1912_ボストン・レッドソックスって?
Posted in 未分類 on 4 月 18th, 2008 by atwordblackletterhead
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バラシクロビル (Valaciclovir) は、ヘルペスウイルス感染症治療薬のひとつ。塩酸塩の塩酸バラシクロビルがグラクソ・スミスクライン社から商品名バルトレックス®として販売されている。
バラシクロビルはバリンとアシクロビルがエステル結合されておりエステラーゼによって抗ウイルス作用を持つアシクロビルに変換される。
バリンとの結合によって体内への吸収率が高まることにより、経口アシクロビルより生体利用率が高くなっている。
[はらしくろひる]
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モントリオール・ロコモティブ・ワークス(MLW)は、カナダにあった機関車を製造する会社である。1883年から1985年まで蒸気機関車とディーゼル機関車を製造していた。本社と工場はケベック州モントリオールにあった。
MLWはALCOが設計した機関車を製造する唯一の工場となり、カナダ市場で大きな勢力を占めた。鉄道の大発展期となった1900年から1915年にかけて、前例のないほどの大量の受注を受けた。というのも、アメリカで製造した機関車をカナダの鉄道が輸入して使用するには関税がかかるため、カナダ国内で製造する機関車に注文が殺到したのである。その後、いくつかの鉄道会社が破綻し、それらを救済・統合した国有鉄道であるカナディアン・ナショナル鉄道(CNR)が1918年に成立すると、カナダの連邦政府は機関車を1社だけから購入するのではなく、国内の各メーカーから購入するような方針を立てた。
1920年代から1940年代にかけて、CNRは前身となった各鉄道から継承した機関車の更新の時期にかかった。この時期、MLWは多くの機関車を納入し、継いで第二次世界大戦がはじまると、MLWの工場は連合国向けの軍需物資製造に転換され、生産を拡大していった。
1949年、ゼネラル・モーターズの機関車製造部門のカナダでの子会社としてゼネラル・モーターズ・ディーゼル(GMD。GM-EMDのカナダ子会社)がオンタリオ州ロンドンに設立された。
長年、MLWにとって蒸気機関車製造の競合者であったカナディアン・ロコモティブ・カンパニー(CLC)はボールドウィンの協力を得てボールドウィンやその子会社のホイットコムの機関車を輸入、製造した。ボールドウィンがゼネラル・エレクトリック(GE)に買収された後、CLCはフェアバンクス・モース(FM)の機関車をライセンス生産した。なかでも有名なものはトレインマスターである。またGEがアメリカでのロードスイッチャー(入換や列車組成を主とする、純入換用機関車よりも広範囲に使用されるもの)市場に参入する前は、GEの機関車も製造した。
アメリカでは既にディーゼル化が相当に進んでいたアメリカとは対照的に、1950年代のカナダの鉄道は、まだ蒸気機関車が多く使われていたが、一部を除いて1960年早々にはディーゼル化を完了。1960年代には全盛期となった。機関車メーカーの合従連衡があったアメリカに遅れること15年であった。
1960年代を通じて、CN(旧CNR、MLWの最大の顧客)はいまだに機関車調達は各メーカー満遍なく、という方針のもとにいた。当時、ケベック人のナショナリズムが高揚し、政治的に重要な地域であるケベックに本拠地があるMLWは、ケベック人から好意的な印象を持たれていた。
MLWのスイッチャーは、とくに低速での粘着(レールと車輪のグリップの具合)のよさに主眼を置いて設計されていた。MLWとALCOの車両設計は、電気機器においてGEの協力を経ていた。MLWはカナダの貿易政策による恩恵を被り、輸出を拡大した。カナダの貿易政策は、第三世界を通じての共産主義政府や地域との貿易を制限するアメリカのものよりゆるやかであった。
1967年、ウォーシントンはスチュードベーカーと合併し、社名をスチュードベーカー・ウォーシントンと変更。ALCOはその子会社となった。1968年、ALCOの各部門は独立採算の子会社となり、翌年、改組されてスケネクタディ工場は閉鎖された。機関車の設計はMLWウォーシントンに引き継がれ、ディーゼルエンジンの設計は翌1970年にホワイト・モーターに売却。その後、ディーゼルエンジンの設計はホワイト・インダストリー・パワーを経て1977年にGEC(イギリスのゼネラル・エレクトリック。アメリカのGEとは無関係で、混同を避けるためBGECともいう)の手に渡り、ALCOパワーと改名され、さらに設計部門は1994年にフェアバンクス・モースに譲渡された。
1970年代早期を通じて、MLWウォーシントンはカナダの鉄道向けに第二世代というべき機関車を製造していた。CLCは1969年に撤退し、競合相手は急速に業務規模を拡大していたGMDとなった。この時期のMLWウォーシントンはトレンドの先端を走っており、現代の北米の機関車に見られるカナディアン・セーフティ・キャブにその影響を見ることができる。その最初のものはM-420形で、W(wide nose、すなわち前頭部が左右に広いデザイン)が特徴であった。すぐに、安全性の高い運転室という設計はカナダの鉄道において重要なものとなった。この運転室のスタイルはアメリカの会社であるEMDやGEは1980年代まで採用しなかったが、現代では標準的なものとなっている。
MLWはまた機関車の駆動方式の研究を進め、初期の交流トラクションモータを使用した試作車両、M-640形を1984年にCPRに収めた。現在は完全にボンバルディア傘下にあるが、MLWの工場と設計セクションはCNの要請による信頼性の高い(High reliable=HR)貨物用機関車の設計・製造の最終段階にあった。その機関車は前述の「安全な運転室」を備えたもので、4動軸のM-420形に似たHR-412形と車幅を限界まで広げた6動軸のHR-616形である。HR-616形は、CNの要請で後方視界を向上させたドラッパー・テーパーと呼ばれる特異な形態をしていた。これらの機関車の設計は、CNが1960年代から1970年代初期にかけて導入した30組のMLWとGMDの機関車の老朽取り替え用であった。その老朽化した機関車とは、1990年代半ばまで使用する想定であったにもかかわらず機械的にも電気的にも信頼性が乏しく、失敗作ととらえられており、それがALCO/MLWの評判でもあった。
1985年、会社組織として再編成され、ボンバルディアは機関車製造事業から撤退し、旅客車製造に専念することとした。休眠中のMLWの工場は1988年にGEに売却され、皮肉にも1960年代製のスイッチャーの取り替え用機関車製造に使用されたが、1993年にはその工場は閉鎖され、2001年には火事で半分が焼け落ちた。残る半分はカナダ自然調査局が使用していた。
2004年、残りの部分が取り壊された。すぐ近くにあったカナダ唯一の家電メーカー、GEカムコ・ウエスチングハウスの工場が、その半分の土地を購入し、倉庫兼店舗とした。残りの半分は、いまだガレキの山のある空き地として、高速道路から眺めることができる。
なお、ボンバルディアは2001年にアドトランツを買収し、その技術で機関車製造を再開したが、ALCOやMLWの流れとは無関係のヨーロッパの旅客向け機関車の設計手法が採用された。工場は、カナダのケベック州ラポカティエレ、オンタリオ州のサンダー・ベイ、アメリカのバーモント州にある。
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--2005年6月14日 (火) 09:26 (UTC)
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硬音(こうおん)は、音声学において調音器官の筋肉の緊張(テンス)をともなう音のことをいう。これに対する弛緩(ラックス)した音は軟音(なんおん)という。どのような器官であるかは言語によって異なっている。
ロシア語学習においても同様の用語が存在するが意味は全く異なり、口蓋化していない音を指す。
IPAには濃音の適切な表記法がないため、朝鮮語における濃音の音声表記は研究者によってまちまちである。 [k] の濃音(ハングルでは [ㄲ] )を例にとると:
濃音は単一の子音であり、声門閉鎖音と子音の連続音ではない。また、放出音は濃音とは全く異なる音である。濃音は咽頭化を伴うことがあり、また無気音であるが、この二つの特徴は濃音を他の系統の子音(すなわち平音と激音)から区別する本質的な性質ではない。よって、喉頭における緊張を表すIPAが制定されない限り [k*] のような表記が唯一IPAに沿った表記となる。ただし、音声表記は必ずIPAで書かれなければならないわけではないため、他の表記は単にIPAではないというだけで、音声表記として間違っているわけではない。
[こうおん]
[3]
『ロックマンエグゼ バトルチップGP』( - グランプリ)は、2003年8月8日にカプコンから発売されたゲームボーイアドバンス専用のカードプログラミングバトルである。
『ロックマンエグゼ N1バトル』( - エヌワン - )についても、対応機種がワンダースワンカラー、スワンクリスタルである点を除けば発売日、内容ともに同じ作品のため、本項で説明する。
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独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構(どくりつぎょうせいほうじんこうれい・しょうがいしゃこようしえんきこう)は2003年10月1日、「独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構法」に基づき設置された厚生労働省所管の独立行政法人。英名はJapan Organization for Employment of the Elderly and Persons with Disabilities(JEED)である。日本障害者雇用促進協会の業務に国及び財団法人高年齢者雇用開発協会の業務の一部を加えて活動する。
高年齢者等を雇用する事業主等に対する給付金の支給、障害者の職業生活における自立を促進するための施設の設置及び運営その他高年齢者等及び障害者の雇用を支援するための業務等を行うことにより、高年齢者等及び障害者の職業の安定その他福祉の増進を図るとともに、経済及び社会の発展に寄与することを目的とする(独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構法第3条)。
戸苅 利和
悪役(あくやく)とは、映画・テレビドラマ・舞台演劇・小説などに登場する悪人の役。
また、そこから転じてマスメディアにバッシングされている人物、組織内で人に憎まれている人物を指す事も多い。日常会話でも「~に回る」、「~に徹する」という形で使われる。
この悪人役を演じる事の多い俳優は悪役俳優と呼ばれ、これを専門的に演ずる者もいる。特に粗暴犯や暴力団構成員・ギャング、あるいは権力に結託した悪人の役を指す事が多い。特に時代劇や刑事アクションドラマなど、悪役が組織で戦闘を繰り広げるものでは、有名無名の悪役俳優たちが入り乱れ、迫真の演技力で主役を引き立てて倒されて行く。また、東映の京都撮影所など時代劇が多く製作される場所では、悪役側の戦闘要員としてクライマックスの大立ち回りにのみ映像に登場し、主人公に斬られる演技を多くこなす、あるいはこの役を専門的に演ずる俳優もいるが、これについては斬られ役とも言う。
この悪役俳優と主役(または主人公側の人物を演じる俳優)は劇中では敵味方であるが、作品出演を通じて役者としての格を超えて、強い仲間意識を持つことも多い。主役級の俳優が物語上重要な悪役などを演ずる時に、役作りの方法や演技での表現技法について、役者としての格は関係なく、本職といえる悪役俳優へと教えを乞いに行く事も珍しいものではない。また逆に主役俳優が自分の名前で舞台興行を行う時に、その演技力や人柄を見込んで、テレビなどでは知名度の低い悪役俳優を指名して起用する事も見られる。
悪役俳優はその演技する役柄とは対照的に、時に主役級の俳優以上に実生活におけるモラルや金銭などに対して高潔であり、自身を厳しく律している人物も多い。ドラマや映画では悪人役でも実際の家庭では良き父親・夫という例は多い。また、ゴシップは少ない傾向にある。
かつての1950年代~1970年代にはアクション映画や時代劇が多かった為か、あるいは当時の俳優に戦時下などで苦労した人も多かったせいか、「いかにも悪役らしい」影や憎々しさを自在に強調できる俳優も多かった。しかし1990年代以降にデビューした俳優には、社会の変化などによる勧善懲悪の物語の質的な変化もあったからか、そうした悪役然とした影は弱まり、「こんな優しい顔の敵役を斬ってもいいのか」という俳優も増えている。また、善悪渾然としたキャラクターや善人面をして悪事を働くキャラクターも多いなど、従来の悪役像が成り立たなくなっている面もあり、現在では悪役としての表現技法は多様化している。
なお、現代は表現・価値観の多様化やインターネットの普及を背景に、いわゆる「大部屋俳優」などとも言われる無名の悪役俳優たちにも従来より多くの注目を集める者が現れてきている。その代表例としては、毎週の如く時代劇で斬られていた事でベテランの域に達してから「あれは何者か?」という話題と注目を集め、ハリウッド映画にまで出演した福本清三が知られている。
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緑林軍(りょくりんぐん)は、中国の新代に活動した民間武装勢力。緑林兵とも言う。後世では、「緑林」は盗賊や山賊と同意の語として用いられている。
新の統治の末期に、荊州江夏郡新市県で顔役を務めていた王匡と王鳳は、衆に推されて数百人の民衆の頭領となった。そこへ、馬武、王常、成丹などの浪人たちも加わり、離郷聚を攻撃した後、緑林山(荊州江夏郡当陽県)に立て篭もった。その軍勢は、数ヶ月の間に7~8千人に膨らんだという。地皇2年(21年)、荊州牧が2万の軍勢を率いて緑林軍を討伐しにきたが、王匡は雲杜(江夏郡)でこれを迎撃し、殲滅した。これをきっかけに、軍は5万人を超えたと称し、官軍も手を出せなくなった。
しかし、地皇3年(22年)に、疫病が発生して緑林軍は半数を喪失する大打撃を受け、緑林を離れて分散することになった。王常、成丹、張卬は藍口聚(南郡編県)へ入って下江軍(下江兵とも言う)と号し、王匡、王鳳、馬武、朱鮪は、南陽郡に入って新市軍(新市兵とも言う)と号した。
緑林軍の再度の合流により、さらに強大化した連合軍においては、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを天子として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と王常は劉縯、王匡ら旧緑林軍と平林軍の諸将は劉玄を推している。結局劉縯は、分裂を避けるために、劉玄にその地位を譲った。
こうして更始1年(23年)2月、劉玄は更始帝として即位した。緑林軍の創始者で新市軍頭領の王匡は定国上公、同じく緑林軍創始者の王鳳は成国上公に封じられ、舂陵軍頭領の劉縯は大司徒、新市軍出身の朱鮪は大司馬、平林軍頭領の陳牧は大司空に任じられている。下江軍頭領の王常をはじめとするその他の連合軍有力部将も、政権要職に配置されており、おおむね、4軍のバランスを考慮した人事と言えた。
しかし、同年の昆陽(頴川郡)、宛の戦いで新の主力部隊を撃破した劉縯、劉秀兄弟が声望を高めると、旧緑林軍の諸将は危機感を抱き、ついに朱鮪・李軼(舂陵軍出身)主導の下、劉縯誅殺という事態に至る。間もなく劉秀も河北遠征に向かったために、更始政権は旧来の緑林軍色を強めることになった。もっとも、劉縯の後任の大司徒に舂陵軍出身の劉賜が就いたことからも明らかなように、4軍の均衡人事は依然として健在な面もあったと言える。
翌更始3年(25年)になると、更始帝配下の軍は、劉秀配下鄧禹の軍と赤眉軍に大敗し、ついには防衛方針を巡って、更始帝と王匡、張卬ら有力部将たちとの間で内戦が勃発する。この内戦の中で、申屠建・成丹・陳牧といった有力部将は更始帝の猜疑を受けて誅殺され、隗囂は西方の自身の根拠地へ逃げ帰った。結局、内戦で劣勢に追い込まれた王匡、張卬らが赤眉軍に降伏し、これを長安に導き入れ、同年9月に更始帝を捕虜としてしまう。緑林軍の手で樹立された更始政権は、皮肉にも、緑林軍創始者の王匡、有力部将の張卬が加担する形で滅亡した。
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