Athlon_64_X4って?
AMD K8Lは、公式のコードネームでは無いが、以下のいずれかを意味する。
- AMD K10は、次世代のプロセッサーのコードネーム
- AMD Phenomは、コードネームAMD K10と呼ばれていたCPUの商品名
- Turion 64は、Athlon 64などのK8マイクロアーキテクチャのモバイル版
一般には、次世代のプロセッサーのコードネームであるAMD K10として知られていた。
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タイシュウマって?
対州馬(たいしゅうば、たいしゅううま)は、対馬(長崎県対馬市)を中心に飼育されてきた日本在来種の馬。坂路への適応と温順な性質を特徴とする。
他の日本在来馬と同様、ポニーに分類される小柄な馬だが、険しい山道の多い対馬にあって、かつては農耕や木材・農作物・日用品等の運搬に活躍し、生活に欠かせない存在であった。
呼称
- 「対州馬」は一般的に「たいしゅうば」と読まれることが多いが、「たいしゅううま」の読みも併用されている。日本馬事協会では「たいしゅううま」としている。
- 地元である対馬では「たいしゅう-ま」(“う”が1つ)とも「たいしゅうば」とも呼ばれる。
- 長崎市や対馬では「対馬馬(つしまうま)」と呼ぶことも多い。
体格
- 体高:107~136cm。オスは平均127cm、メスは125cm程度。<br/>日本在来馬として知られる8種のうち、北海道和種など3種は中型馬、トカラ馬など4種は小型馬に分類されるが、対州馬はその中間に位置する。
- 毛色:対州馬本来の毛色は青毛とされていたが、現在は鹿毛系が多い。青毛、栗毛がこれにつぐ。
- 体格:頭部がやや大きく、目は豊円(大きくて円い)。き甲(首と背の境の盛り上がった部分)は高く長い。山道での使役に適するように改良されたためか、胸幅が狭く、抱きが細いので、子どもや小柄な人などにも乗りやすい。
特徴
- 性格温順で、粗食にもよく耐える。
- 体質剛健、肢蹄が強く、急峻な山路を上下するのに巧みである。坂路の歩行に適した側対歩を自然におぼえる。
- 負担力に富み、通常130~150kgの荷物を運搬する。
- 蹄が強靱で、通常は装蹄を行わない。
以上、いずれも多かれ少なかれ、日本在来馬に共通の特徴である。
対馬の暮らしと対州馬
対州馬は、元寇の際に対馬国主であった宗氏一族の武将たちを乗せて活躍したと伝えられるが、当時と現在の対州馬の体格・性質の異同については明らかではない。対州馬を産する対馬の地形は、標高200~300m前後の山地が全面積の90%近くを占め、傾斜地が多い。耕地率が3%以下と低く、男性はもっぱら漁に出ることが多かったこともあり、牛馬の飼養と馬による運搬は、もっぱら女性の仕事であった。
対州馬はその性質・体格から、狭く急峻な悪路での運搬も苦としない。また、体格が小さめで性質がおとなしいため、女性でも容易に扱える。このような特質をもった対州馬は、対馬の人々の生活によく馴染んでおり、明治以降、国策として西欧種による馬匹改良が推進されたときも、現地ではこれに積極的に従うことはなかった。そのため、対州馬は人々の生活と共にそのまま保存され、貴重な在来馬として現在まで残ることとなった(ただし、1931年に鹿児島県からアングロアラブ雑種の種馬が導入されており、雑種化が皆無であったわけではない)。
1975年ごろまでは、対馬ではたいていどの家でも、牝馬2頭ずつが飼われていた。それぞれに1~2年に1頭ずつ子馬を生ませ、妊娠中は、妊娠していない方の馬を使役した。生まれた子馬は、明け2歳~明け3歳の間に市場に出された。代替わりで子馬を残した場合は、母馬の後ろをついて歩くうちに、自然と仕事を覚えてしまい、調教というほどのことはほとんどなされなかった。
対馬と同じく坂の多い長崎市の高台地区でも、近年まで少数ながら、対州馬が建築資材の運搬などに使役されていた。
馬具
対馬では、馬の制御具として馬銜(はみ)を使わず、無口頭絡(むくちとうらく)や、「締め前立て(シメメーダテ)」(「前立て(メーダテ)」とも)と呼ばれる帯締頭絡が使われてきた。馭者は、無口頭絡の左の口元に結び付けられた「一本手綱」だけで馬を制御したが、これは、従順で性質の細やかな対州馬ならではの馭法といえる。頭数の推移と現状
対馬の農業就業人口の減少に加え、道路網の整備と自動車の普及、農機具の機械化といった理由から、対州馬の飼養頭数は急激に減少している。1952年の調査では2,408頭が確認されたが、60年には1,884頭、70年654頭、80年148頭、95年70頭、2000年29頭、05年25頭と、約50年で100分の1近くまで減少しており、在来馬としても宮古馬についで少ない。
飼養者の高齢化が著しいこともあり、本種の絶滅が危ぶまれている。
保存活動
- 1972年に「対州馬振興会」が発足。増殖の技術指導など、現在まで対州馬の保存活動の中心となっている。
- 1988年、対州馬の保存などを目的として、地元の美津島町が対州馬の飼育事業をスタート。有人離島である島山島に対州馬牧場を設け、保存・増殖を図る。
- 1989年、農林水産省の「ジーンバンク事業」により、対州馬の精液を凍結保存し、3頭の対州馬を北海道の 家畜改良センター十勝牧場に送る。同牧場では増殖に成功し、次世代の対州馬数頭が生まれているが、今後世代を重ねた場合、場内の個体だけでは近親交配にならざるを得ないことが懸念される。
- 1997年、島山島の対州馬牧場の対州馬のうち12頭を、県内外の牧場や幼稚園に譲渡。対州馬牧場では、当初9頭だった対州馬を47頭にまで増やしたが、頭数が増えたことで財政上の負担が大きくなっていたこともあり、「里親」を募集、一部の馬を譲渡した。その後、残った馬たちは、島山島から「あそうベイパーク」(美津島町内の自然公園)に移される。
- 2002年7月、上県町瀬田地区で「馬跳ばせ」を復活させる。同地区では明治時代から、初午祭(男の子の初節句の行事)の余興として、対州馬による草競馬「馬跳ばせ」が行われていたが、出走する対州馬がいなくなり、1960年代後半から途絶えていた。町おこしと対州馬の保存につなげようと、町と地元有志による初午祭実行委員会が、目保呂ダム上流の公園を会場として「馬跳ばせ」を復活。好評を博したことから、対馬初午祭は恒例行事となり(現在は10月に実施)、大勢の観光客でにぎわっている。初午祭では、目玉行事の「馬跳ばせ」のほかに、流鏑馬ルーレットや乗馬体験などでも、対州馬が活用されている。
- 2004年3月、島内の6町(初午祭の行われている上県町、「対州馬牧場」を運営していた美津島町を含む)が合併し、対馬市が新設される。市では目保呂ダムの公園を「目保呂ダム馬事公園」としてリニューアル(「あそうベイパーク」の厩舎も存続)。2006年2月より、馬事公園では「対州馬ふれあい体験」として騎乗体験を実施しており、乗馬クラブの開設も検討されている。
- 2006月5月、「目保呂ダム馬事公園」で子馬1頭(牝)が誕生。
- 2006年8月の地元紙記事によれば、対州馬の現地での飼養頭数は26頭で、所有者の内訳は、振興会8頭、対馬市12頭、個人6頭。このうち、「あそうベイパーク」と「目保呂ダム馬事公園」で、それぞれ6頭ずつが管理されている。
- 対州馬は他の在来馬と同様、農林水産省の「日本在来馬の保存活用推進事業」や「日本在来馬種保存事業」「日本在来馬種保存紹介事業」の対象ともなっている。これにより、競馬馬事生産振興基金・(社)日本馬事協会が助成金等の交付を受けて活動を行っている。
関連項目
参考文献
- 岩手県立博物館(編)『北の馬文化 -岩手県立博物館開館20周年記念特別企画展図録』, (財)岩手県文化振興事業団
- 早坂昇治(1996)『馬たちの33章 ―時代を彩ったうまの文化誌』, 緑書房.
- 原田俊治(1997)『馬のすべてがわかる本 ―速い、優しい、立って寝る』, PHP研究所.
- 野澤謙(1997)日本在来馬をめぐる諸問題. 畜産の研究, 51-5:135-142.
- 近藤誠司(2001)『ウマの動物学』, 東京大学出版会.
外部リンク
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登録免許税法って?
登録免許税法(とうろくめんきょぜいほう、昭和42年6月12日法律第35号)は、登記、登録、特許、免許、許可、認可、認定、指定及び技能証明について課す登録免許税(第2条)について定めた法律。登録税法(明治29年法律第27号)の全部を改正して制定された。
登録免許税について、課税の範囲、納税義務者、課税標準、税率、納付及び還付の手続並びにその納税義務の適正な履行を確保するため必要な事項が定められている。(第1条)
なお、登録免許税の税率等に関しては、租税特別措置法等によって、修正が加えられている。
構成
- 第1章 総則(第1条 - 第8条)
- 第2章 課税標準及び税率(第9条 - 第20条)
- 第3章 納付及び還付
- 第1節 納付(第21条 - 第30条)
- 第2節 還付(第31条)
- 第4章 雑則(第32条 - 第35条)
- 附則
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ジェイ・プラスって?
株式会社ジェイ・プラス(ジェイプラス)は、、東京都千代田区に本社を置く化学メーカー。
協和醗酵工業 と 三菱化学 の合弁会社として発足、可塑剤(かそざい)の開発、製造、販売を行っている。
国内トップシェアを占め、代表的な可塑剤であるフタル酸エステルでは国内3か所に生産拠点を持つほか、特殊可塑剤も有する、総合可塑剤メーカー。
概要
- 事業内容:可塑剤事業
- フタル酸エステル(DOP,DINP,DIDP 等)、アジピン酸エステル(DOA,DINA 等)
- トリメリット酸エステル(TOTM 等)、ポリエステル、その他特殊可塑剤
沿革
- 1949年 - 協和醗酵工業、フタル酸エステルの生産を開始。
- 1953年 - モンサント化成工業、フタル酸エステルの生産を開始。
- 1963年 - 協和醗酵工業、大協和石油化学にてフタル酸エステルの生産を開始。
- 1966年 - 協和醗酵工業の化学品製造子会社として協和油化設立、大協和石油化学の可塑剤生産を併合。
- 1994年 - 三菱化学 発足、三菱化成ビニル(旧:モンサント化成工業)の可塑剤事業を併合。
- 2000年 - 協和醗酵工業 と 三菱化学 両社の可塑剤事業を統合、ジェイ・プラス発足。
事業拠点
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池山隆寛って?
池山 隆寛(いけやま たかひろ、1965年12月17日 - )は、元プロ野球選手(内野手)、野球解説者。兵庫県尼崎市出身。現役時代はヤクルトスワローズで19年間活躍し、引退後はフジサンケイグループで野球解説者を務めた。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチ。血液型はAB型。
来歴・人物
兵庫県の市立尼崎高校卒業。1983年同高校3年次に甲子園出場、3回戦で敗れる。高校全日本選抜チームに選ばれ、同年のドラフト会議で、ヤクルト、巨人、近鉄の3球団競合の末、ヤクルトが交渉権を獲得し2位指名で入団(1位は高野光)。大型内野手、10年に1人の逸材と言われて期待され、長距離打者としての頭角を現す。池山を初めて見た江夏豊は「中米の選手のようなバネを持つ選手」と評価している。また、桑田真澄は、時として思い切りの良すぎる池山の独特のコースの読みに対して、「もうすこし考えて打ってほしい」と、自らの投球術が通用しないことに苦笑しながらも高い評価をしている。入団当初こそ打力よりも俊足巧打な点が評価されていた選手であったが、やがて足を高く上げた豪快なスイングに切り替えた。本塁打も多かったが三振も多いという、そのバッティングから「ブンブン丸」の愛称で親しまれた。他に、バックスクリーンへの美しい弾道のホームランが多かったことから、「ミスターバックスクリーン」の異名もあった。同じく豪快なスイングが特徴の広沢克己とのコンビは、二人の名前とあだ名を取って、「イケトラコンビ」と呼ばれ、共にチームの看板選手として活躍し、1980年代後半から1990年代にかけてのヤクルトの人気を支える事になった。準永久欠番となっていた若松勉の背番号1を引き継ぎ、「ミスタースワローズ」とも呼ばれた。
1989年に在籍していたラリー・パリッシュに、広沢を加えた3人ともがシーズン100三振を超えたことから「100三振トリオ」、3人のイニシャルを取って「HIP砲」とも呼ばれた。1988年から、5年連続で30本塁打を記録。1990年には.303、31本塁打、97打点と、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成し(これは、他には野村謙二郎と松井稼頭央の2人しか達成していない記録であり、97打点は遊撃手の歴代最多打点である。)、同年8月23日の中日戦でサイクルヒットを達成した。
1993年5月19日での対広島戦では1イニング2本塁打を記録したが、その試合はもつれにもつれた試合となり、ヤクルトの勝利で試合が終わったのは、0時過ぎとなっていた。その為、インタビューに答えた池山は「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、本当に昨日の出来事となっていた。
打撃での活躍が目立つ一方、堅実かつ華麗な守備での貢献度も高く、好プレー集の常連でもあった。1991年には、遊撃手として当時の日本新記録である守備率.9941、連続守備機会無失策記録405を記録している。しかし、粗い打撃のイメージが強かったせいか、ゴールデングラブ賞の受賞はわずか1回にとどまった。監督が関根潤三から野村克也に代わると、三振を減らすように命じられ、確実性は上昇したものの本塁打は減少の一途を辿る。この是非に関しては、ファンの間でも論議を呼んでいる。
長らく中軸打者を務めつつ、ショートという負担の大きなポジションを任されていたが、アキレス腱痛に悩まされ、宮本慎也の台頭により、1997年前後からサードへコンバートされた。更に2000年からは岩村明憲へサードのポジションを譲り、代打を務めることが多くなった。2001年には背番号1も岩村に譲り、自身は入団時の36に戻っている。しかしその後もベンチの最前列で常に赤いメガホンを持ってチームを鼓舞し続け、誰よりも先にベンチに帰ってくるチームメイト出迎えるなど、チームの精神的支柱ともいえる存在であった。2001年は代打の切り札としてチームの優勝・日本一に貢献した。その際池山は、その年の3月に亡くなっていた元ブルペン捕手の小山田健一の遺影を持ってセレモニーに参加している。若松勉監督は「スター選手が控えの立場になれば心の中で納得できないこともあっただろう。それでも常に最前列で声を出し、先頭に立ってチームメイトを出迎える池山の姿勢には頭が下がる。池山がいたからこそ優勝できた」と後に語っている。豪快なイメージとは裏腹に、裏方への配慮や、チームを支える姿勢をを示し続けていた。
2002年に長年の持病であったアキレス腱痛のため引退。会見の席で「調子のいい時の自分の打席のビデオを手本に頑張ってきたが、その姿がかつての自分ではなく、全く違う誰かに見えるようになった」と引退の理由を語った。現役最後の打席は、豪快な空振り三振だった。通算成績は打率.262、304本塁打、898打点、1440三振。引退後はフジテレビ・ニッポン放送・サンケイスポーツの野球解説者に転身した。2006年より、恩師野村監督の下で楽天の打撃コーチに就任し現在に至る。
夫人は誕生年・誕生日とも同じ、元モデルの真田ゆりか。池山は大の競馬好きであり、夫人とも競馬が縁で結婚したと言われる。
なお、1993年には小室哲哉作曲による「自由の女神」という楽曲を発表している。この曲は1993年に発売された「TO THE TOP VICTORY ROAD」という当時のヤクルトの一部の主力選手が歌った楽曲を集めたCDに収録されている。このCDには、池山のほかにも古田敦也、高津臣吾、高野光、広沢克己などの楽曲も収録されている。
引退試合
2002年10月17日に明治神宮野球場で行われた対広島東洋カープ最終戦が池山の引退試合。消化試合にもかかわらず神宮には45,000人(主催者発表。但し当時は実数ではなく公称値)ものファンが詰め掛けた。試合前「現役最後の、ありのままの姿を見せたい」と意気込みを語った池山は3番・遊撃で先発出場し、途中からは一塁に回ってフルイニング出場した。打っては5打数1安打で、8回には現役最後の安打となる左中間二塁打を放ち、守っても4回に遊撃、延長10回には一塁でもファインプレーを披露するなど、往年の球際の強さを披露した。試合は1-1の同点で迎えた10回に広島が1点を勝ち越したが、その裏ヤクルトは「池山にもう一度打順を回そう」と、飯田哲也がセーフティバント、さらに稲葉篤紀も同様にセーフティを企図(結果は犠打)するなど必死に食い下がって二死二塁とし“本塁打が出れば逆転サヨナラ”という劇的なお膳立てで池山に打順が回った。池山は胸に去来する想いに涙を浮かべながら、広島投手長谷川昌幸が投じた球速150km超の直球に3球続けて豪快なフルスイングで空振りし、1-2で試合終了。池山は苦笑いを浮かべつつも清々しい表情でマウンドに歩み寄り、長谷川らと固い握手を交わした。
スタンドではスワローズファンだけでなく、カープファンの中にも涙を浮かべる者がいた。試合後には引退セレモニーが行われ、池山は引退挨拶で「今日まで19年、多くの応援を頂いた。こんなに幸せな男はいません。これから第二の人生の打席に入りますが、必ず皆様の前に戻ってきます」とメッセージを送り、また同年7月に亡くなった応援団「ツバメ軍団」団長であった岡田正泰へも感謝の意を表した。
年度別打撃成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
タイトル・表彰・記録
- ベストナイン 5回(遊撃手 1988-1990年、1992-1993年)
- ゴールデングラブ賞 1回(遊撃手 1992年)
- サイクルヒット(1990年8月23日の中日戦で達成。本塁打・単打・二塁打・三塁打の順。)
- 1イニング2本塁打(1993年5月19日)
- 1イニング7打点(1993年5月19日)
- オールスターゲーム出場 7回(1988年~1992年、1994年、1998年)
- 405守備機会連続無失策
背番号
関連項目
外部リンク
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9mm新拳銃って?
ミネベア 9mm自動拳銃(みねべあ9みりじどうけんじゅう)は、1982年に採用された自衛隊の制式拳銃。自衛隊では「9mm拳銃」と呼ばれる。(本来なら「拳」は、政府機関が使用出来ない、常用外の漢字であるが自衛隊内では制式呼称「9mm拳銃」と表記される)。
概要
専門用語の解説については銃の部品、拳銃の項目を参照。スイスのSIG SAUER P220をライセンス生産したもの。使用カートリッジは9mm普通弾。
弾倉容量は9発と少ないが、これは自衛隊の選定作業がアメリカ軍より先行し、ダブルカラムマガジンのP226がまだ開発されていなかった為と、手の小さな日本人の握り易さを考慮した為である。また9mmx19弾のシングルカラムとしてはグリップが太いが、これはもともとP220がアメリカへの輸出を考慮して.45口径(.45ACP)弾使用可能なサイズで本体やマガジン〔弾倉〕が設計されているからである。そのため、9mmパラベラムを使用する際はマガジン内にU字型のインサートを入れて使用する。
スライドの前方上部が角張り、後部のセレーション(滑り止めの溝)は幅広で数が少なくなっており、P220のオリジナルと異なったデザインとなっている。
スライドには、
が、それぞれあしらわれているマークと、その横に「9mm拳銃」の文字、シリアルナンバーの刻印が入っている。
伝統的なダブルアクションメカニズムに、オートマチックファイヤリングピンブロッキングシステムを組み込み、マニュアルセフティを廃している。デコッキングレバーを備えているため安全にハンマーを待機位置に戻せることと合わせ、初弾を装填したまま持ち歩き緊急時に安全かつ素早く射撃できる設計コンセプトとなっている。なおシングルアクションによる操作も可能で、主に命中精度を上げたい時などに用いられる。
陸上自衛隊では幹部自衛官、無反動砲の砲手、特科部隊員が使用する。最近では普通科隊員がCQB時に用いる。海上自衛隊では、護衛艦付き立入検査隊や特別警備隊などの船舶突入部隊の他、警務官が用いている。航空自衛隊では基地防衛教導隊他、基地の防護を任務とする部隊が使用する。
採用経緯
月刊GUN1996年8月号の記事によると、本装備の採用に至る前は、ブローニングHP、ブローニングDA140、新中央工業M57A1(M1911を参考に9mm弾を使用できるようにし、サイズも小型化したもの)も採用候補に入れられてテストされたといわれている。運用
以前は幹部や、砲手などの護身用であったが最近では一般の普通科隊員がCQB訓練時にサイドアームとして太ももに取り付けるレッグホルスターに携行することも多くなっている。また、陸上自衛隊のイラク派遣隊員はレッグホルスターに収めていた。ただ、9+1発と言う装弾数はCQBなどで使うサイドアームとしては装弾数が少ないこと、そしてマガジンキャッチがP220初期型に準ずるグリップ底部にあり、マガジンを落さず安全に取り出せるものの、素早い交換が難しいことが弱点である。
また、フラッシュライトなどを取り付けるためのレールが無いため、拡張性が極めて少ないのも短所と言える。
ただ、本銃が採用された1982年においてレールを備えた軍用拳銃は皆無であり。採用年度の古さから考えれば(当時は)当然の話であり、それをもって本銃や本銃を採用した自衛隊を非難するのは誤りである。また、諸外国においても一般部隊の隊員の装備する拳銃にまでフラッシュライトを取り付けるような軍隊は極稀である。世界最高の装備を誇る米軍にしても、主力拳銃として採用したM9はレールが付いていないタイプが大部分であり、一部の特殊部隊でレール付きのタイプを(SIGやH&K社製品含む)採用しているにすぎない。
近年、タスコジャパンよりフラッシュライト等を取り付け可能な9mm拳銃専用のレールアダプターキッドが販売されており、自衛隊の一部の部隊が購入したという話も聞かれる。
ライセンス生産されているが、SIG社オリジナル製品に比べて品質が悪い、スライドにヒビが入る、撃針が簡単に折れる、精度が不良で初期の輸入品P220のほうが命中する等、問題が多いという点を指摘する声が一部で聞かれるが、その情報元・根拠が明確に示されることが少なく、噂の域を出ていないものが大部分である。ライセンス生産開始時に当然ライセンスを与えたSIG社のチェックを受けているはずで、前記のような品質の銃が生産されることが看過されるとは考えにくい。
いわれなき非難
日本製P220の品質がオリジナルに比べ低いとする意見が一部に存在する。以下例をあげる。- 年間の射撃回数が極少数であるにもかかわらず、スライドにひび割れが入ったり、撃針折れが発生すると言う様な噂がよく聞かれる。繰り返しになるが、これらの情報はいずれも信憑性が低く、情報元もはっきりとしない。噂話の域を出ていないものである。
- 自衛隊では空撃ちが厳禁されている事をもって、日本製P220が脆弱である証拠だと決めつける意見が一部にあるが、残弾チェック等の必要がある場合を除き、無意味な空撃ちが禁じられているのは自衛隊だけの話ではない。
- SIG社の言い分によると、構造から材質まで全ての情報を渡しているが、最終の調整までは関与していないとの事で、ライセンス生産されているからと言って品質までSIG社が保証しているわけではないとする意見がある。しかし、すべての情報が渡されているのであれば、同程度の製品が作られるのが当然の理屈であり、日本製P220の品質を疑う理由にはならない。
- 記念祭等で触れることの出来る9mm拳銃と現行のP220を握って空撃ちした感触を比較してみると、握り心地からして雲泥の差を感じると主張する者もいるが、最初にP220が開発されてから長い年月が過ぎ、その間何度もマイナーチェンジが重ねられた事を考慮すれば、初期型をライセンス生産している日本製P220よりも、グリップ改良等により現行型の方が握り心地が良いのは当然の話といえる。もとより軍用銃の評価は撃ってみなければ判らないものであり、空撃ちでその真価を知ることなどできないのである。
使用弾
使用するカートリッジは9mmパラベラム弾であり、軍用であるためハーグ陸戦条約に準拠したフルメタルジャケットの弾頭を使用している。興味深いのはフルメタルジャケットでありながら頭部がフラットな弾頭を使用している事で、フルメタルジャケットの範囲内でマンストッピングパワーに考慮した意図が伺われる(ただし、一見してホローポイントではない一般的なFMJ弾頭であっても、AK-74に使用される5.45mm×39弾やSS109小銃弾をはじめとして弾頭の先端に空洞が設けられている場合があり、これらは命中時に変形、横転し人体に多大なダメージを与えられる)。登場する作品
自衛隊の制式拳銃なので下記以外にも自衛隊が出てくる作品には当然ながら登場する。- 『戦国自衛隊1549』:第三特別実験中隊、ロメオ隊双方が装備。
- 『続・戦国自衛隊』
- 『ガメラ2 レギオン襲来』
- 『亡国のイージス』
- 『機動警察パトレイバー 2 the Movie』:警視庁特車二課の南雲しのぶが使用。また「機動警察パトレイバー」初期OVAにも登場。
- 『戦国自衛隊・関ヶ原の戦い』(日本テレビ-TVドラマ)
- 『SIREN2』:一樹守、永井頼人、三沢岳明、屍人、闇人が使用。ゲーム内で最も良く登場する武器。
- 『最終兵器彼女』
関連項目
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法典村って?
法典村(ほうでんむら)とは、千葉県東葛飾郡にかつて存在した村である。現在の船橋市(ふなばしし)の北西部の地域にあたる。
概要
法典村は、1889年(明治22年)の町村制施行によって、江戸時代からの藤原新田、上山新田、丸山新田(この3村はいずれも、江戸時代の延宝3年(1675年)に成立した新田部落である。3村の土地は、開墾以前は幕府の牧場であったが、幕府が年貢量を増やすこと、人口増加に対応するため、開墾を許可したという。)が合併して成立した。また、明治22年の合併の際、当初は藤原等の3村は前貝塚等3村(塚田村)と大きな1つの村を組織する計画であったが、種々問題があって実現せず、成立事情を同じくする藤原、上山、丸山だけで法典村を組織したという背景がある。村名となった「法典」名称の由来については、『千葉県町村合併史』には、「藤原新田、丸山新田等の諸村は法典と総称され、近隣に通じているのでそれに由った」と記されているが、今ひとつ釈然としない。江戸時代の古文書類に「法典」の名称が見えないからである。だからこの仏教的な言葉が、なぜ村名に採用されたのかは未詳というしかない。ただ上山地区にある字の「法伝」は、かつては藤原の一部まで指していたと思われ、それが字を変えて新村名に採用された可能性はある。法典村は、1937年(昭和12年)の船橋市誕生に伴い事実上なくなった。隣接していた自治体
交通
鉄道路線
中心となる駅
主な道路
関連項目
外部リンク
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