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Archive for 5 月 2nd, 2008

天璽(てんじ)は、三国時代の末帝孫皓の治世に行われた7番目の元号。276年。




西暦・干支との対照表


他元号との対照表


参考文献

  • 三国志』(中華書局 1974年)
  • 『中国歴代年号考』李崇智(中華書局 2004年)



関連項目


[てんし]


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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HIDECHAN! ラジオ(ひでちゃんらじお)とは、コナミデジタルエンタテインメント社の子会社のインターネットレボリューション社にあるヒデラジステーションのコラムと連動している

小島プロダクションのHIDEOBLOG内のインターネットラジオである。


概要

小島秀夫が始めたHIDEOBLOG内で始まったインターネットラジオであり、2005年12月19日~12月22日まで試験放送で4回放送の後、2005年12月28日に本放送化した。2007年にはインターネットレボリューションに連動



司会

小島秀夫
小島プロダクション監督。愛称はヒデちゃん、コジコジ等。メインの司会を担当。
村田周陽
小島プロダクション所属のクリエイター。愛称はムラシュウ。『HIDECHAN! ラジオ』内でのパロディドラマ『アイデアスパイ 2.5(ツー・ハン)』の脚本も担当。
齊藤昭義
小島秀夫が多忙で司会ができず、さらに村田周陽も多忙だった為、代理抜擢、コナミ社員コジプロ担当(主に小島秀夫のマネージャーと海外担当)第159回~第173回まで竪山亜矢子と共に司会代理をした。愛称は「アッキー」
竪山亜矢子
小島秀夫が多忙で司会ができず、さらに村田周陽も多忙だった為、代理抜擢、コナミ社員コジプロ担当、第159回~第173回まで齊藤昭義と共に司会代理をした。愛称は「タッチー」


出演者

菊地由美(レギュラー、第0回の4回目に初登場)
声優兼女優。ラジオ内において「ヒデオナビゲーター001」という肩書きである。第174回に司会代理を行う。
戸島壮太郎(レギュラー。1度だけ司会をしたことがある)
愛称はトジーン。小島プロダクション所属のクリエイター。ラジオ内においては「ヒデゲーター007」という肩書きである。第159回~第173回まで休養し、第174回に復帰。
井上喜久子(準レギュラー)
オフィスアネモネベルベットオフィス所属の声優である。メタルギアシリーズではザ・ボスやローズマリーなど、多くのキャラの声を演じている。
大塚明夫(準レギュラー)
マウスプロモーション所属の声優である。メタルギアシリーズの主人公、ソリッド・スネークの声を演じている。
猿のグレイ君(準レギュラー)
MSX版スナッチャーの最初に出てきた猿のロゴをキャラ化したキャラ。声は戸島壮太郎氏だと思われていたが、違うことが判明した。


サブタイトル一覧


特番サブタイトル一覧


補足

実質上の第1回は2005年12月19日である。

非常に「ピー」音(放送禁止音)が多いラジオである。ただしこれは実際に放送禁止用語に使っているというわけではなく、単に発売前の作品のネタバレ的な発言に使われていることが多い。試験放送の段階から「ピー」音がある。

過去に出演したスタッフとゲスト(初登場順)(井上喜久子と大塚明夫を除く)

千手昭彦 -(元レギュラーで現在はヒデラジステーションのSENJUレポートをやっていたが、現在は不明)
岡村憲明 -(第92回と第107回、第118回、特番第1回に登場、現在はカブラジ司会者から第160回に復帰)

塚本晋也監督(第17回~23回)
須田剛一(第31回、第89回、第90回、第108回後編)
小向美奈子(第35回~37回)
MGS歴代メインキャスト(第42回)
押井守監督(第46回~48回)
藤原啓治(第50回)
桑島法子(第52回、第53回)
浜村弘一(第55回~56回、第58回~59回、第108回前編)
桜井政博(第60回~63回、第112回前編、第142回)
毛利元貞(第70回、第71回)
水間真紀(第72回、第73回)
中村如哉(ボクらの太陽シリーズディレクター)-(第73回)
新川洋司(デザイナー)-(第0回の4回目その①、第75回、第76回)
野村哲也(第78回、第79回)
稲葉敦志(第80回~83回)
神谷英樹(第80回~83回)
柴田亜美(第84回、第85回)
MPO声優大集合(第93回、第94回)
上田文人(第101~102回、第110回後編)
福山潤(第103回、第104回、第112回後編)
後藤沙緒里(第104回)
田中秀幸(第105回)
飯田和敏(第108回後編)
板垣伴信(第110回後編)
巧舟(第112回後編)
佐藤まり江(第118回)
神山健治監督(第119回)
2.5と今すぐ・コールと714とJEA幹部Bとギジンさん(第120回)
日比野則彦(第121回)
一般客①と一般客②(公式サイトに載っているものの、個人情報保護法により本稿では匿名とする)(第131回)
仲村崇コナミ社員コジプロ担当営業担当(第161回、第163回、第170回)


関連商品

HIDECHAN!Radioネックペンダント(2006年の東京ゲームショウ2006で配布、非売品)
HIDECHAN!Radio.2.5 CD(2007年2月14日コナミスタイル限定販売)


関連項目

小島秀夫-司会
菊地由美-アシスタント
戸島壮太郎-アシスタント(愛称はトジーン)
村田周陽-代理司会&アシスタント(愛称はムラシュウ)
インターネットレボリューション
メタルギアソリッド
メタルギアソリッド ポータブル OPS+-パスワード限定配信のヒデラジ兵がいる。


外部リンク

http://www.blog.konami.jp/gs/hideoblog/出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クリアブラケットとは、矯正歯科に用いられるプラスチック材料で出来た透明の装置であり、審美面を考慮した歯の矯正治療に使用される矯正装置。

デンツプライ三金により1995年に開発され、何度かの改良、およびクリアスナップとの組み合わせにより、従来の矯正治療の課題であった見た目、痛み、そして治療期間を大きく向上した。



外部リンク


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[南部町]


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

混一色ホンイーソー)とは、麻雀におけるのひとつ。萬子索子筒子のどれか一種と、字牌だけを使って和了ったときに成立する。ホンイツ(あるいはホンイチ)と呼ばれることも多い。門前で3飜、副露2飜。



概要

役牌ドラとの複合が容易で、満貫以上の大物手になりやすい中堅どころの役と言える。門前の混一色はメンホンあるいはタテホンと呼ばれ、立直との複合も少なからず見られる。逆に、役牌もなくドラもない、オタ風を使い副露を多用して安易に作ったホンイツのみ2飜の手は、俗にバカホン(馬鹿混)と呼ばれる。

いずれにせよ、一つの色のみで手を作るため捨牌に偏りができてしまい、染め手であることを見破られやすい。とはいえ両面以上の良形テンパイになることも多く、字牌とのシャンポン待ちに構えることもでき、使い勝手の良い役であると言える。多くの役と複合可能な役であり、得点力があるため、点棒状況や配牌如何で意図的に狙うことも多い。


混一色の上位役は清一色であるが、ホンイツ自体が既に充分形であるため、ホンイツからチンイツへ移行することはあまりない。また、チンイツやホンイツを「一色手」「染め手」と言い、これらを狙って手作りすることを「染める」と言う。



牌姿の例

(例)役牌との複合


などを刻子にできれば強力である。



(例)一気通貫との複合



が付く。



(例)平和との複合



雀頭がオタ風であれば、平和との複合も可能である。この例では一盃口も付いている。待ち。



(例)対々和との複合



対子が多ければ、鳴いていって対々和にすることもできる。1副露のこの牌姿では、ツモ和了することで三暗刻も付く。を自力で引きあがれば倍満まである。



(例)七対子との複合



点棒状況からどうしても跳満あるいは倍満を作りたい時、鳴ける牌をすべて見送ってメンホン七対子を狙うことがある。上の牌姿だと、対子の字牌を両方鳴けたとしても跳満に1本足りない。しかし面混七対ならリーチをかけてちょうど跳満になる。さらにドラを含んでいれば倍満の差を逆転することも可能であり、無理矢理ドラ単騎のリーチをかけることもある。



(例)多面張のケース



牌の寄り次第で、メンチンなみの多面張になることもある。この例はの八面張。ここまで広くはならずとも、
の変則三面張(エントツ待ち)や、
の四面張などはざらにできる。




関連項目


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルジャン・サトラピMarjane Satrapi مرجان ساتراپیペルシャ語表記/1969年11月26日 - )は、イラン北部、ラシュト出身のフランス漫画家イラストレーター



経歴

首都テヘランのカージャール朝の流れを汲む進歩的な上流階級の家庭に育ち、少女時代に当時のパーレビ国王の失脚とイラン革命、そしてイラン・イラク戦争を、写真家の父らと共に市民の側から目撃した。

1983年、両親の意向によってオーストリアの首都ウィーンフランス語学校に留学。しかし、「自由の落とし穴」に陥り、自堕落な生活を送っていた自身を反省して帰国し、大学在学中にレザーという青年と結婚するが間もなく離婚、フランスの首都パリに移住する。そこで出会ったバンド・デシネの作家、ダビッド・ベー(後述『ペルセポリス』第1巻で序文を書いている)と出会い、本格的に漫画家として活動を始めた。彼女の特に初期の作品はダビッド・ベーのものに似たスタイルで描かれている。


サトラピはイランでの幼少期とヨーロッパでの少女時代を描いた自伝的作品『ペルセポリス(Persepolis)』で世界的な名声を得た。『ペルセポリス』第2巻は2002年のアングレーム国際漫画祭で最優秀脚本賞を受賞している。この作品は2007年にソニー・ピクチャーズ出資の元、サトラピとフランスのアニメーター、ヴァンサン・パルノーVincent Paronnaudとの共同監督で長編アニメーション映画が製作され、プレミア上映となったカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した。


サトラピはさらに2005年に『Poulet aux prunes(鶏のプラム煮)』でアングレーム国際漫画祭の最高賞である最優秀作品賞を受賞している。彼女はアメリカの有力紙ニューヨーク・タイムズに、不定期でイラスト入りのコラムを執筆中である。



日本での出版

『ペルセポリス(Persepolis)』は、本国フランスでは第4巻まで刊行されているが、日本では英語版と同様、フランス語版の2巻を1冊にまとめたものとして、全2巻が「バジリコ」から出版されている。また日本では、サトラピと親戚の女性達が結婚観、セックスについて語る茶飲み話を描いた『刺繍』も明石書店から出版されている。

  • ペルセポリスI イランの少女マルジ(園田恵子訳、2005年6月、バジリコ、ISBN 490178465X )
  • ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る(同上、ISBN 4901784668)
  • 刺繍―イラン女性が語る恋愛と結婚 (山岸智子 監訳、大野朗子訳、明石書店、ISBN 4750323616)


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安藤組(あんどうぐみ)は、株式会社東興業(あずまこうぎょう)の俗称。マスコミによって、名付けられた。業種は、不動産売買、興行、水商売の用心棒、賭博など。昭和27年(1952年)から昭和39年(1964年)12月9日まで活動した。社長は安藤昇。最盛期の組員は530人だった。



歴史 

昭和27年(1952年)7月、安藤昇が、東京都渋谷区宇田川町に、株式会社東興業を設立し、正式に登記した。 [安藤昇]

 註 


参考文献 



エピソード

  • 安藤昇が率いる愚連隊・「下北沢グループ」は、戦勝国民と称して都心の主要駅前の占拠し、闇市を取り仕切っていた一部の不良在日外国人と対立していた。
  • 運営方針は指詰めを禁止したり、入れ墨を嫌ったなど都会的でスマートな安藤の個性を大きく反映している。
  • 組織編制は時に流動的。反面、制約を嫌う不良青少年の支持をえた。初期の構成員に大学生が多かった。ノンフィクションである安藤昇『激動―血ぬられた半生』双葉社、1998年、ISBN 4575506605では安藤組は都内の料亭を借りて賭場を開いていたとしている。渋谷は安藤の進出(※)以前の明治期から落合一家がシマとして守っている。※安藤は大久保の素封家出身。
  • 博徒の縄張防衛は死んでも守るとして「死守り」と呼ばれるが山平重樹『血風賽の目侠伝―落合一家総長 高橋岩太郎一代記』三一書房、1993年、ISBN 4380932788によると落合一家の高橋岩太郎総長は、中野万年東一より安藤を紹介されると渋谷での活動には庇護を与え、賭場の運営も許している。ヒエラルキーを構成するやくざ社会においては愚連隊が名門博徒のシマ内で堂々と賭場を開いているのは白眼視された。『実話ナックルズ』での安藤のインタビュー記事ではこの高橋との交流についても本人が証言をしている。
  • 同じく渋谷を庭場とする的屋の武田組(武田一郎組長。飯島連合会)とは、安藤昇『激動―血ぬられた半生』双葉社、1998年、ISBN 4575506605で仮名となっているが親分の武田と安藤は親交があったとされる。反面、武田組や武蔵小山の伝統的硬派少年の流れを汲む鹿十団と安藤組はモメ事を起こしていたとも記述している。
  • 宮崎学『不逞者』幻冬舎<アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4877287345によると東興業の“東”は万年東一に因むとされる。余談だが、当時の新宿は小金井一家の、銀座は生井一家(篠原組)の縄張りである。
  • 後に関東やくざ社会の金看板となった村山洋二弥根家一家総長)は、当時の安藤は東京でも珍しい外車を乗り回していたと『実話時代三和出版で語っている。



 歴代組長 



幹部・準幹部 

  • 島田 宏(大幹部、参謀格)- 別名、久住呂濶。もと外車ディーラー
  • 志賀日出也(専務、赤坂支店長) - 元落合一家日本天狗党にも加盟していた。解散後は住吉連合の常任相談役。細木数子の姉の夫。
  • 須崎清(大幹部。安藤 昇の代人と用心棒)。
  • 花形 敬(大幹部) - 明治大学予科
  • 花田瑛一(大幹部、営業責任者) - 専修大学。のちに大行社岸悦郎と兄弟分の盃を交わす。
  • 石井福造(大幹部) - 国士舘中学。のちに住吉連合常任相談役を経て、住吉会常任相談役。
  • 森田 雅(大幹部) - 高輪学園鹿島神流國井道之の高弟橋本鎮之助に師事し、世田谷上馬に鹿島神流錬心館道場を開く。安藤組の戦闘部隊長。花形敬襲撃事件その他の罪で小菅刑務所に収監されるが、懲役中に安藤組が解散する。出所後は一時母のトンカツ屋を手伝うものの、武術の世界で生きることを決め、福岡ついで静岡で道場を開く。日本青年社の剣道師範も勤めた。
  • 瀬川 康之(大幹部) - 加入は後期になる。小田急線の花形と並ぶ中央線沿線の雄として新宿の尾津喜之助にも見込まれたが、その暴れぶりが手に負えず「お前と似たような奴のいる渋谷にでもいけ」と大親分に言わしめた。安藤組に入った瀬川は森田の客分となっている。解散後は関西へ移り五代目酒梅組若頭補佐。名前を瀬川康之助に改めていた。波谷守之とも交際あり。
  • 小笠原郁夫(大幹部) - 周囲からは最も安藤の言動に心酔していた存在と見られており、安藤自身もこの点を認めている。このため横井英樹襲撃事件の犯人と当初警察からマークされたのは千葉一弘ではなく小笠原であった。読売新聞の社会部司法記者主任の三田和夫は小笠原が指名手配されているのを知りながらスクープを狙い匿い失敗。犯人隠避容疑で逮捕された三田は退社するが後に「正論新聞社」の社長として政財官の悪党を震え上がらせることになる。
  • 西原健吾(幹部) - 国学院大学
  • 大塚稔(幹部)- 元・ボクサーで東日本の新人王。解散後は残党に合流後引退。大日本一誠会会長。全日本愛国者団体会議の議長団の一人。
  • 矢島武信(幹部) - 立教大学。解散後は立教大学の一派を率いるが、小金井一家に養子縁組。初代新宿東貸元。
  • 黒木健児(幹部) - 法政大学。
  • 西条剛史(幹部) - 法政大学。
  • 佐藤昭二(幹部)- 国士舘大学。
  • 庄司 茂(幹部)
  • 三吉(幹部) - 元は館崎直也(安藤 昇の兄貴分)の舎弟
  • 野田克己(幹部)
  • 杉本法介 - 立教大学。
  • 千葉一弘 - 横井英樹襲撃犯。解散後は住吉会住吉一家石井会相談役。
  • 桜葉 潔
  • 浅川良吉



関連書籍

  • 安藤昇『やくざと抗争 上巻』徳間書店<文庫>、1993年、ISBN 4-19-890018-3
  • 安藤昇『やくざと抗争 下巻』徳間書店<文庫>、1993年、ISBN 4-19-890019-1
  • 安藤昇『激動―血ぬられた半生』双葉社、1998年、ISBN 4575506605
  • 森田雅『修羅場の人間学-実録 安藤組外伝』徳間書店<文庫>、1995年、ISBN 4198904375
  • 森田雅『闘いて候う』洋泉社、1998年、ISBN 4896912968
  • 本田靖春『疵 花形敬とその時代』文藝春秋社<文庫>、1987年、ISBN 4167263041
  • 三田 和夫『読売梁山泊の記者(ぶんや)たち―戦後・新聞風雲録』、紀尾井書房 (1991/12)、ISBN 978-4765610612



ビデオ

  • 『実録 安藤組 襲撃編』


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豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車(とよかわてつどう・ほうらいじてつどう・たぐちてつどうのでんしゃ)


本項では、豊川鉄道鳳来寺鉄道(現在の東海旅客鉄道飯田線の一部)および田口鉄道(後の豊橋鉄道田口線)が保有した電車について記述する。この3社は、豊川鉄道を基幹としたグループ会社であり、車両も同形車を導入して直通運転を行なっていた。そのため、本項では3社の電車を一括して記述するものとする。



概要

豊川鉄道は、豊川稲荷への参詣客や、豊川流域の旅客・貨物輸送のために設立された鉄道で、1897年(明治30年)から1900年(明治33年)にかけて、豊橋(吉田)~大海間が全通した。鳳来寺鉄道は、豊川鉄道の延長線として1923年(大正12年)2月に長篠(大海)~三河川合間が開業した。開業当時は両鉄道とも蒸気動力であったが、1925年(大正14年)7月に直流1500Vにより電化され、電車および電気機関車による運転を開始した。両社は共通設計の車両を導入、使用した。

1929年(昭和4年)5月、鳳来寺鉄道から分岐する田口鉄道が開業し、1932年(昭和7年)12月鳳来寺口(後の本長篠)~三河田口間が全通した。同線は開業当初から直流電化されており、車両も豊川鉄道と同じものが導入され、共通運用された。


1943年(昭和18年)8月1日付けで、豊川鉄道・鳳来寺鉄道の両社は、本州横断鉄道を形成する三信鉄道伊那電気鉄道とともに戦時買収され、鉄道省(国有鉄道)飯田線とされた。枝線であった田口鉄道は国有化の対象とはならず、豊川・鳳来寺両鉄道の買収後も存続したが、列車の運行は鉄道省に委託され、1952年(昭和27年)5月の委託契約解除まで両社の車両と混用された。また、豊橋への直通運転も1963年(昭和38年)まで継続されている。


国有化時に鉄道省へ引き継がれた車両は、豊川鉄道が電気機関車3両(うち1両は未成)、電車20両、蒸気機関車2両(1280形 1280,1281)、貨車132両、鳳来寺鉄道が電気機関車1両、電車2両、貨車19両である。田口鉄道は、この時点で電気機関車1両、電車2両を保有していたが、これらも鉄道省に貸し出され混用されていた。



形式


モハ10形

モハ10形は、1925年の豊川鉄道、鳳来寺鉄道電化の際に用意された、車体長15m級の木造両運転台型制御電動車で、豊川鉄道向けに5両、鳳来寺鉄道向けに1両が日本車輛製造本社で製造された。屋根は丸屋根で、前面は軽いRをつけた非貫通3枚窓である。側面窓配置は1D33D33D1、座席はロングシートであった。定員は100人。電動機はTDK-31(52.2kW)4個を装備、歯車比は17:67である。

当初は両社ともモハ1形と称していたが、1938年(昭和13年)にいずれもモハ10形に改称され、鳳来寺鉄道のものは10、豊川鉄道のものは11~15に改められた。


買収後は、買収されなかった田口鉄道のモハ30形2両が鉄道省に供出された代わりに、1両が田口鉄道の運行用に充てられた。戦後は、11と12が部品の調達ができなくなったため、1949年(昭和24年)に廃車解体されたが、残りも1951年(昭和26年)4月に廃車され、いずれも私鉄に払下げられた。そのため、全車とも国鉄形式を付与されていない。



モハ20形

モハ20形は、1927年(昭和2年)に増備された半鋼製制御電動車で、豊川鉄道向けに2両、鳳来寺鉄道向けに1両が製造されたものである。製造は、豊川鉄道の1両(21)と鳳来寺鉄道の1両(2 → 20)の2両が川崎造船所、豊川鉄道の1両(24 → 22)が大阪鐵工所である。当初、豊川鉄道の2両はモハ21形、鳳来寺鉄道の1両はモハ2形と称したが、1938年に両社の3両を一括してモハ20形と改め、豊川鉄道モハ24はモハ22に、鳳来寺鉄道モハ2はモハ20に改番された。

車体の形状は、当時の地方鉄道向けに多数が製造された、深い丸屋根にお椀形の通風器を装備したいわゆる「川造形」といわれるもので、車体長は17m、前面は非貫通の3枚窓で、側面窓配置は1D6D6D1である。座席はロングシートで、定員は120人であった。電動機はDK-36(70.84kW)を4個装備し、歯車比は19:61である。


買収後も豊橋機関区にあって飯田線で使用されたが、1950年に21,22の2両が更新修繕を受けて前位側運転台側面にのみ乗務員扉を設置した。20は1949年(昭和24年)11月に走行機器を標準化され、台車をDT10形、電動機を出力100kWの標準品(MT7A)に、制御器も国鉄形に交換した。その後、1951年12月に21,22、1952年2月に20が宇部電車区に転属して宇部線に転用されたが、さらに1953年2月から3月にかけて府中町電車区に転属して福塩線用となった。


同年6月に施行された車両形式称号規程改正では、旧豊川鉄道の2両がモハ1600形(1600,1601)に、旧鳳来寺鉄道の1両がモハ1700形(1700)に改められている。1955年(昭和30年)12月には富山機関区城川原支区に転属して富山港線用となり、1600,1601は1957年(昭和32年)3月に廃車後私鉄に譲渡、1700は再び豊橋機関区に転属し豊川分工場の入換用として同工場の廃止まで使用され、1964年(昭和39年)9月に廃車、私鉄に譲渡された。1959年(昭和34年)6月には車両形式称号規程改正によりクモハ1700形と改められている。



モハ30形

モハ30形は、1929年(昭和4年)に増備された半鋼製制御電動車で、豊川鉄道向けに3両(31~33)、田口鉄道向けに2両(36,37)が製造されたものである。製造は、日本車輛製造が行なっているが、車体は先行した川造形のモハ20形と概ね同形で、側扉の幅がモハ20形の1003mmから1100mmに拡大された程度で、走行機器も同様である。

田口鉄道の2両は、製造時はモハ101形(101,102)であったが、1938年1月に豊川鉄道所属車と同形式の通番とされ、モハ30形(36,37)に改称された。


買収以前は、三信のデ300形とともに吉田~天竜峡間の直通列車に使用され、1943年の国有化後は豊川鉄道の3両は鉄道省に編入されたが、田口鉄道の2両は買収対象にならなかったものの、鉄道省に供出されて中部天竜機関支区に配置され、旧豊川のモハ30形と共通に使用された。この間、更新修繕により、前位側の運転台両側に乗務員扉が新設されたが、後位運転台も存置されていた。オリジナルの台車は日車D-18であったが、32のみ国鉄形のDT10に交換されていた。


1952年5月の田口鉄道の日本国有鉄道への運行業務委託終了と同時に、36,37は田口鉄道へ返還され、国鉄車の31~33はそれに先立つ同年2月に宇部電車区に転出した。この際、戦前から継続していた田口鉄道への直通運転は一時中断したが、国鉄標準型機器への交換を行なって再開され、田口鉄道が車両の検査業務を委託していた豊川分工場が廃止されることとなった、1963年3月24日まで社形と国電の併結が見られた。


宇部電車区に転属した3両は、1953年2月から3月にかけて府中町電車区に転属し福塩線用となった。同年6月に施行された車両形式称号規程改正により、モハ1610形1600~1602)と改称されたが、1956年3月に3両とも廃車され、いずれも私鉄に譲渡された。そのうちの1両1610は、田口鉄道に譲渡され、機器の国鉄標準型への変更や側窓のアルミサッシュ化、客用扉の鋼板プレス製化などの車体更新を行なわれ、古巣に戻って僚車とともに豊橋乗入れ用に使用されていたのは特筆される。



モハ80形

モハ80形は、1927年に増備されたモハ20形と同系の半鋼製制御電動車で、豊川鉄道向けに2両が大阪鐵工所で製造されたものである。製造当初は三等郵便荷物合造の付随車で、サハユニ201,202と称したが、1930年(昭和5年)4月に電装され、モハユニ201形(201,202)となった。この際に装備された電動機はTDK528A(74.57kW)で、これを4個装備する強力車となった。歯車比は、26:54である。

1938年(昭和13年)4月には、三信鉄道が全通したことにより、同社のデニ201形が乗入れるようになったことから、全室三等室に変更し、モハ80形81,82)となった。そのため窓配置は変則的で、1D6D51D1である。運転台は、当初は両側にあったが、戦時中にクハ100形と編成を組むため、後位側が撤去されて片運転台式となっていた。


国有化後も豊橋機関区にあって飯田線で使用されたが、1948年に再び両運転台となった。1950年には、前位側の運転台両側に乗務員扉が設置するとともに、制御機器や電動機は標準化され、国鉄制式のものに交換されている。1952年4月に両車とも宇部電車区に移って宇部・小野田線用になったが、1953年に横川電車区(可部線)に移った。


また同年6月には車両形式称号規程改正により、モハ1620形1620,1621)と改められたが、1956年3月には廃車となり、両車とも三岐鉄道に譲渡された。



クハ60形

クハ60形は、1927年に増備されたモハ20形と同形の半鋼製制御車で、豊川鉄道向けに2両が川崎造船所で製造されたものである。当初は付随車で、附22形(サハ22,23)と称していたが、1937年(昭和12年)6月に、制御機器を搭載して両運転台式の制御車となり、クハ60形(61,62)に改称された。

国有化後も豊橋機関区にあって飯田線で使用されたが、モハ80形を再び両運転台とするため、1947年11月および1948年4月に後位運転台が撤去された。さらに1950年2月には、従来辰野向きであったものを豊橋向きに転向している。その後、1951年12月に61、1952年4月に62が宇部電車区に転じ、宇部・小野田線用となった。さらに1953年2月に61が、その翌月に62が揃って府中町電車区に転属し、福塩線用となった。同年6月1日付けで車両形式称号規程が改正され、クハ5600形に改称され、5600,5601に改番された。


5600は形態的な変化が少なく、ほぼ原形のまま使用されたが、5601は更新修繕によって、前位側運転台の両側面に乗務員扉を設置し、屋根上の通風器をグローブ式に改めた。運転台撤去側の貫通路は整備されていない。1956年3月に5600が、1959年3月に5601が廃車され、いずれも私鉄に譲渡された。



クハ100形

クハ100形は、1940年(昭和15年)に増備された車体長18m級の半鋼製制御車で、木南車両で2両(101,102)が製造された。車体は片側2扉で、扉間には転換クロスシートが装備された優秀車であった。屋根は張上げ式で前照灯も埋め込み式であり、本来は両運転台式の電動車として計画されたものであったが、当初はモハ80形と編成を組むため片運転台式として落成し、1942年に両運転台化されている。側面窓配置はd2D4D4D2dで、前面は貫通扉を備えている。同形車としては知多鉄道クハ950形(後の名古屋鉄道モ3500形)がある。

戦後も飯田線で使用されたが、1952年に更新修繕を施行され、後位運転台撤去と乗務員扉の埋め込み客用窓化、通風器のグローブ化が行なわれ、101については雨樋が通常の位置に下げられ前照灯は取付け式になったが、102については張上げ屋根と埋め込み式前照灯は残されたものの、前面は非貫通化された。また、同年2月には102が、5月には101が宇部電車区に移ったが、1953年2月に101,4月に102が府中町電車区に転属して福塩線用となった。


1953年6月には、車両形式称号規程改正によりクハ5610形5610,5611)に改称されたが、両車とも1962年(昭和37年)2月に廃車され、高松琴平電気鉄道に譲渡された。



サハ1形

サハ1形は、1912年(大正11年)日本車両製の車体長17m級木造客車を、電車用の付随車に改造したものである。当初はホハ1形(1,2)、ホロハ1形(1,2)と称していたが、ホハ1,2は1935年12月、ホロハ1,2は1937年6月に改造され、本形式の1~4とされた。

当初は、一般的な客車と同様の車端部に出入台を設ける構造であったが、元の開き戸を埋め込んで客用窓とし、車体中央部2か所に引戸を新設している。この際、全クロスシートであった座席は一部をロングシート化されたが、1940年にはラッシュ対策としてロングシートを撤去して、乗車定員を増加させている。


戦後は、3,4が伊那松島機関区に転用されて天竜峡以北のHL車とともに使用されたが、1950年3月、事業用客車(救援車)に転用され、ナヤ26960形(26960,26961)として浜松機関区および沼津機関区に配置された。1953年6月の車両形式称号規程改正ではナエ27000形(27000,27001)と改称され、それぞれ1965年、1964年まで使用された。


一方豊橋機関区に残った1,2は、1951年4月に廃車され、2年後に豊川分工場で解体されたが、いずれかのTR11形台車がクハ47023に転用されている。



譲渡

  • モハ10 - 大井川鉄道モハ201(1951年) → 廃車(1967年)
  • モハ13 - 大井川鉄道モハ202(1951年) → クハ508(1967年振替 名古屋鉄道 モ3359) → 廃車(1980年)
  • モハ14 - 田口鉄道→豊橋鉄道田口線 モハ14(1951年) → 廃車(1968年) → 保存(設楽町奥三河郷土館)
  • モハ15 - 田口鉄道→豊橋鉄道田口線 モハ15(1951年) → 廃車(1968年)


  • 1601 - 上信電鉄 クハニ21(1959年3月) → クハ22(1961年5月、車体延伸) → 廃車(1981年12月)
  • 1610 - 田口鉄道→豊橋鉄道田口線 モハ38(1956年) → 同社渥美線 モ1713(1968年) → 廃車(1980年代)
  • 1611 - 大井川鉄道 モハ303(1955年) → 廃車(1972年)
  • 1612 - 三岐鉄道 モハ110(1955年) → 廃車(1974年11月)
  • 1620 - 三岐鉄道 モハ100(1955年) → 廃車(1978年2月)
  • 1621 - 三岐鉄道 モハ101(1955年) → 廃車(1978年1月)
  • 1700 - 伊豆箱根鉄道 モハ35(1965年) → 廃車(1970年代)
  • 5600 - 三岐鉄道 クハ200(1955年) → 廃車(1977年3月)
  • 5601 - 流山鉄道 クハ51(1955年) → 廃車(1970年代)
  • 5610 - 高松琴平電気鉄道 810(1962年。8000形) → 廃車(2003年3月)
  • 5611 - 高松琴平電気鉄道 820(1962年。8000形) → 820(1963年、電動車に改造。820形) → 廃車(2003年3月)



参考文献

  • 沢柳健一・高砂雍郎 「決定版旧型国電車両台帳」1997年 ジェー・アール・アール ISBN 4-88283-901-6
  • 佐竹保雄・佐竹晁 「私鉄買収国電」2002年 ネコ・パブリッシング ISBN 4-87366-320-2
  • 白井良和 「飯田線の旧型国電」1999年 レイルロード ISBN 4-947714-12-3
  • 白井良和 「飯田線を走った車両」 鉄道ピクトリアル1983年5月号(No.416)特集:飯田線旧形国電
  • 矢野裕明 「現代のローカル私鉄に息づく買収国電」 鉄道ピクトリアル1983年11月号(No.424)特集:去りゆく旧形国電
  • 小林宇一郎 「買収国電を探る(12) 飯田線」 国鉄電車特集集成第1分冊に収録 鉄道図書刊行会



関連項目


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平野敦士ひらの あつし1962年4月21日 - )は

Market Platform Dynamics Senior Advisor。

CAモバイル専務

アクロディア顧問

ピクセルテクノロジー社顧問


学歴東京大学経済学部経済学科卒業学位経済学士(東京大学)

ハーバードビジネススクール講師

沖縄大学大学院講師



来歴

  • 1987年 日本興業銀行に入行。


  • 1999年 NTTドコモimodeアライアンス担当部長に就任。おサイフケータイのクレジット発案者(Mastermind)として世界的に著名




外部リンク



著書等

「ITUジャーナル」「週刊金融財政事情」「モバイルRFマガジン」等に記事・論文を執筆するほか、ハーバードビジネススクール、沖縄大学大学院、早稲田大学、国際大学等大学における講義をはじめAsian Business Conference,Communicasia, Wireless Japan などのセミナー・国際会議での講演等多数。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[date=2008年2月]

案納 正美あんのう まさみ)はアニメーション演出家及びアニメーション監督ぴえろ所属。



経歴

タツノコプロ葦プロダクションの演出を経て1979年5月に布川ゆうじ鳥海永行らと共にぴえろ(当時:スタジオぴえろ)を発足させた。ぴえろ発足後は主に『星銃士ビスマルク』や『忍者戦士飛影』などで総監督を務めたが2003年に『良寛さん』の監督として参加して以降、彼の名前を一切見かけなくなった。

作品リスト


テレビアニメ



劇場アニメ



関連項目


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