークルの一つである。もともとフィギュアには素人であったことが幸いして(もしくは災いして)、同人フィギュアの常識では考えられないような無茶な企画を立てることが多い。2007年冬には、当時の同人フィギュア界では破格のサイズである1/6スケ-ルで、さらに胸に特殊素材を使い「揉むとやわらかい」というフィギュアを発表し話題となった(なお、1/6スケ-ルでも当初の企画よりも小さめらしい)。同人ベースでは非常識な企画を通すために希有馬屋の同人フィギュア計画は毎回難航し、そのことが自身のブログなどのネタになっている。
- クリスチャンであり、神学に強い関心を持つ。
- 井上は自作のゲームの「前書き」を非常に大仰な文体で書くことで知られている。彼はゲーム製品の紹介にすぎないはずの前書きを、無理矢理な展開で「感動的な話」に摩り替えてしまうという独特の技を持っており他のデザイナーの前書きと比べると明らかに異質なノリが目立つようになっている。
- その前書きの中で、ゲームのテーマを「神の愛」に結び付けて熱く語ることがしばしばある。これは彼の神学への系統から来るものなのだが、その中には新興宗教の教祖なみに電波系な内容が含まれていることもある。多くのファンはこの前書きを井上の「芸」として受け取っていてあまり本気にしてないようだ(井上自身も本気ではなくネタとしてやっていると思われる)。ただ、”井上流”に免疫のない人はこの電波系の前書きの時点で激しく引いてしまう人も多い。
- 天敵は声優の小暮英麻。小暮と井上の奇縁はウェブラジオ「ふぃあ通」に井上がゲストで出演したときに、井上がデザインしたゲームである『エンゼルギア』の女性NPCを小暮が演じて愛のセリフを井上にささやいてあげるという超羞恥企画が発端である。このときに不覚にも本気で恥ずかしがってしまった井上に、小暮が蛇のように執拗にからかい続けたことが井上の人生最大の恥辱になっているらしい。当の小暮はそれを承知の上で今でもゲストやイベントなどで出会うたびに井上をいじり倒している。小暮がつけた井上の愛称「じゅんいっちゃん」は今ではファンの間でも広まっている。
- 菊池たけし曰く、ツンデレであるとのこと。
作品リスト
テーブルトークRPG
パソコンゲーム
リプレイ参加
- ビーストバインドNTリプレイ 別れの日は過ぎて(ビーストバインドNTサプリメント ビーストバインド・エヴァンシェル収録)(レヴィヤたん)
- アルシャードff・リプレイ オーディンの槍(ヴィオレット)
- アルシャードガイア・リプレイ 神薙ぐ御剣(宮沢竜一郎)
- アルシャードガイア・リプレイ 希望(ゆめ)へのコンタクト(fb Online連載)(宮沢竜一郎)
- ダンジョンズ&ドラゴンズ・リプレイ 若獅子の戦賦(ガンボルト)
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柴田 勝重(しばた かつしげ、天正7年(1579年) - 寛永9年(1632年))は戦国時代末期~江戸時代初期の武将。三左衛門。権六郎。
父は柴田勝政。子に勝興・勝平・勝昌など。
徳川家康に仕え仙川の領地を与えられた。
1632年に没する。春清寺には勝重を祖とする柴田氏三代の大きな墓がある。
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コスモタウンフリーモール佐伯は大分県佐伯市にある複合商業施設。
2006年11月10日にオープンした。現在もまだ店舗が入ってない建物もある。
店舗紹介
- □食べる
- □遊ぶ
- □買う
- □習う
- □乗る(車)
オートセンターカートップ
その他情報
住所:大分県佐伯市大字鶴望
外部リンク
パノラマで見るコスモタウン佐伯市公式ホームページ
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はかなき人生(La vida breve)は、マヌエル・デ・ファリャ作曲による全2幕の歌劇である。台本は、カルロス・フェルナンデス・シャウによる。初演は、1913年、ニースのカジノ劇場で行われた。
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蒲原大堰(かんばら-)は新潟県三条市、信濃川本川の中の口川分流部に建設された堰である。
蒲原地域は近世以降、多くの為政者によって河川改修が行われた。端緒となるのは1597年(慶長2年)、越後春日山城主上杉景勝による河川改修である。この陣頭指揮を執ったのが執政である直江兼続である。燕三条付近の洪水調節と上杉軍の拠点施設を水害から守る為、信濃川から中の口川を掘削・分流させた。江戸時代、長岡藩9代藩主・牧野忠精は蒲原平野の悪水を日本海に排出する大工事を手掛け、この地域は穀倉地帯に変貌。人口も次第に増えていった。だが、大雨が降る度に洪水被害を受ける水害常襲地帯である事、渇水時には中の口川の流水が信濃川に流出し灌漑や水運に影響を及ぼしていた。この為、根本的な洪水調節と安定した流水維持が課題となった。
1961年(昭和36年)の洪水で白根市等が被害を受けたのを機に、建設省(現・国土交通省北陸地方整備局)は燕三条地域の河川整備を強化しようとした。だが、中の口川沿岸は人口密集地帯であった為堤防の引堤等は住民の移転が多くなる為不可能であった。又、中の口川の水量維持も行う上で総合的な整備を行う必要があった為、信濃川・中の口川分流点に堰・水門を建設する計画に着手した。
1973年(昭和48年)より中の口川水門の建設に着手、1978年(昭和53年)に完成した後に蒲原大堰が同年より建設に着手され、1984年(昭和59年)に完成した。堰の目的は洪水調節・中の口川への正常な流量の維持・灌漑・上水道と多目的である。これにより洪水による中州地帯への浸水の防止と、渇水時の中の口川水量減少を防止する事が可能となり、農業用水・蒲原地域の水道供給が強化された。
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