1 月
18

私立自由の森学園中学校・高等学校 ~肯定的・否定的両視点から考察する自森の教育~

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
今日は朝から図書館のパソコン室にこもって卒論を進め、表紙以外を印刷しました。印刷してから間違いに気付いてしまったので、明日また改めて印刷しなくてはならなくなりました…( ´д`)二度手間っ!!!!!!そして今日やっとタイトル考えました。タイトルを付けることが一番難しい気がしました。明日には卒業論文提出できそうです。

ではでは、最後の第4章~第6章まで投稿します。

第4章 自由の森学園の肯定的、模倣すべきと考えられる点
4-1.はじめに
ここからは、以上に見てきた自由の森学園に対して肯定的に捉えられる点や良いと思われる点、また、今後教育に携わっていく上で模倣すべき点等を、私の観点から論じていく。

4-2.肯定的部分・模倣すべき点
4-2-1.授業のこと
創設者である遠藤豊は、「教師は、生徒たちが確かにこれは大切だと思わざるを得ないような発問を準備しなければならないし、生徒たちの全感覚をゆさぶって、思考への強いバネとなるような典型的な事象を生徒のまえにさしだすことが必要です。教材を深くとらえて自分のものにし、細部や個々の事象を全体との関連の中に正しく位置づけた構成をつくり出して、それらを総括するような追求のテーマを明確にする作業を組織することも、とりわけ重要な仕事になってきます」と述べ、「問題追究型」授業と名づけた、導入で生徒に提示した教材によって生じるであろう問いを大切にしつつ、その問いを解きあかしていく授業 を展開するよう自由の森学園の教師に呼びかけていた。現在でも遠藤のこの考えは受け継がれ、授業は展開されている。
その様子が『自由の森学園・その教育 下巻「自由への教育」の展開』に紹介されているが、ここでは、私自身の専門科目である社会科について触れる。社会科の授業実践の例として「南京大虐殺」の授業が記載されている。展開としてはまず、盧溝橋事件から南京占領そして無差別殺戮までの必要な情報が、教師によって準備されたプリントとVTRによって伝えられる。その後、教師からの「なぜ、このような虐殺が起きたのか」という発問から、子どもの想像性、独創性を働かせた意見を出させる。そしてそれを生徒同士で討論させて、整理分類しグループで深める作業をさせるというものであった。
歴史という過去に現実であった、曲げようもない事実を取り扱う授業で討論させることや考えさせる、想像させることは難しく、教員の解釈や知識を押し付けるような授業となってしまいがちである。実際に私が2009年6月に教育実習で中学の歴史を担当したとき、生徒の意見を引き出せるような、想像させるような発問をすることが上手くできず、単なる知識注入型の授業になってしまいがちであった。「なぜ」と問うことの難しさ、生徒から思いもよらない意見が出たときの対応の困難さなどを痛感したものである。担当教師の授業を観察させていただいたとき、その授業にも「なぜ」という発問はあったものの、教科書や資料集を見ればその答えが分かってしまう、想像力を働かせることのない発問に留まっていた。
しかし自由の森学園の教師は、市民講座や学校説明会などで休日や多くの時間が削られているにも関わらず、生徒が主体となる授業を展開するために教材をとことん追究し、生徒の想像力や思考力を働かせる授業を展開しているのが伺える。普通の公立学校でも同じことが言えるかもしれないが、私は、生徒の「先生達ってのは、もうそれぞれがその授業に自分の人生をかけていて、自分のためにやっている人ですよ。生徒のためでなく、自分たちがこういうことを話すからそれが楽しくてしょうがない、という形で授業をやっている。例えば社会の授業を受けると、先生たちがそれぞれ興味を持っている分野を詳しく説明したプリントを作ってやっていくわけです。そういうのを見ていると、先生というよりこの人は、この事に興味があるんだ、よくまあ、こんなに楽しそうで、1日中話していられるなあと言う感じのことが、すごくよく拝見できました。それで面白いなあと。授業自体が何か必要があるからとか、単位を取りたいからとか、そういうことで出るわけじゃなくて、この人はどんなことに興味をもっているんだろうという意味で授業に出て、その授業を感じるってことがすごく楽しかった」 という声に象徴されるように、教師が好きなところを好きなように教材として扱うことができるという点が自由の森学園のような授業を展開する最大のポイントであると捉え、模倣したい点であると考えている。文部科学省が告示している学習指導要領によって授業の内容と詳細が決められているため、公立の学校では実現の難しい話ではあるが、仮にそれがないとするか、もしくは私立の学校であれば、自由の森学園のような授業が展開できるようになるのではないかと考えられる。そこから生徒の興味関心を広げること、また、自由の森学園卒業生が「「双方向から物を見なきゃいけない、ものごとの一方だけを見ていてはいけない」ということをすごく教えてもらって、勝手に「肯定的批判精神」と言っている。非難するように見るんじゃなく、積極的に見て、でも、きちっと本当の意味での批判精神を持つというところが身について、現在にいきている。」 と言うように、社会に対する見方をも確立することができるのではないかと思えるのである。
また、自由の森学園では、生徒が授業に出ずにどこかで遊んでいようとも、授業が始まる直前や途中に抜け出しても教員が注意することはない。『卒業生は いま 「生き方としての進路」を語る』には、卒業生の言葉によって自由の森学園の授業の実態がリアルに語られていた。以下がその本文である。
「授業は40人クラスで、半分いればいいかなって感じ。さびしいなあって。30人クラスになるって聞いた時に、じゃあ授業に出る人は15人くらい。授業にならないから40人の方がいいんじゃないかなと、冗談話を家族ではしました。やっぱり授業で20人くらいだとさびしいなあ、という感じがある半面、40人いてうるさいよりは、いない方がいいかな。正直、私は、特に好きな授業は騒ぐ人がいるよりいない方が私のためにはなるって思っていました。それが良い言い方なのか悪い言い方なのか。現実的には勉強したいことを邪魔する人っていうのが耐えきれない時もあったし、かといって自分が出席するいい子だったから、出席だけはして人としゃべっていて人の邪魔をしているってことは、数学ではあったかなあと自分では思います。今あるかは分からないけど、私達の時は教科によっては自分で先生を選べる授業があって、そうすると例えば英語なんかだと、すごく頑張るクラスと、高校生なのに中学生くらいのレベルかなみたいのをやっている人達がいて、そのやり方が良かったかどうかはわかりませんけど、私にとってはそれは楽しかったですね。先生は上と言いませんけど、私達の中で「あれは一番上のクラスだ」と言われたクラスは授業はちゃんと成立していて、「ああ楽だなあ」なんて思いましたけど。」
「先生と生徒の関係で、「この先生嫌いだから出ない」っていうことが結構ありました。人気がある先生、ない先生に別れちゃうみたいに。中学の時、それがひどくて、ある先生では40人いるクラスで、もう最後には数名っていう時もあった気がして。それが「この先生と会えたから、この授業受けてよかった」と思える時もあるし、「こんな先生に当たっちゃったな」と思える時もある。クラスから閉め出したこととかもあって。この先生嫌いだからとか言ってカギかけちゃって。“先生個人”が好きなのか嫌いなのかっていう問題が、結構ありました。私達が中学生、高校生だった時は、「あの先生がいやだ、面白くない」と言う時、ギャグが面白くないとか、その程度のことで授業がつまらないと決めていることも、結構あったんじゃないか。じっくり聞けば、この先生の授業は面白いけれど、どうも人気がないっていうことがある。私も随分それに流されて「あの先生嫌い」とか言ってた方なんで。ただ、そうやってじっくり聞く前に、ちょっと話し方が面白いからとか、プリントがあまり面白くないからとか、そういうので決めちゃってることが私達の頃はよくありました。」
卒業研究として自由の森学園を調べる以前やこの文献を読んだときには、生徒が授業に出席しないこと、それを教師が容認していることに対して否定的な考えしか抱かなかった。それは私が、授業は新しい発見をし、自分の学びを深める場であるということ、また授業をするのが教員のしごとであれば、授業に出席することが学生のしごとであるといった考えを持っていたからである。授業の質以前に、その授業を担当する教師との関係性によって生徒の出席が左右されることは、生徒自身によって学びの機会を失っていると感じ、授業を作り上げた教師の時間や労力は報われないものとなってしまっていると感じられた。
しかし、『学校をつくりつづける:自由の森学園の人と空間』に記載されていた「(授業に出なくても教師は)怒んないしさ、生徒の行動を律しようとしないしさ、一般的に見たら甘く見えるのかもしれない。でもそれはさ、全然甘くなくてむしろ他の学校が甘いんだよね。」「他の学校は、生徒が授業中に教室から出てくってなったら怒鳴ったり力ずくで引きとめたりするじゃん。それは基本的には生徒のことを思ってそうするんだろうけど、でもそれって本当は生徒のことを思ってるんじゃなくて、生徒の世間体を思ってるんじゃないのって気がする。そういう世間体を気にしてというところから叱るのは、甘いっていうことだと思う。生徒をいい意味で放っておけない甘さ。放っておくともっとひどくなるかもしれないっていう思いを抑えて、生徒をほったらかせる勇気がない。」 という生徒の言葉と、教師の「(授業が)時間どおりにできたり、教室にいつも全員いたりってことをつくり出すことに、いったいどれだけの価値があるんだ。それが教師の力でできていることの背後には何があるんだよ。」 という言葉から考えが改められていった。教師は授業を受けずに出て行く生徒がいると怒りの感情ではなく、寂しいという感情が湧いてくるのだという。「え、どこ行くの。」「一緒にやろうよ」と考えつつも「そうか」とその生徒の行動を認め、「今日はお前にとっては授業よりも大事なことがあるんだな」「サボるからには俺の授業以上に「思えよ」「学べよ」」 と考え、生徒の生きる力を信じるのである。
私は、生徒の言葉にあった「世間体」という考えにはあまり共感しないが、教師の言葉には大いに賛同したい。生徒という立場で考えると、友達同士で話すことの方が思考を伸ばすこと、自分の成長を促すことにも繋がるという実感が私自身にあるということと、反対に教師という立場で考えたとき、私は授業に出ることの意義よりも、授業に出ることが義務であるという考えを抱いてしまったことが大きな要因である。何よりも「生徒の生きる力を信じる」という教師の姿勢は、模倣すべき、見習うべき点であると感じた。生徒に対して同じ目線で真剣に向き合うことを忘れなければ、また、生徒を主体とした授業を作り上げられれば生徒は付いてくるものであり、自分自身の教師としてのチカラが生徒によって試されるという考えに至った。
4-2-2.クラスメイトのこと
自由の森学園では学習障害(LD)や高機能自閉症などの発達障害のある生徒や、軽度の知的障害、身体障害のある生徒が、健常の生徒と共に同じ教室で同じ授業を受けている。これは自由の森学園出身の友人から聞いた話であるが、「しんにょう」を書くことが困難である生徒や、いかにも他者とのコミュニケーションが上手くいかない生徒がいたと言う。実際に、私が自由の森学園の卒業式を見に行ったとき、下肢に障害のある生徒やダウン症(おそらく軽度の)と見られる生徒が卒業生として花道を歩いているのを目の当たりにした。
発達障害の生徒が健常の生徒と授業を受ける光景は、小中学校では普通に見受けられるが、高校では稀である。自由の森学園の高校ではこれが普通である。小中学生にとって障害とは目に見えるもの、例えば身体障害や視覚障害、聴覚障害であれば、車いすを利用している、白状を持っている、手話を介して会話をしているといった様子から「障害」として受け入れることができるが、見た目には分からない障害である知的障害、発達障害は小中学生には受け入れがたい。実際に私が中学校の教育実習で担当したクラスには、特学の判定が出ているにも関わらず、親の意向により通常学級に所属している生徒がいたが、その生徒は他の生徒から受け入れてもらえず、いじめの対象となっていた。
小中学校には特殊学級(現在の特別支援学級)が設けられ、障害のある生徒と触れ合うことが少なからずあったが、高校にはそういった学級が設けられていないため機会がないと言っても過言ではない。ボランティアや地域の交流会などに自ら積極的に参加しなければ障害のある人と触れ合う機会がないのである。そうすると障害者に対する偏見を持ち合わせるようになってしまう恐れがある。高校生ともなれば目に見える障害でなくても受け入れられる心のキャパシティーを身に付けられると考えられる。そのため同じクラスに障害のある生徒がいるということは、その生徒にとっても、また、他の生徒にとっても社会性を広げる契機に繋がると考えられる。そういった社会性を身に付けられるようにする教育が私の希望するところである。自由の森学園のように障害のある生徒を受け入れたりして積極的な機会を設け、障害の有無に関わらず様々な人がいるということ、個性を受け入れ、他人に対して優しくすること、思いやりを持つことはどんな教育でも重要であると考え、教育に携わる以上持ち続けていたい方針である。
4-2-3.大学に似ていること
私は自由の森学園を研究しているうちに、「自由の森学園は大学のようなところである」という印象を受けた。それは外部講師が充実しているところやいつでも誰でも校舎内に入ることができるところ、市民講座・公開講座が多く開かれているところ、そして、オープンスクールや学校説明会が年に何回も開かれているところといった4点を挙げることができる。
全校集会のような形で外部講師の講演を聞くことは、一般的な学校でも多く見られるが、各科目の授業で招くことはあまり聞かないのではないだろうか。少なくとも私自身は授業で外部講師の話を聞くことは大学で初体験し、中学・高校ではそういった授業は皆無であった。それに比べ、自由の森学園では外部講師の授業が豊富である。選択講座や体験学習が充実しているという点も作用していると思われるが、生徒にとって様々な分野の視野が広がるいい機会が設けられていると感じられる。
また、自由の森学園は敷居が低くいつでも誰でも入ることのできる「開かれた学校」であると言うことができる。2001(平成13)年に大阪教育大学教育学部付属池田小学校で無差別殺傷事件が起きた後、校舎の戸締まりが強化され外部の人の出入りが厳しくなり、多くの学校で門扉が閉ざされるようになった現在においても、校舎内の出入りが自由に行うことができるのである。授業に関しても、大学ではその授業を取っていないのに潜り込んで授業を受ける生徒がいるように、自由の森学園では卒業生が卒業後に聴講生として授業に潜り込むことが多々ある。
自由の森学園の授業を出前して、実際に自由の森学園という場でどのような授業がされているのか、学校の入り口として授業を見ていただく場である市民講座や、自由の森学園の各教科教諭が地域の方々の学びのために開いている公開講座も豊富に設けられ、地域や保護者の方に自由の森学園での教育を肌で感じていただくことができる。一般的な学校では実際に行われている授業を公開するような場はないと言えるであろう。我が文教大学でも土日を利用してオープンユニバーシティ講座が開設されているように、自由の森学園にはそういったものがある。参加費が無料のものがほとんどである。合唱や普段生徒が受けている授業を土日祝日を利用して行うことは、教師にとっては骨の折れることであるが、自分の子どもがどういう授業を受けているのか感じることができるのは親にとって安心できることである。教師の立場に立てばあまりにも大変で模倣したい、見習いたいと軽々しくは言えないが、親の立場になれば各学校で取り入れて欲しいと思う点であると考えられる。
他にも、オープンスクールや学校説明会が充実しているという点も大学と似たようなところである。年に何回も開かれる二つの行事では、学校の教育方針、卒業生、在校生による言葉などが聞け、また入学相談といった、希望者と教員の個人面談がある。そこで、いまの学校状況に疑問を感じている子どもはそれを打ち明けたり、入学試験の対策などの話をする。まだ、自由の森学園の生徒ではないのに子どもの話をきちんと聞く体制、環境が整えられているのは自由の森学園だからこそであると思う。他の学校では、子どもの数に対して教員の数が追いつかず、また個人的に面談をするような時間を設けることも厳しい話である。自由の森学園では、子ども一人ひとりの立場に立って話を聞く、対応をする体制を取っているため、子どもの教育環境を大切にするという点においてこれを肯定的に捉えたいと考える。
4-2-4.地域との繋がりが強いこと
現代の学校教育は地域との関わりが希薄化しているということが叫ばれているが、自由の森学園では選択講座や体験学習によって、地域に密着した学習をしていることから、地域との結びつきが強いと捉えることができる。例えば、自由の森学園の教員が年に1回、近くの小学校に出向いて、数学・社会・理科の3教科4講座を5年生を対象に授業を行ったり、選択講座の1つである「学校工房」を選択している生徒が、バス停の壁面や天井の塗り替え、床板の全面補修、生徒たちが手作りしたベンチのニスの塗り替えを行ったりしている。また、小学校の体育館の倉庫の鉄製のドアやトイレの壁の塗り替えなど、授業の枠とは思えない活動をしている。他にも上記したが、市民講座、公開講座が充実していることも地域との繋がりを強めていることであると考えられる。
一般的な学校では、地域ボランティアや市の行事に参加するといったような、地域が主催する催しに乗るということが多いが、自由の森学園では学園側、生徒側から自分たちの過ごす環境をより良くするために、積極的に地域やその地域の人々と関わろうとしている。そういった能動的態度は他の学校も模倣すべき、取り入れるべき点である考える。
4-2-5.学習発表会と卒業課題のこと
自由の森学園には卒業課題がある。3年間もしくは6年間学んできたことを集大成として作り上げるのである。何を発表するのかは生徒によって異なる。例としては、日本語科の自画像や美術家の絵画、体育科の舞台発表といったものがある。
私は最初にこの卒業課題の存在を知ったとき、疑問に思った。「課題」という言葉が付いているからこそなのかもしれないが、点数による評価、序列をしないという教育方針を掲げているにも関わらず、最終的にはその課題に「合格点」を与えられるかどうかの評価によって卒業が決められるのかと、腑に落ちないでいた。
しかし、卒業研究として自由の森学園を調べ上げた今は、その存在に納得する。それは、毎年2月に「学習発表会」という行事があると知ったからである。学習発表会とは、ただ単に「それぞれの学んだことのまとめを発表する場」ではなく、「それぞれが自分の学びや人の学びを見て、感じ、その後まとめる場」である。生徒自らが発表するこの時間は、発表を受け止める生徒たちが質問することによって発表者を支えようとする生徒が、「学び」を共に分かち合う学びの形である。自由の森学園側としては学習発表会をまとめるだけではなく、自ら自分の発表を通して、人の発表を見て感じたことを次へ進む契機とし、その契機をしっかりと抱き、次へ進む第一歩となること、さらに、日常に当たり前にあった学びを流すのではなく、一度立ち止まって見つめ直すことをねらいとしている。高校3年にとっては、準備の期間に自分の1年、あるいは3年間の学習を学習発表会の日にどう表わせばいいのか、また、自分にとっての学びとは何なのかという問いに一人ひとりが悩み、考えて形に表すのである。自由の森学園で何をしてきたのか、自分にとっての学びを目の当たりにするためにも学習発表会、卒業課題というものが課せられている価値を見出すことができる。
大学の卒業論文と似通ったものであると感じたが、一般の学校でも卒業にあたってそういった論文、作品を作り上げるのはとても有意義であると思う。中学でも高校でも3年間その学校に通って何をしてきたのか、何を頑張ったのかというのを見つめなおす場や表す機会等を与えることで学校生活の振り返りと、今後の課題を見出せるため、模倣すべき点なのではないかと考える。
4-2-6.行事のこと
自由の森学園には毎月のように行事があり、生徒が主体となって行事を作り上げていくというのは上記した通りである。私はまず、行事を生徒で作り上げ、教員は見守る側に徹するという姿勢は他の学校でも取り入れるべきであると考える。一般的な学校、少なくとも私が通った学校の行事は、昔からの慣習通りに行われ、内容も教師が決めていた。運動会の種目がいい例である。生徒は教師によって決められたその種目を、運動会当日に何の疑問も持たず遂行するのである。ダンスは毎年変わってはいたが、その学年が取り組む競技種目は変わらなかったため、変化という変化を感じることはなかった。自由の森学園は行事を作る人やその行事に対する意見、アイディアが毎年変わるため雰囲気も毎年変わり、「前にならえ」がないのである。修学旅行にしても体育祭にしても、前例に倣うことなく毎年新しさを求めることは、生徒にとって新鮮な印象を与え、生き生きとした学校生活を送る契機になり得ると考えることができる。
また、自由の森学園の「継続していくことで当たり前になってしまったり、なくすことで改めて実行する必要性を感じたりするため」という考えによって、行事が毎年行われるとは限らないという方針に、私は賛同する。生徒が有志を募り、実行委員を選出し企画運営をしており、それを見守る教員があまり行事実現に向かっていない、実現不可能であると判断すれば行事は開催されない。このことは、生徒を行事に向かわせる契機となり得、また想像力や創造力を培うことにも繋がるのではないかとも考えられる。生徒が嫌々参加する行事ではいいものになり得ない。生徒の主体性、自主性の感じとれる行事を開催できるように、学校側がそういう体制を取ることが必要であると感じた。
各行事に付きものなのが「校長の言葉」であるが、自由の森学園では校長の言葉という項目をあまり設けない。卒業式では「校長からの言葉」があったがとても短く収められていた。体育祭に至っては、校長からの言葉は設けられていないのである。一般の学校では20分から30分くらいの長い校長挨拶があるものだ。自由の森学園では校長の言葉よりも実行委員長の挨拶であったり、在校生・卒業生からの言葉というのが中心になっている。生徒主体で行事が作り上げられるからであろうが、それも面白く、肯定的に捉えたい点であると考える。
4-2-7.各行事の合唱のこと
行事に関連して、もう一つ触れたいのが各行事における「ケ・サラ」の合唱についてである。「ケ・サラ」は自由の森学園では校歌代わりに歌われる歌であると上記したが、この合唱が素晴らしいものなのである。一般の学校において各行事で歌われる歌といえば、国歌や校歌であるが、学年が上がるにつれてまともに歌う生徒は少なくなってはいないだろうか。私の実体験として高校時代を例とすると、まともに校歌を歌おうとする人はおらず、またそれについて学校側は強制的に歌わせようとはせず、3番まである校歌を1番だけ歌って終わりということがあった。そういったことから、校歌には愛着はなく、歌詞の意味すらも気にかけることはなかった。
それと比較すると、自由の森学園にはもともと校歌が定められていないということも手伝って、中学1年から音楽科の授業で多く合唱してきた「ケ・サラ」を全体が全力で歌いあげるのである。私は卒業式を見に行ったときにその合唱を目の当たりにしたが、高校生が大勢いる人の前でこれほどまでに声を出すものかと感動したのを覚えている。
公立の学校で校歌を定めず、生徒が好きになるような歌を歌わせるというのは難しい話ではあるが、音楽の時間を利用して歌うことの楽しさを実感させる合唱は多く取り入れられるべきではないかと考える。生徒に合唱を通して全体の力を総括して作り上げるという達成感を味わわせるためにも多くの学校が模倣し導入するべき点であると考える。
4-2-8.部活動のこと
一般の学校の部活であれば大会やコンクールなどに参加してその培った力を発揮する場面がある。自由の森学園の舞台・表現系の部活は全国各地で公演している。例えば、浅草のパレードでサンバ隊が踊ったり、民族舞踊部と中国舞踊部が11泊12日という日程で和歌山県、長野県、神奈川県、埼玉県と14公演を行ったりと、埼玉県、飯能市内に留まることなく、発表の場を広げている。こういった多くの機会がなければ部活の力の入れようも変わってくる。生徒のやる気、自主性を引き出させるためにも、また部活動を行う意義を見出させるためにも公演や大会、コンクールの場を多く設けることは模倣すべき点であると思う。
4-2-9.評価のこと
私が初めて自由の森学園のことを知ったとき、何よりも驚いたことが点数による評価がないということである。今まで通ってきた学校ではそういったことがなく、点数による評価や序列、比較の指数とすることが当たり前であったため、テストがない、通知表がないという環境が想像しがたかった覚えがある。
本研究を進め、自由の森学園の評価の形式を知り、文章による生徒自身の自己評価と、それを読んでコメントを添える教師とのやりとりがとても素晴らしいものになっていると感じた。もしも生徒がいい加減に自己評価表を仕上げても、教師は教師自身が見てきたその生徒の学習の様子を事細かに記すのである。ここにも生徒と教師の信頼関係を垣間見ることができる。
自己評価表を書き込む期間の生徒の様子を文献やブログで知ることができたが、とても骨の折れる作業のようであった。普通の学校の定期試験勉強よりも大変なのかもしれないという印象を受けた。また、教師にとっても一人ひとりの普段の様子を長文で的確に記すことはそう容易なことではない。しかし、それを生徒が見返してどう感じるか、自分の自由な学びが容認されていると感じることが今後どう影響を及ぼすかということを考えると、多くの学校現場が取り入れても良い点なのではないかと考えられる。
点数による評価をしないということは、まず授業を変えなくてはならず、根本的な教育改革が必要となるが、私自身が教育の現場に入ったとき可能であるならば文章による評価の方に多くの労力を注ぎたいと考える。
4-2-10.PTA役員がないこと
私自身ではPTA役員がないことに関して、善し悪しの判断を容易に下すことはできない。それは、就学した子どもをもつ親の立場に立ったこともなければ、教師としてPTAに関わったこともないからである。私が経験したのは、子どもの立場でPTAというものがあるというのを知っていた程度であり、PTAの存在意義に触れる機会もなかったため、良い悪いは一概には言えない。ここでは、あるブログ に書かれていた文章を参考に述べる。
自由の森学園にはPTAや役員がなく、全校保護者連絡会があっても定まった議題もない。しかし、そういった役職や議題がなくても、保護者や教員すべての人が学校をどうするかについて日々思考を凝らしているという。すべての人が自由の森学園がスムーズに運営されるように、また、よりよい学校であるために考え協力しているのである。
年に数回行われる自由の森学園教員のシンポジウムは、保護者有志の力によって開かれていたり、また、自分の子どもが卒業して何年たっても寄付金を納めたりしているという。そういった保護者の活動を見ると、一般の学校において敬遠されるPTAや役員を定めることに何の意義も感じないという考えに至ってしまう。保護者や教員全体から賛同が得られる教育を施せるよう、各学校が配慮し努力すべきであると考える。
4-2-11.校長を退いた後に教科教員に戻ること
自由の森学園では、校長が普通の教科教員に戻ることがある。一般の学校では、校長職を退くときは定年のときというイメージが強い。しかし、自由の森学園では、生徒と共に学び、授業を作るしごとに戻ることができるのである。私にとっては、これはとても肯定すべき点であると感じた。校長職を担っていたからこそ見えてきたことや出来るしごとの幅が増すだろうし、子どもとの接し方、関わり方なども工夫を凝らすことができ得ると考えられるからである。
校長といった管理職の方がしごとが多く、その分給料がいいという点や、自分の考える理想的な教育を施すことができるという利点から校長が教科教員に戻ることは少ないのであると考えられるが、教壇に立ち、多くの生徒と多くの時間を共有することの方にこそやりがいや価値を見出し、教育の幅を広げた環境が整えられるよう一般の学校でも多く取り入れられたら素晴らしく面白いと考えられる。
4-2-12.「先生」と呼ばないこと
自由の森学園では生徒は教師のことを先生とは呼ばない。それは、生徒と教師の距離の近さと、生徒の信頼を示しているからである。また、授業を一緒に作り上げる仲間であるという意味も込められている。私はこれについては模倣したいと思う。これは生徒と友達関係のようになりたいと示唆しているわけではない。
意見を言うことは相手を信頼してこそできることである。私がもしも教師となったら生徒は下の名前の呼び捨てかニックネームで呼びたいと考えている。そして「先生」とは呼ばれたくはない。「さん」付け程度が調度いいと思う。もともと「先生」とは、「師と仰ぐ人や目上の者への敬称として使用されていたもの」 であるため、「先生」と呼ばれるとやはり距離を感じてしまう。距離があると生徒が悩んだとき、内に閉じこもったときに真剣に向き合ったとしても埋められない溝のようなものを感じてしまうと考える。そういったことがないように、生徒とこれ以上ないくらい真剣に向き合うためにも「先生」とは呼ばせないことを実践したいと思う。
4-2-13.生徒のパーソナリティーのこと
自由の森学園のような授業が展開されると、大部分の生徒は自分の考えや意見に正直になり、疑問に思うこと、否定したいことなどをはっきりと述べられるようになる。私は自分自身を、自分の意見を持つことを苦手とし、また、独創性に欠けた人間であると捉えているから、しっかりと自分自身の意見や考えを持てるということがとても羨ましく思える。
一般の学校に通ってきた多くの生徒に見られるのが、授業中発表しようにも間違えたらどうしよう、否定されるのは嫌だ、恥ずかしいという感情が先行し、意見を言ったりすることができないということである。私もその一人である。自由の森学園では、授業の冒頭で教員が「間違えてもいい。失敗は成長のもとである。」といった言葉がけがされるため、生徒が恥ずかしいと感じるような雰囲気の授業はない。また、行事においても一人ひとりが主体、主役となるようアイディアを募ったりするため、想像性、創造性、独自性の活かされた考え、意見を出すことが習慣になっているというのも、自由の森学園に多くみられるパーソナリティーを持った生徒を育む要因であると考えられる。
一般的な学校の生徒に見られる、私のような人間を減らすためには、まずは、教師による授業の改善が第一であると考えられる。答えが一つしかない発問や、知識を注入するばかりの授業が展開されては、独自の意見や考え持つ子どもは育ちにくい。一問多答の発問と、ブレインストーミングのような授業が展開できるよう学校・教師が努力するべきである。
4-2-14.卒業アルバムのこと
私は以前に、友人から借りた自由の森学園の卒業アルバムを見たことがあるのだが、これが他の学校のものとは大きく異なり、自由の森学園らしさを感じ取れるものとなっている。一人の生徒が1ページを使い、写真といくつかの質問の答えが書いてあるのである。一学年7,8クラスあるので、厚さは一般の学校の卒業アルバムの2倍程度になる。ここに写真を載せること、質問に答えることは生徒の自由であるため、写真がなく名前だけが記載されている生徒もいる。自由の森学園を知らなくても「自由」であることと、素晴らしい創造性を持ち合わせていることが感じ取れる。この形の卒業アルバムは、橋口譲二の「17歳の地図を」原型としており、3期生から始められたものである。
このアルバムの利点は、その当時自分が何を考え、何を思っていたのかが記録できることであると思う。一般の学校の卒業アルバムには自分の記録を残せるような構成にはなっておらず、その学校生活の思い出の写真のみが掲載されているだけである。こういったものでは、当時の自分や友人がどのような人であったか、何を考えていたかを振り返ることは難しい。
また、卒業アルバムは図書館に貯蔵され、希望者は史書に申し出れば閲覧させてもらえるらしい。多くの卒業生がどのようなものに興味を持ち、何を考えていたのか後輩が知ることができるということも面白い特徴であると思う。
たくさんの学校がこういった自由の森学園のような卒業アルバムを導入し、思い出深いものを作成できれば、3年間を過ごした学校に愛着が湧くのではないかと私は考える。

第5章 自由の森学園の否定的、改善すべきと考えられる点
5-1.はじめに
第4章において、自由の森学園の肯定的部分、模倣したいと考えられる点について論じてきたが、本章では反対に、自由の森学園の教育に対して否定的に捉えられる点や良くないと思われる点、改善した方がいいのではないかと考えられる点について論じていく。

5-2.否定的部分・改善すべき点
5-2-1.学校に行かなくてもいいということ
第4章で私は、教師は授業に出ない生徒を容認し、生徒の生きる力を信じているという態度を肯定的と捉え、模倣したいと述べた。しかし、学校に来ないことまで容認してしまっている教師の態度には賛同できない。私は学校に来て学校の雰囲気を楽しむことや、学校にいる人たちと接することで視野を広げることができると考えている。そのため、学校に行かず、自分の内側の世界だけで生活していると興味や関心をも狭めてしまうと考える。
自由の森学園のいくつかの寮は、徒歩1分で着いてしまう程近いところにあったりする。寮生にとっての寮は、第二の家となっているため居心地がとても良いという声が多い。しかも教室の窓から見える距離に位置しているということで、学校に行くことが容易であれば帰ることも容易なのである。居心地が良く、学校に行くことや授業に出席することが義務になっていないとすれば楽な方、自分の部屋でくつろぐことを誰もが選択するであろう。
しかし、それでは不登校の状態、引きこもりの状態と言えてしまうのではないだろうか。せっかく自由の森学園に入り高い授業料、寮生であればそれにプラスして寮の費用までをも両親に払ってもらっているのだから、行かないことは損であり、親に負担をかける一方である。
自由の森学園には、個性や独創性の強い人たちが在籍しているため、その人たちとの関わり合いの場を教師が設けるよう働きかけたり、生徒の登校を促すような配慮をするべきであると思う。それが、生徒の学びを深める場を提供し、生徒の生きる力を信じている教師の責務であると言ってもいいのではないだろうか。
人生の中で決められた期間しか学校に通うことはできない。そのような貴重な時間を自分の内側だけの世界で生きるということは、学びを深める機会を削っていると言える。そういった機会を貴重なものと考え、自由の森学園の教師はもっと生徒に働きかけるなどの行動を取るべきであると考える。
5-2-2.入学試験のペーパーテストのこと
自由の森学園の入学試験に関して友人は「学校は入学希望者をふるいにかけることはしないと思う」と言っていた。しかし、研究を進めていくにつれて、倍率や偏差値の存在が明らかになった。これは合格することのできない子どももいると捉えることができる。それならば、友人の実感していた「ふるい」とはいったい何を意味するのかと考えたときに、本当に自由の森学園の教育を必要としている生徒を厳選するということなのではないかという考えに至った。それならば、入学試験におけるペーパーテストは必要ないのではないだろうか。
近年のペーパーテストを確認してみたところ、「ごく基本的で、ごく普通に子どもたちが出会っている問題」が出題されており、開校当初の入学試験で問われた「「自分がそうした理由」について説明したり、与えられた問題を解くことだけでなく、「問題をつくる」という課題」というのは出されていないようであった。
開校当初のペーパーテストを行う意義として「教師が教材を深く研究して、どの子にもわかる授業をしていったときに、なぜそうやるのかということを自分で考えて納得していく力をどの程度もっているかを知るためである。」と自由の森学園側は述べているが、現在の入試ではそれが見られないため、私にはペーパーテストを行う意義が見受けられない。授業で扱う教材は教師の好きなところであったり、生徒は自由に発言して良かったり、また教師の作ったプリントやVTRを活用しながら授業を展開しているといった特徴を持っているため、子どもの基礎力を必要としているようにも考えられない。
入学希望者が本当に自由の森学園の教育を必要としているかどうかは、入学願書や面談で感じ取れるものである。最終的に私は、自由の森学園のような教育、授業を展開するのであればペーパーテストを行い、学力によって子どもをふるいにかけるようなことはすべきではないと考え、ペーパーテストを入学試験項目として設けていることを改善すべきであるという結論に至った。
5-2-3.行事のこと
第4章で私は、生徒が主体となって行事を企画運営し、教師は見守るという姿勢に徹していることについては賛同した。しかし、教員が介入しなさ過ぎるといったところは改善すべきであると考える。
実態として、生徒が主体だからこそ危険なことや時間の制限がないことがある。例えば体育祭では、棒倒しで生徒が背中から落下し救急車が出動したこともあれば、女子の騎馬戦では帽子を取って終わりではなく、騎馬が崩れるまで戦うのである。また卒業式では、「卒業生に伝えたいことがある在校生は司会の所まで来て下さい」「在校生に伝えたいことのある卒業生は前に出て来て下さい」と時間や人を決めず、そのときの生徒の気持ちや状況をくみ取った司会進行がされるのである。そのため、卒業式は5時間半という長丁場になる。途中に休憩をはさむことはなく、出入り自由という形で毎年行われている。
体育祭に関しては、救急車が来るほどの大ごとを起こしている。このままでは最悪の事故を招きかねない。卒業式は卒業生のために行われている行事であるのに、主役である卒業生がトイレに行くなどして会場にあまり残っていない場面見受けられた。
生徒が企画運営し、能動的に行事を作り上げていくことには賛同できても、責任を問われる立場である学校側、教員側への配慮が欠けている点は生徒の甘えや自分勝手であると捉えることができる。今後、救急車が出動するような事故を避けるためにはどうするべきか、長時間に及ぶ行事にはどのような配慮が必要かを生徒自身がもっと深く考えることと、教員側が適切な援助を心がけ、学校にとっても、参観する保護者にとっても、もちろん主役である生徒にとっても、安心、安全で楽しいと思える行事を作り上げられるよう改善すべきであると考える。
5-2-4.はき違えた自由のこと
自由の森学園の子どもたちには、きちんと自由の森学園の「自由」を捉えている生徒もいれば、「自由」をはき違えている生徒もいる。
私がそれを実感したのは、卒業式に向かう路バスの車内であった。後部座席に乗った自由の森学園の生徒が他の乗客がいるにも関わらず、携帯のワンセグを大音量で見ていたり、友人たちと大声で話していたりしていた。また、卒業式が行われた会場でも在校生席が設けられているにも関わらず、保護者席に座ってお菓子を食べたり、友達同士で話をしている生徒がいた。また文化祭においても、私が食堂のご飯を食べるために列に並んでいたとき、食堂が開いた瞬間に自由の森学園の生徒がその列を無視して、列のなかった入口の方から入って行ったのが見受けられた。
こういったことは、確かに「自由」といえば「自由」であるが、他人に迷惑がかかっているため自分勝手の部類であると捉えることができる。あるブログに「自森の仲間たちはとても他人思いであり、特に“待つ”ということに対しては、とても力がある。」 とあったが、実際には待つことができてなければ、他人思いでもない。一概にこの言葉を信用するわけにはいかないということを実感した。
また、たばこや生徒の暴力、いじめの問題が自由の森学園にはあるという。そういったことが嫌で公立の学校から自由の森学園の教育に頼ったにも関わらず、反社会的行動を起こす生徒がいる。そういった行為に対して、教員は指導するが強引に止めさせるということはせず、学校の問題としてクラス、ときには学校全体で話し合って子どもたち自身で改善策を話し合わせるのである。子どもたちの自主性を尊重するのはいいが、教育者として大人として、社会に反する行動をしていたら生徒ととことん向き合い、止めさせることが大事なのではないかと私は思う。世間体を気にするということよりも、取り返しのつかないことになりかねないからである。
たばこも暴力もいじめも、生徒の心身に関わる問題である。行動が遅くなれば死を招きかねない。そういった考えを自由の森学園の教師は持っているのか定かではないが、危機感を持ち合わせてもっと適切な援助、指導をするべきであると考える。
5-2-5.上下関係のこと
自由の森学園では縦の繋がりがとても強い。それは各行事を中・高6学年全体で取り組んだり、寮生活を共に送ったりして、一般的な学校よりも上下の関わりが多くあるからである。そういった環境から上下関係がないといっても過言ではないのである。
私はそれについては賛同しない。年上の人に対して挨拶することや敬語を使うことは、中学、高校、大学、そして就職等、自分の社会が広がるにつれて役立つものであるという実感を持っているからである。私の地元では中学に進学するとすれ違う先輩には必ず挨拶をし、敬語で話しをするというのが暗黙の了解であった。最初のうちは慣れず戸惑い、嫌な思いをしたこともあったが、高校に進学するときやアルバイトを始めたとき、さらに大学で一人暮らしを始めるようになったときなどにその経験は大いに生かされていると感じた。
生徒が教員に対して「先生」と呼ばなかったり敬語を使ったりしないことに関しては4章において賛同したが、生徒同士における上下関係を無視することについては賛同しない。学生にとって学校は、挨拶や敬語といった礼儀を身に付けるいい機会である。敬語を使うことによって友達関係が崩れるというわけでもないのであるから、上下関係を築き上げるということを生徒一人ひとりが心がけてもいいのではないかと考える。
5-2-6.生徒の態度のこと
自由の森学園の生徒の多くは自分の意見や考え、疑問に思うことを正直にはっきりと述べることができると4章で述べたが、反対に受けとめようとする姿勢や態度が足りてないという声が見られた。私は、人の意見を聞くことや自分自身でそれを受け止めることは自分の意見を持つことと同等に大切なことであると考えている。人の意見を参考にして自分の意見を絞ることや、深めること、さらに改めることもでき、また、人の意見があまりにも偏っているようであれば助言して、お互いがお互いを深め合うことにも繋がり得るからである。
自由の森学園では学習発表会という行事が設けられ、そこでは、「人の意見を発表を聞いて自分の学びを深める」というねらいがある。そういったねらいを意識した上で、生徒は学習発表会に臨むべきであるし、一つの事柄には無限の見方が存在するということを受け入れるべきである。
授業や行事など多くの機会を利用して、他の人の発表を受け入れられるような場を提供することが教員に求められることと考える。
5-2-7.テレビに取り上げられること
自由の森学園は、一般の学校とは異なり特殊と表現してもいいような教育が展開されているため、テレビに取り上げられることが多々ある。テレビをはじめとしたマスメディアに取り上げられれば、不特定多数の人に自由の森学園を知ってもらうことになり、宣伝、入学希望者の増加が見込める。しかし、それと同時に多くの批判を受けることになるのである。それは学校が叩かれ、生徒が叩かれるということを意味する。教育に支障をきたすのである。
一般の学校に通ってきた人から自由の森学園を見れば、普通からかけ離れていることから否定的になる人が多くなることが予想される。実際にそういったことが起こったのであるから、生徒の学習の場、教育の場を確保したいのであれば、取材を安易に受けることは避けるべきであると考える。

第6章 終わりに
卒業研究ということで、自由の森学園を長期に渡って調べてきた。そのなかで、教員としての視点、保護者としての視点、子どもとしての視点という3つの視点をもって自由の森学園を見る機会を得た。
仮に自由の森学園の教師になれるとしたら、私は一度は経験してみたいと思った。社会科の授業をするのはとても骨の折れる仕事であり、また、休日でも市民講座や公開講座、あるいはオープンスクールや学校説明会などのために教壇に立たなくてはならない。私的時間をかなり削ることになってしまうが、根本的に、自由の森学園の教育方針や教師の生徒との関わり方、行事に対する姿勢においてはとても尊敬しているので是非就いてみたいとは感じた。
仮に自分が親になったら、私は子どもを自由の森学園に通わせてみたいと思う。想像性や創造性、芸術性にといった社会に出たときに必ず生きる能力を培うことができるからである。経済的な面は考えると、少し躊躇してしまうが、是非とも自由の森学園の教育方針のもと学んでほしいと思う。ただ、子どもの意思を第一に尊重する。
仮に自分自身が小学校時代、中学校時代に自由の森学園を知っていたならば、私は中学は地元の公立中学に通い、高校は自由の森を選んでいたかもしれない。小学生のころは友達にも恵まれ、楽しい学校生活を送っており、他に選択肢が現れても特に何の疑問も持たず公立中学校に進学していただろうと思う。ただ、中学生になったとき、芸術科目に対して苦手意識が芽生え、また自分独自の意見や考えを出すこと、述べることを恥ずかしがる傾向が出てきた。そのため、自分の意見を素直に出すこと、誰にも否定されることなく独特の意見を持つことが受容され、文章によって評価される自由の森学園を知っていたなら選択したかもしれない。遠方のため寮生活になるが、そこで、人との関わり方を学ぶ機会にもなると考えると大いに選んでいただろうと考えられる。
また、卒業研究についての話を友人と交わすと、必ずと言っていいほど自由教育について議論することとなった。公立学校のような教育と自由の森学園のような自由教育とどちらがいいかということに対しての意見は、人それぞれ異なり、それがとても面白く興味深いものであった。
自由の森学園の「自由」とは、自分の好きなことを自由に学べるという意味である。自分で考えて自分で選んで自分で責任を取ることと捉えることもできる。しかし、どう学んでもいい、どう生活してもいいという自由は必ずしもすべての子どものためになるとは限らない。それは、今まで大人の敷いたレールの上を何の疑問も持たずに走り続けた子どもは、受動的である場合が多いからである。自由というルールがない世界では、能動的でなければならない。自分から動き出さなければ、向こうからは何も来ることはない。そういう点では「自由」というのはある意味面倒くさいのかもしれない。自らが動き出さなければ、何も得られない中で、楽を求めて何も学ばず、何にもぶつかることなく過ごすことすらも可能なのであるからである。
こういったことを考えると、自由の森学園のような教育がすべての学校で生かせられることではないということが実感できる。多くの人の意見が私の考えを広げ、深めさせてくれたことについてはとてもいい機会であったと言い切れる。
最後に、あるブログにあった文章を引用する。
「学校の「校」…学生、生徒が集って教育を受ける場所 学園の「園」…人々が集って楽しむ場所」
多くの学校が生徒にとっての学園であることを願う。

以上で私の卒業論文のすべてを投稿し終わりました。このあとは、参考・引用文献、URL一覧を記載しましたがここでは省略します。
私はこれで最後の投稿となるのでしょうか??今後のこのブログの行方が気になるところです。

みなさまもう一踏ん張り頑張りましょー
ではでは(*・∀・)ノ"(おっくん)


1 月
11

成人の日

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
いやー、今日は寒いですね。明日は雨が降るそうで。明日は学校から借りているパソコンを返しに行かなきゃいけません。そういうときに限って寒い雨です。嫌ですねー。

はい、前回の続きを投稿します。

3-3-9.定期試験・評価・通知表
自由の森学園では定期試験はない。その代わりに各授業で学んだことの中から、自分の興味・関心のあるテーマにもとづいてレポートなどの課題を仕上げる。そのために、参考文献や資料を読むなどして理解を深める。試験のための勉強ではなく、自分の興味関心のために学ぶのである。生徒たちはこうした中で、読む力、理解する力、まとめる力、表現する力を日常的に身につけていく。
評価について、自由の森学園では一般に行われている「点数による評価」は行わない。それは、自分の学びが他人との比較で評価されることはあっても、それが自分にとってどういうものであるのかは自分自身でもよく把握できないものであるという考えによる。
「点数による評価」の代わりに自由の森学園では、自分自身で各教科の半年間あるいは1年間の学びを振り返り、言葉によって再確認し、次の課題を明らかにするための「自己評価表」を仕上げることになっている。毎日の授業や課外授業、学校行事やクラブ活動など、自分が自由の森学園で体験したさまざまな活動を振り返り、個々が学んだこと、考えたことや感じたことを、右の写真にあるように言葉にまとめて提出するのである。「自分の学びを自分で評価する」ことこそが、学びの主体者になって行くことと考え、こうした評価のスタイルをとることにしているのである。
自由の森学園には、左の写真にあるようなボックスが設けられており、それぞれ担当教員ごとの課題・評価表を提出するようになっている。提出された自己評価表は、各教員からのたくさんのコメントが添えられて返却される。
3-3-10.選択講座
自由の森学園の創設者である遠藤豊は、自由の森学園を創設する以前から「学校では教師が教える授業は午前中だけとし、午後は生徒の興味や関心によりそった自由研究や選択学習の時間にすべきである」 「教師がいくつかのテーマをだし、生徒がその一つを選んでグループをつくったり、ときには生徒がテーマをつくって、そうしたテーマについて調査したり、研究したりして、その結果を本にまとめていくような授業も展開する必要がある」 と考え主張していた。自由の森学園の高校ではこの遠藤の主張を実践すべく、約90もある多彩な選択講座の中から自由に自分にあった講座を学んでいく自発型の教育プログラムがある。さまざまな分野の選択講座が充実しており、生徒たちの興味や進路に合わせてより深くより広く学べるようになっている。以下に選択講座の一部を記載する。
人文・社会系
・東アジア現代史  ・漢文鑑賞  ・哲学  ・古文鑑賞  ・日本史入門
・韓国講座  ・現代思想  ・美の流行を探る  ・そもそも昔話  ・福祉の現場へ
・批評―「批評・短編小説をよむ」  ・日本史  ・世界史前近代文化史  ・心理学
・“オルタナティブ ライフ センター 共生型社会入門”  ・エミール①②
・ものづくりで学ぶ循環社会「江戸」  ・政治・経済演習  ・NGO・NPO論
・日本文学鑑賞  ・飯能地域研究  ・二つの世界のルーツ検索
・現代文読み書き、小論文作成
言語分野
・中国語  ・ドイツ語入門・初級  ・Logical Reading & Thinking入門  ・英会話
・韓国語・朝鮮語A・B  ・フランス語A・B  ・スペイン語とラテンアメリカ世界を知る
・English Writing(英作文)  ・英語作品朗読  ・E.E.CAMP  ・スペイン語の初歩
・ドイツ語基礎  ・楽しいスペイン語  ・English Reading  
・study abroad(国際交流)
身体表現・運動分野
・ボール運動  ・ソフトボール  ・サンバ  ・体づくり運動  ・太極拳
・日本の芸能  ・中国舞踏  ・陸上運動
芸術・表現系
・文章表現  ・オペラ  ・選択演劇  ・朗読講座  ・和紙工芸  ・絵画ゼミ
・古典技法テンペラ  ・木工 ベンチをつくる  ・高3主役!「卒業雑誌」を作ろう
・木版画  ・絣(かすり)  ・短編映画(ショートムービー)を作る  ・映像風刺
・絵画「自分を描く」  ・銅版画  ・染織  ・陶芸  ・声楽  ・精密画
・美術館を訪ねる  ・木彫  ・木工  ・絵手紙
総合分野
・カヌー  ・農業  ・保健  ・フィットネスとセルフコントロール  ・発酵
・食べもの  ・林業講座  ・森と木の家  ・健康科学入門
理科・数学系
・数学Ⅰ・Ⅱ演習  ・数学A  ・選択生物  ・微分・積分  ・自由選択科学
・歴史でたどる中学数学  ・人間と環境  ・現実の中の数学  ・科学
・アンプラグドコンピュータ  ・僕らはアインシュタイン  ・ロボットをつくる
・センター試験数Ⅰ演習  ・思想と数学  ・物理Beyond

以上にみてきたように、既存教科の1分野をより掘り下げて学べる講座から、教科の枠を超えた複合的な講座まで、さまざまな講座が用意されている。また、講座によっては、海外の人々との交流を通して、その国の歴史や文化に対する理解を深めるアクティブな国際交流が盛んに行われるものもある。その講座の課外授業として夏休みを利用して行われるプログラムでは、語学を学ぶだけでなく、海外の高校生との共同生活を通して友情を深めるなど、さまざまな形で直接異文化に触れる体験ができるようになっている。
生徒それぞれが誰かに押し付けられることなく、ひとつのことを深く掘り下げて追究していき、得意分野や自信を生み出すだけでなく、自分らしい魅力を育むことや、ひとつのものに深く触れ、こだわりを持って一生懸命に打ち込み、その周辺の知識や視野を広げることをねらいとしている。
3-3-11.体験学習
上記3-3-7.でも述べたが、自由の森学園では「恵まれた自然のなかで「ものをつくる」「動植物を育てる」などの体験の教育を充実させると共に、実際的なしごとの体験の場を用意する。そのことによって、他者に出会い人間同士の相互性に気づかせ、自我の発達を助けると共に自然と人間との共生の問題を考えることができるようにする。」 という教育方針のもと、日常の授業を離れ、総合的な体験学習をする「森の時間」(中学)、「学年ワーク」(高校)と呼ばれる時間を設けている。それぞれのテーマや企画は教員・生徒の手により計画・実施され、さまざまな体験を通して感じる力、考える力を養う時間として活用している。内容としては、学校の校地とその周辺地域での日常活動としての学校農園活動や、夏休みなどに日本の各地に10日から14、5日ぐらい泊まり込み、有機農法やその他の独特な農法による農業の体験学習、また、自由の森学園の実習生を受け入れて下さる保育園での保育体験学習など、他にも多くの体験学習がある。文献に記載されている、過去に行われた体験学習を以下に列挙してみたい。
「北海道の農場で酪農体験」「山梨県の山の中で丸太小屋づくり」
「埼玉県比企郡小川町 霜里農場…有機農業」「福島県熱塩加納村 農家に分宿…有機農業中心」「千葉県安房郡三芳村 生産者グループの集会所みんなの家に宿泊…有機農業」「福島県岩代町 農家に分宿…酪農と農作業」「福島県東和町 農家に分宿…果樹、穀物、野菜などの農作業」「熊本県阿蘇山麓 ポコワッパ耕文舎…シュタイナー農法による農作業と外国語学習」「北海道札幌市 近辺の牧場…酪農を総合的に実習」「栃木県西那須町 アジア農村指導者養成所…農作業」「埼玉県深谷市 第二さくらんぼ保育園…乳幼児の保育」「福島県いわき市 いわきさくらんぼ保育センター…乳幼児の保育」「埼玉県深谷市 さくらんぼ学童保育所…小学校低学年の保育」 他保育園など4か所
『「現代日本の貧困と生存をめぐって」をあつかう「生きさせろ!」』「障害のある人たちへの支援について」「学校の排泄物はどこに行っているのか」「南極の氷がとけている原因の地球温暖化をめぐって」「小岩井の森で林業体験」「小さな命の誕生―私とウニの誕生」「“自森てぬぐい”考案、製造、販売有限会社」「広島で被爆したピアノ(被爆ピアノ)で演奏を聴こう!」「靖国神社のフィールドワーク」「禅―心の宇宙を探る」「アジア学院―英語ざんまい、農業ざんまい」「ガラス体験」「表現を考える」「保育園へ行こう」「カヌー」「夜の散歩(房総・九十九里)」「かんから三線を作って島唄を歌う」「保育体験」「グラウンドの階段を直す」
開校当初から現在までに行われてきた体験学習を挙げた。1990年代には農業体験、保育体験にしぼられていた体験学習も現在では多様な分野の学習ができるようテーマ設定がなされている。
3-3-12.行事
自由の森学園での学校行事は生徒が主体となって、誰かに強制されるわけでもなく、一人ひとりがアイディアを出し合い、自分の役割を考えてそれぞれが担当する仕事に取り組む。学校行事が近くなると、実行委員会が立ち上がり、クラスや学年、時には左の写真のようなプリントを配布し、全生徒からアイディア募って、話し合いを重ねていく。企画の立案から運営、反省会まで、学年にかかわらず、中・高6学年が一体となって作りあげていくのである。仲間と協力して作り上げることで、何事にも代えがたい感動と達成感を味わうことができ、また、みんなを喜ばせる楽しさと気持ちを知り、出し物や構成を考える、定めた目標に向かって困難を乗り越えていく情熱と感動が感性を高め、豊かな創造力を育んでいくのである。自由の森学園で行われる各行事を以下に挙げる。
・4月「入学式」…新入生を歓迎するために、在校生が手作りの入学式を企画・運営しする。みんなで決めたテーマに沿って、会場のデコレーションやパフォーマンスなど、さまざまな演出で新しい仲間の入学を祝います。毎年心温まる感動的なイベントです。
テーマ 2008年度「想像を創造しよう」
    2007年度「自分のうたをうたおう」
    2006年度「はだしで歩こう」
・5月「体育祭」…スポーツやゲームを通してコミュニケーションを深めることを目的に行われる春のイベントです。生徒は競技を楽しむだけでなく、審判係、救護係、環境係、放送係など、裏方も自分たちで行います。奇想天外な競技や合唱なども自由の森ならではです。
テーマ 2006年度「前代未聞の森上がり」
・6月「修学旅行」…「どこに行くか」、「何をして何を学ぶか」など、半年かけてみんなで話し合いながら修学旅行を作っていきます。毎年新しい発想からコース企画が生まれ、人との出会いの中で多くのことを学んでいきます。終了後には発表会が開かれ、学んだことを発表します。
・8月「体験学習」…希望者が学校の外に足を伸ばして社会や自然の中に飛び込み、労働の場に参加する体験学習です。酪農、農業、保育園、福祉施設などの受け入れ先で、さまざまな仕事をしている人とともに汗を流す貴重な体験ができます。
主な仕事 ・農業(有機農業)体験
     ・保育体験
     ・福祉(養護学校・老人施設)体験
     ・酪農体験
・10月「表現祭」…クラス企画や有志企画など、各々が思い思いのアプローチで盛り上げる、年に一度のお祭りです。生徒自らが育てた野菜を使った模擬店や各クラブのパフォーマンス、巨大なねぶたや打ち上げ花火など、他校にはないユニークなものばかりです。
テーマ 2007年度「1人1人が考えて、本当にやりたいことをやろう。」    
    2006年度「しっぽまであんこ」
    2005年度「森にやさしい学園祭」
・12月「音楽祭」…みんなで話し合って決めたテーマのもと、クラスや寮、さまざまな有志、など、一人ひとりが音楽と向き合い、練習して挑みます。ジャンルはロックからアニソン、ゴスペルまでノンジャンル。一般の観客を巻き込んで盛り上がるイベントです。
テーマ 2007年度「ええ感じやったって、いいたいやん?」
2006年度「百鬼夜行」
2005年度「みんなの音をあつめて」
・2月「学習発表会」…年度の終わりに1年間に学んできた事を、舞台発表、作品展示など、各々がさまざまな形で発表する場として学習発表会が開催されます。「学んだことを他者に分かりやすく伝える」という作業の中で、一人ひとりが成果を再確認する機会です。
・3月「卒業式」…在校生が卒業生のために企画・運営する卒業式。卒業生一人ひとりが花道を進み、学校長から卒業証書が手渡され、3年間で学んだこと、共に生活してきた仲間のことを振り返ります。
テーマ 2008年度「あったかなみだとみんなのうた 全部あなたにおんがえします」
    2007年度「おもちゃ箱」
また、各行事がどのような流れで企画、実行されているのか、詳細を2007年度中学・修学旅行を例として、次ページから記載する。
準備
実行委員会設立
話し合いの進め方や進行管理、情報の共有化を図るための生徒たちによる実行委員会が組織される。実行委員長、副委員長、議長、書記などを選出。

第1次企画書提出
企画の立案者から修学旅行の企画書を提出され、実行委員会で検証。単に企画を批判するのではなく、より充実したものにするために、企画の実現性や学習テーマとの矛盾点についてさまざまな角度から検証を重ねる。

第2次企画書提出
第1次企画書の中から実現可能で学習テーマと合致するコースについて、より具体的な内容、予算、旅行工程を含めた企画書を再提出され、実行委員会で細部に至るまで検証。

プレゼンテーション
学年集会で各企画の立案者が自分の企画についてのプレゼンテーションを行う。

投票
投票用紙には選んだコース名のほか、なぜ自由の森学園の修学旅行としてふさわしいと思うのか、その理由も記入。コースごとの希望者数に偏りがある場合には話し合いを重ね調整を行う。

事前学習
各コースの内容に関連する特別授業が教師によって開催され、各自がより深い学びにするための個別学習を行う。またホームステイ先へのあいさつの手紙や電話など、事前に交流を深める。

パンフレットの作成
各コースの学習テーマのほか、スケジュールや持ち物、注意事項などをまとめた冊子を作成。

実行
旅行の実行
自分たちで設定した内容に沿ってスケジュールを消化。そこで学んだもの、感じたことをノートに書き込んでいく。旅程の途中、全体で集まってプチ報告会を開き、各コースの感想を聞くことで学習したことを共有。

まとめ
報告会
在校生や保護者向けの報告会を開き、修学旅行で学んだことを報告。

まとめの冊子づくり
修学旅行の準備から、内容、まとめに至るまでの全過程、感じたこと、学んだことを中心にまとめた192ページの冊子を作成。
今回は修学旅行を例として取り上げたが、他の行事においても全学年から実行委員会を募り多くの話し合いを重ねながら行事をつくり上げているのである。
3-3-13.校則・校歌・その他
上記3-3-5.で、寮の細かなきまりは開校当初は設けておらず、寮で生活を送る生徒や寮の教師と討議して自分たちで生活のルールをつくりあげていったのであるが、校則に関しても同じことが言える。自由の森学園では、細かな校則を設けてはいない。「それは、共同生活を営む中で「すべきこと」、「してはいけないこと」、「自分が求められている役割」などを体感的に学び取ることを尊重しているからである。必要な決まりごとは学校生活を送る生徒や教師の話し合いの中で、普遍的に形成されていくものだと考えている」 からである。このため、制服はもちろん校歌も規定されてはいない。服装や髪形等はその生徒のしたいようにして構わないのである。
校歌も規定されていないと記したが、「校歌の代わりにうたわれる歌」はある。「ケ・サラ (CHE SARA)」である。作詞はJ. FontanaとC. Pesで、作曲はF. Migliacciによる。原曲はイタリア語である。訳詞はにしむらよしあきによる。以下に「ケ・サラ (CHE SARA)」の全日本語詞を記載する。
「ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ
 僕たちの人生は  平和と自由もとめて  生きてゆけばいいのさ
押さえ切れない怒り  こらえ切れない悲しみ
 そんなことのくり返しだけど  決して負けはしないさ
 
ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ
 僕たちの人生は  平和と自由もとめて  生きてゆけばいいのさ
 泣きはらした夜  迎える朝のまぶしさ
 涙の乾くときはないけど  決して倒れはしないさ
 
ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ
 僕たちの人生は  平和と自由もとめて  生きてゆけばいいのさ
 いつも思い出すのさ  自由のために死を選んだ
 グェン・バンチョイ  ジョー・ヒル  ビクトル・ハラを
 決して忘れはしないさ

 ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ
 僕たちの人生は  平和と自由もとめて  生きてゆけばいいのさ
 うたえ うたえ うたえ    人間のやさしさをうたえ うたえ
明日に向かって力強く  広く高く大きく  

 うたえ うたえ うたえ  人間のやさしさをうたえ うたえ   
 明日に向かって力強く   広く高く大きく」
自由の森学園では、中学1年の音楽科の授業でこの曲をひたすら合唱して覚え、各行事において全校生徒で合唱するである。
他に、自由の森学園の特色として、生徒は教師のことを「先生」と呼ぶことはしない。「○○さん」やニックネームで呼ぶのである。例として、創設者である遠藤豊は生徒から「ゆたちゃん」と呼ばれていたようである。これは、生徒と教師がトモダチのような関係であるということではなく、生徒と教師の距離を狭めている、生徒はその距離で育まれる関係性に深い信頼を寄せることが出来るということを示している。

 

今日はここまでです。この後は、自由の森学園の肯定的部分や模倣点、否定的部分と改善すべきと考えられる点など、自分自身の考えをどんどん書いていこうと思います。とりあえず、今までは文献や自森の教員や生徒、保護者のブログを読みつつ考えをメモしていました。それもここに投稿してみます。

・討論の授業。考えさせる、討論させる。 ex)社会科は知識注入の授業になりやすい。教育実習時の自分の授業を例に。また、文献から生徒談を引用したい。
・授業参加は生徒の自主性に任せるという教師のあり方に関して。自分の考えと『学校をつくりつづける』の生徒の考えを
・行事をやらない年もあるということについて。
→継続していくことで“当たり前”になってしまったり、なくすことで改めて実行する必要性を感じたりするため
・自森の仲間たちはとても他人思いであり、特に“待つ”ということに対しては、とても力がある。(http://jiyuno-mori-oyanikki.blog.so-net.ne.jp/2008-07-20#comments)
→文化祭に行ったときの体験(食堂に並んでいたとき、自森の生徒がその列を無視して食堂に入って行った)。待つことはできない??
・たばこ・暴力・いじめの問題
・行事運営に関して 生徒たちで作り上げている点に関してex)卒業式5時間半は長過ぎ??「話したい人は前へ」と区切らないのはどうなのだろうか。卒業式・文化祭を経験してみて。行事を創る人が毎年変わるから雰囲気も毎年変わる。「前にならえ」がない
・部活動 各地で公演
・学校の敷居が低い。誰でも入れる校舎。授業の見学も自由。開かれている。市民講座が開設されている。
オープンスクール、学校説明会における入学希望者との接し方。また学校をありのまま体験できるようになっている。自森側の配慮。
・入試。友人の話によれば「子どもをふるいにかけることはしないのでは。」しかし、倍率や偏差値、入試問題もある。→これは本当に自森に入りたい人を見極めるためのもの??それならばペーパー試験は・・・・実際に解いてみよう!!
・学校に行かない自由 駅からはスクールバスだが、時間が決まっている。スクールバスに乗れなかったら路バス。最寄のバス停からは徒歩10~15分。しかも、自森坂。これは面倒になるのではないか。スクールバスの本数増加は予算上無理だろう。寮生からすれば学校は徒歩1分。しかも寮の居心地は良いという言葉が多い。『学校をつくりつづける』『下巻』の生徒の声から
・自森の子は正直でストレート。はっきりした態度で垣根がないという。
・大人の敷いたレールの上を何の疑問もなく走り続けた子どもは、自由というルールがない世界でどう動いていいか分からない。規則があること、どんな内容であれ肯定している。自由の森の自由とは??はき違えた自由。自由って面倒臭い??自分で何かしようと思わないと得られるものがないということ。
・仮に自森の教師としたら??親になったら通わせたいか??もっと子どものうちに自森の存在を知っていたら??
・上下関係がない。
・学校の「校」…学生、生徒が集って教育を受ける場所
 学園の「園」…人々が集って楽しむ場所
→自由の森学「園」
・発達障害の子どもたちが健常の子どもと同じ教室で同じ授業を受ける。生徒の社会性の広がり、「障害」の受け入れ。
・PTAがない。役員がない。保護者がみんな学校をどうするのか考えている。
・卒業課題の存在。学習発表会。
・自森の食堂。自然食。食堂のおばちゃんは寮監さんと同じ。親が来たとき、寮生の子どもの様子を伝えてくれる。
・校長職を退いた後、教科教員に戻る。
・外部講師、卒業生の授業が豊富。卒業生が卒業後何年たっても来校する。行事参加、恩師に会うため。
・駿河大と提携して、大学生と同じ授業が受けられるようになっている。
・教員を先生と呼ばないことに関して。生徒と教師の距離の近さ。
・ビオトープ
・特殊な学校だからこそテレビに取り上げられる。それは…??
・卒業アルバム 3期生から橋口譲二「17歳の地図を」原型としている。
・地域との交流 講座から


メモはここまでです。これからこれをもとに書き進めていきます。
今日はここまでです。


1 月
4

新しい自転車を買いました。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
喪中につき、年始の挨拶はご遠慮申し上げますm(_ _)m

年明けは、サークルの友達と飲んでカラオケ行って記憶をなくしました。どうやって帰って来たのか覚えていません。ただ、とっても楽しかったってことは覚えています。帰宅後は悲惨なことになりましたが.....

さて卒論の方ですが、先月は30日まで学校に行って卒論を進めてました。4号館は開いてるんですよっ!!!!!暖房使いたい放題使わせてもらってます。ありがとうございます。ただ、学食やってないのはツライですね....朝買って行くのはあまり好きじゃないんです。その時食べたいと思ったものを食べたいっ!!!!!朝の気分とは変わったりしますからねー。新年明けて、昨日も学校行ってみたら閉まってましたね....三が日でしかも日曜とあればそれは無理ですか。曜日感覚はなくなってました。今日は開いてました。テニス部が活動してました。
今日は、先週アップしてから進めたところまで投稿します。

 

3-3-6.カリキュラム
自由の森学園では、特定の教科に偏ることなく幅広く学び、興味や関心を広げるためにバランスのとれたカリキュラムを組んでいる。次のページに中学校教育課程・高等学校教育課程を表にしたものを記載する。

表1.中学校教育課程(1週間あたりの授業時間数 単位:時間)  2010年度より中学は6日制 (省略) 

表2.高等学校教育課程(1週間あたりの授業時間数 単位:時間)  土曜選択は希望者のみ(省略)

自由の森学園のカリキュラムは、「競争原理を超え、点数序列を排する」という教育思想をもとに、学ぶということの喜びと驚きを授業の基調とし、各教科のカリキュラムを教員一人ひとりが探求することによって専門の教科の持つ本来的な思考価値に重点を置き、その魅力、力を生徒たちと共有する手だてを探る。そして、教材をはさんで生徒たちの中に眠っている「力」を揺さぶり刺激するような授業を作り出し、生徒たちと豊かな時間をつくり上げたいと願い、検討し続け、生み出された教科の典型となる教材によって、一年間の授業を形づくっていくものであるとしている。これは学校という場を、人間を人間として育むための場とし、自由で自立的な人間形成を目指した自由の森学園の教育理念そのものを実現するための手立てとなるからこそ、教員一人ひとりが理由なきものに縛られることなく、創造的で想像的なカリキュラムを生み出す表現者として、自由で自立的でなければならないのである。

3-3-7.教育方針
上の「3-3-4.開校・入学式」でも記したが、自由の森学園の教育方針は「深い知性、高い表現、身のたけの大きさ(等身大)の体験、そして『観』の教育」である。
「深い知性」とは、「組織された授業を通し、生徒たちは人間文化の姿を自分のものとして、これからを生きていく一人ひとりとして自由で自立的であるための学びを獲得していく」 ということである。これを育むことのできる授業を作り出すためには、教員一人ひとりの熱意と学校全体の教育への姿勢が必要となり、その実践は常に問われるものとしてあり、外からの批判を受けながら高め、深めていくことが必要となる。組織された授業とは、教員が教材の持つ世界を十分に予測しながら、教室で起こるドラマの一員として生徒たちの動きをつくり出し、議論を深めていく手だてを持つこと、また、教員が絶対的な存在としてではなく、生徒からの言葉へも注意深く耳を傾け、真理へとともに進む姿勢が不可欠なものであるとされる。
「高い表現」とは、「人間の欲求には覚え、分類し、観察し、思考する頭脳的人間と並んで、リズム的人間があり、行動的人間がある。後者は受身の状態にとどまろうとはせず、事物の状態を変化させ、より美しくしようと欲する。子どもたちや若者たちの行動様式は、本質的にいって抽出することではなく、生産することなのである。彼らをひきつけるのは、概念ではなく感覚的世界の現実なのである。したがって子どもの創造性や想像性および直感を学校生活の中で抑制しないようにし、創造や想像や空想などに向けて子どもや若者たちを解放しようと思うなら、学問的な態度とは反対の極にある芸術的・実技的行動の教育をも推進し、人間的な行動をも形成しなければならない。そしてその役割を果たすのが芸術的・実技的な授業であり、表現教育である。」 と遠藤が語るように、自由の森学園の表現教育の重要性を示している。同じように、元自由の森学園高等学校長であり、美術科教諭であった坂本匡之は「十代の多くの若者が、ミュージシャンになりたい、デザイナーになりたいという表現者への憧れを持つことにも表れていると思うのですが、人間の持つ、生きるための自己確認への欲求は同時に他者への想いをも作り出すのではないでしょうか。この視点へ立ったとき、表現教育の重要性は自明のものとなり、学校教育の中に位置づけられるべきものとしてあります。」 と述べている。上記の表1、表2から見ても分かるように、自由の森学園では、中学から高校まで6年間音楽を必修、高校2年までの5年間美術を必修選択としている。また、音楽・美術だけでなく、その他の教科においても表現することを通して認識を作り上げる取り組みがなされている。
「身のたけの大きさ(等身大)の体験」とは、自然との接触を第一歩とし、恵まれた自然のなかでその自然にはたらきかけて「ものをつくる」「動植物をそだてる」などの体験の教育を充実させると共に、たくさんの人の協力を得て、実際的なしごとの体験の場を用意し、若者たちがそれを通して、大きな目的のもとで自分自身の道を見出すことができるようにする。そのことによって、頭とからだ・知識と感情を結びつけ、他者に出会い、共感を可能にし、自我の発達を助けるとともに、豊かな人間性を育むこと、自然と人間との共生の問題を考えることができるようにする教育を作り出していくということである。
最後の「『観』の教育」とは、高学年になるにつれて、ある事象に対する総合的な展望であり、獲得した諸教科の知識を総合しうる力とされる「観」の形成を目指して、現実の問題を諸教科の知識を駆使して解明したり、その事象に対する総合的な展望を得たりする。そのことによって、教科の総合性を回復し、生徒が自らの人生観・世界観をつくり、自分自身を再発見し、形成していくことを助ける教育のことである。

3-3-8.授業
自由の森学園の授業は「「受ける」ものではなく、教室にいる全員で「つくる」ものであると考え、完成された知識や技術を詰め込むだけの授業は行わない。どれだけ「覚えられたか」ではなく、どれだけ「考えられたか」、世間の動向を「他人のこと」ではなく、「自分のこと」として考えることを大切にしている。自分の考えたことを他人に伝わるように言葉にして伝える、他人の話に耳を傾け、理解しようとする活発なディスカッションを通してひとつのことを多方向から見つめる、多角的な視点を養う」 ことをねらいとしている。こういったねらいの中で行われる授業を、次から科目ごとに見ていきたい。

1)日本語科
自由の森学園では、通常「国語科」と呼ばれる教科を「日本語科」と名付けている。考えたこと・感じたことを他者に理解してもらうように書いたり、文章を深く読むなかで、自分の「ものの見方」を問い直していくことを大切にする。友人や教員と多様な考えを交流し合いながら、一人ひとりが新しい自分を発見できるようになることを目指す。この教科で扱うテーマを表にしたものを次のページに記載する。

表3.「日本語科」で扱う主な学習テーマ(省略)
高校3年の小説の読みの授業として、井伏鱒二の『山椒魚』を中心的な教材として位置づけ、それを卒業課題の「自画像」に繋げている。自由に生きること、他者と共生すること、高校生活の想い出や感想を述べながら自分を発見していく。自由の森学園日本語科教諭の星野人史は「日本語科のカリキュラムは、卒業課題の「自画像」のために準備されていると言っても言い過ぎではないだろう。とりわけ、高校1年の「一番古い記憶」、高校2年では「自分スケッチ」「徒然草・序段の自分訳」「文章地図」などは、高校3年の「自画像」と密接なかかわりをもっている。これらの文章は、直接自分自身に向かい合うことによって書かれるものである。それと同時に自分自身に対しても向けられたメッセージである。いずれにしてもそれらは極めて主観的な世界から生まれた。それをできるかぎり客観化し、普遍化する営みが表現であるとも言える。」 と述べている。

2)社会科
 社会科では、いま、日本や世界はどうなっており、人間らしい生き方や社会はどうしたらつくれるのかというような問いに向き合いながら「社会の見方・考え方・かかわり方」を培う。平和・平等など人類的課題について、自習教材や対話・討論、またレポートづくりを通して、単に「暗記」ではない、自分で「考える」学習をすすめている。扱うテーマは次の表の通りである。

表4.「社会科」で扱う主な学習テーマ(省略)
高校3年の社会科は、現在の日本社会と世界を対象にした学習であり、政治・経済・社会・文化等を取り扱う。一般的にこのような分野は「現代社会」「政治・経済」という科目に分類されるが、自由の森学園では「総合社会」としている。これに関して、自由の森学園社会科教諭の上野文康は、「「現代社会」や「政治経済」という従来型の社会科の学習は、政治は政治として、経済は経済として、分離して扱うスタイルが根強い。また、一つひとつの項目の間を有機的に結びつけるという意識的な努力は働きにくいスタイルでもある。政治と経済の結びつき、さらにはそれらと人間、社会のつながりをとらえていこうとする意識はきわめて弱いものだ。それは専門分化した学問や「公民」的分野ということばに表現される中等教育行政の姿勢とも関わるだろう。また社会科が思考の教科としてではなく、知識注入の教科か知的啓蒙の教科として長く機能してきていることにもよるだろう。」 と考え、ねらい、内容としても高校3年間、もしくは中高6年間の総まとめにあたり、また、政治・経済・社会・文化等のヨコ軸のひろがりを学習の対象にすえていることから、「総合社会」として位置づけている。
一般的な学校での社会科もそうであるように、自由の森学園の社会科も、たびたび教師の持っている結論に導こうと、解釈を押しつける「ミッション(布教)」になってしまいがちであるという。社会科教諭はこういった授業にならないように、教えるべき事実はしっかり教えること、また、教師の解釈を与えるのではなく、生徒が様々に価値判断できるものを与えることを意識する。そして、活発な討論、生徒が自ら興味を持ち、調べ、学んでいく授業をつくりあげる努力をしているという。

3)英語科
英語科では、英語を学び、そこに含まれる文化や考え方に出会い、異なった価値観を知ることにとどまらず、英語を学ぶことで母語である日本語の世界を豊かにし、自らのことばを豊かにする。そして、他者を知り、自らの世界を広げながら、自分の言葉で表現することを目指す。扱うテーマは以下の通りである。

表5.「英語科」で扱う主な学習テーマ(省略)
自由の森学園の英語科は、中・高を通して、英文を声に出して読むこと(音読)と、その英文を暗記して言えるようになること(暗唱)を大切にしている。それは「英語で自分の気持ちを相手に伝えるとき、やはり頭の中に英語がたくさん蓄積されている必要がある。その蓄積を効果的にする一つの方法が、たとえば英文の暗唱だと言える。もちろん、個々の単語や英文を暗記することも大切であるが、まとまった英文をそっくり暗唱することで、その英文に盛り込まれている英語的な考え方が身につき、英語のセンスも身につくことになる。」 という考えからである。
中・高の各学年では、The Bird and the Bread(中1)、My Future job(中2)、Gandhi’s Letter to His Son(中3)、チャップリンの「独裁者」の演説(高2)、マーチン・ルーサー・キング牧師の演説(I Have A Dream 高3)82というような教材を用いて、音読・暗唱に取り組んでいる。また、生徒自身が自分の学んだ結果がわかり、新しいことがわかった、世界が広がった、できるようになったと実感させるため、自分への自信を培ってほしいという願いを実現するために、朗読(The Little House 高1)、役割読み(Mr. Fox and Mr. Rabbit 高2)、演じる(A Pot of Poison 中3、The Big Race 中2)、テキストを作り直して発表する(A Bussy Day 中2、The Planets and the Moon 中2、Excuses! Excuses! 中2)、英語による自己表現(英作文、英詩等)、英語による要約、レポートなど を取り扱っている。

4)数学科
数学科では、数学の教材から得られる知識、過去の数学者の思考過程を追体験することによって得られる発見・知恵、また、数学のもつ共通の土台を感じることなどから「現実世界への新しい見方を提供してくれる」という視点を生み、そして数学を経験することによって厚い「ものの観かた」を獲得することを目指している。各学年の扱うテーマは以下の通りである。

表6.「数学科」で扱う主な学習テーマ(省略)
数学はしばしば、生徒たちの「現実に暮らしていく上では、四則計算以外のことは必要ない」という学習観、数学観と衝突する。このことから、自由の森学園では「私たちが数学の授業でめざすものは『現実世界への新しい見方を提供してくれるメガネ』としての数学を手に入れることである。また、そのことによって、生徒たちが、数学とのかかわり方を見直したり、変えたりして、数学を学んだことを生きていく力のひとつにしていくことである。そのために、私たちは、生徒たちの学びの状況を『できる、できない』のものさしだけで見ることをやめ、生徒たちに気分、感性、心情や生き方と数学を学ぶことがどう交わっているかに深く眼をむける努力をする」 と掲げている。自由の森学園数学科教諭の増島高敬は「数学を通して世界が新しく見えてくる様々な「メガネ」は、「生きていくのに直接役立つもの」であるより以上に、「いかに豊かに生きていくか」の欲求に応えるものとして、つまり「文化」としてある。音楽や絵画や演劇やスポーツや……と同じように、私たちの生き方をより広く豊かにするものとしてあるはずなのだ。」 と数学の価値を述べている。教員は、数学が人間成長のどの部分にかかわるのか実践的に追求し、授業の成功、失敗の側からカリキュラムや教材を検証していくことを意識し教材研究に努めている。

5)理科
理科の授業では、周りの自然と歴史的、科学的に対話をして学び、そして理解と問いを持って自分たち自身の自然にもその目を向け、自然と自然、自然と人間の関係について考えていく。自然との対話を一人一人が創造的につくって行くことを大切にしている。主な学習テーマは以下の通りである。

表7.「理科」で扱う主な学習テーマ(省略)
当時自由の森学園高等学校長であり理科教諭であった遠藤豊は、「理科の授業で目指すものは自然への新しい見方、考え方、働きかけ方を提供してくれる「めがね」としての物理学や化学や生物学や地学など自然科学の基本的な事実・法則を生徒たちの手に入れさせることであるということができる。また、そのことによって生徒たちがこれらの諸科学とのかかわりかたを見直したり変えたりして、これらの諸科学を学んだことを生きていく力の一つにしていくことであるということもできる。したがって私たちは、生徒たちの学びの状況を、単に「できる、できない」のものさしだけで見るのではなく、生徒たちの気分や感性、心情、生き方などと、これらの諸科学を学ぶこととがどうかかわっているのかということに深く眼を向ける努力をしている。」 と述べていた。この遠藤の教育方針は、自由の森学園の理科教諭に受け継がれ、授業がつくりあげられている。

6)音楽科
音楽の授業は、一人ひとりが持っている楽器である「声」を集めた、合唱を中心に行われる。その中で、表現することが自分自身や他者との大切な営みであるということを実感し、自分の想いや考えを実現できる力の一部になるようにする。中学1・2年では、歌うことの喜びを感じることで、内面的な豊かさを育くみ、中学3年や高校では、ア・カペラ合唱や混声四部合唱などにより、さらに豊かな声の表現を追求していく。
授業の中身は、教員がそれぞれのパートの音を歌いながら伝え、生徒たちは歌いながらそれを自分のものにしていくことの繰り返しである。効率が悪く、面倒な合唱のつくり方であるが、その中にこそとても大切なことが詰まっているのだと音楽科教師たちは考える。パート別に分かれることはせず、教員と各パートの生徒たちのやりとりにクラスの全員が立ち会うことに価値を置いている。一つの音楽をくり上げていくプロセスを全員が共有することこそが大事なのである。他者の音に耳を傾ける時間の中で、生徒たちの中に湧き上がってくる「表現したい」という想いがつくられていくことで「自由の森合唱」が生まれてくるのである信じて、音楽科教師たちは授業をつくり上げているのである。

7)美術科
美術の授業は、木工・染織・絵画の3分野が設定されている。木工では、原木から手道具を使って器や椅子などを制作していく中で「かたち」を追求し、染織では、草木で染めた糸でマフラーなどを織っていく中で「色や質感」を追求する。また、絵画では、「物・事と向き合う」ことをテーマに、「描く」という表現を追求する。各学年の学習テーマは次ページの通りである。

表8.「美術科」で扱う主な学習テーマ(省略)
上の3-3-7.でも述べたが、自由の森学園は遠藤豊の方針によって芸術教育に力を入れている。遠藤は、芸術活動や作業そのものは「それぞれがそれ自身の世界をもち独自の表現形態をもっている。そして創造性や想像、空想や幻想に向けて子どもや若者たちを解放する教科として、自由の森学園では重要な役割を果たしている。」 と述べている通り、美術科教師は各分野で、生徒たち自身が持ち合わせている創造性・想像性を遺憾なく発揮できる授業を展開している。

8)保健体育科
体育の授業では、表面的に「できた・できない」と優劣を測るような授業は行なわず、「座る・立つ・歩く・走る・投げる」という基本的な動作の中から、“からだ”と対話する力を養うこと、“からだ”の感覚を学び取ることを目的に、日本に古くから伝わる踊りや太鼓、器械運動、陸上運動、ボール運動などを中心に進めていく。各学年の学習テーマは次ページの通りである。

表9.「保健体育科」で扱う主な学習テーマ(省略)
自由の森学園の体育科は、“からだ育て”と位置づけている。“からだ”とは、“心身一体であり、命や意識、たましいの存在するエネルギーの場”である。そういった視点からとらえると、体育は単なる一教科ではなく、全教科の基になるものととらえることができ、また、死ぬまで生きぬく“からだ”を教え育てることは、教育そのものであると考えられる。自由の森学園体育科教諭は、「「体育」という教科は、“体(からだ)を育てる”教科である。その“からだ”は子ども自身のからだである。したがって、子どもたち自身が自分自身のからだの主人公になり、自らのからだの変革の主体者として、人間の肉体と精神、それをつなぐ感覚の、たましいを育てる教科である」と考えている。そして、「子どもたちの自らのからだへの認識を深めていくために、授業の課題に取り組んだ結果から自らのからだを見直していけるよう、教材を選択したり、授業を組み立てたりしていこうと思っている。つまり、一時間一時間の授業の中で一人ひとりの子どもが、自分のからだの内側を実感し、認識を深め、自らからだ(体)を育てていく主人公として、子どもが自立していくような授業を創りたいと思っているのである。また、私たち自身が、見えない子どもの内側を見ることのできるような教師になりたいものだと思っているのである。」 といった意識のもと、授業を展開している。

9)人間生活科
人間生活科の授業は、食・性・人とのつながりといった身近なテーマから、五感にたずねながら学んでいき、豊かに生きていくために必要な知識や経験を積み上げていく。商業的な情報ばかりがあふれる消費社会で、自分を持って心地いいものをつくり出していくには、何気なくそこにあるものの豊かさと知恵に気づく力を養うことが大切である。各学年の学習テーマは以下の通りである。
表10.「人間生活科」で扱う主な学習テーマ(省略)

10)情報科
情報科ではコンピュータを表現の道具の1つとして利用し、人に見られることを意識した作品を作る。主にチームで行われ、コンピュータに関して初心者、上級者関係なく、それぞれが役割を持って取り組む授業を行う。高校での学習のテーマは以下の通りである。
表11.「情報科」で扱う主な学習テーマ(省略)

 

未だに使い慣れていないせいか、表を上手く載せることが出来ないので割愛させていただきました。
今後は、評価・通知表、選択講座、行事、規則等について触れていこうと思います。仮提出までもう時間がないので焦りつつ頑張りたいと思います。
ではでは、今年もよろしくお願いします。


12 月
28

2009 Last Up

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。

今日は東京体育館までウィンターカップを見に行ってきました。ウィンターカップとは、毎年この時期に行われる日本の高校バスケットボールの大会のことで、正式名称が「全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会」というそうです。今日は女子の決勝と男子の準決勝が行われました。高校生の頑張っている姿にものすごく感動しました。楽しそうだなーと羨ましくもなりました。私は高校時代に部活はやっていなかったので、それに後悔をおぼえたり....なんだか胸がアツくなりました!!!!なんか、いろいろ頑張ろーと思えました。はい。

肝心の卒論ですが、前回提出時からあまり進んでいません。クリスマスがあったり、サークルの後輩たちと新三郷のスポッチャに行ったり、同じ代の女子で新越の食べ放題に行ったりと有意義な冬休みを過ごしてしまっていました。明日からは特に予定はなく、学校のパソコンを長期で借りているので、それを持って学校で進めたいと思います。

とりあえず、進んだところまでをアップします。

以前提出したときは、「3-3-2.入学試験」だったのですが、時期的な観点から「3-3-2.教員採用試験」とし、[3-3-3.入学試験」と修正しました。


3-3-2.教員採用試験
自由の森学園の教員の採用試験は、1984(昭和59)年の7月から10月の期間で論文、面接、授業の三段階を経るかたちで行なわれた。
最初に、応募者380人全員に「私は自由の森学園の教師になったらこういう教育をしたい」という論文を400字詰め原稿用紙15枚程度書いてもらい、7月末日までに提出させた。この論文は自由の森学園の設立委員の人たちが読んで約100人にしぼった。
次に、8月の末に3日間かけて面接を行なった。ここでは「今日の学校教育の問題点をどのようなものとしてとらえているか、とくに点数主義の教育がどのような仕組みのものとしてできあがっているか」「そのなかで教師は、小権力者として子どものまえに立ちあらわれる必然性があることを、どのようにとらえているか」「自分の専門の教科の内容をどれだけ深くつかんで、自分のものにしているか」 ということを問うた。面接では約100人から約30人にしぼった。
最後に、9月末から10月末の間に約30人それぞれが自分たちのやりたいテーマを選んで、授業案をつくり教材を用意して、実際に生徒を相手に50分間の授業を行なった。ここでは「教師が自分の持っている知識を教えこむことを急ぐより、生徒の発言を手がかりにして、生徒の考えの底にあるものを感じとり、生徒がもっている問題を探りだし、生徒の問いを明らかにして授業をすすめていこうとしているかどうか」「授業をすすめているときに、生徒からのさまざまな発言や問題提起に対して、自分の考えや知識を急いで押しつけるのではなく、その生徒のいいたいこと、考えていることをさぐりながら授業をすすめることができるかどうか」「教師自身の考えや知識をそこで相対化できる資質をもっているかどうか」「教師がひとりひとりの生徒と対等な人間として向かいあう感性をもっているかどうか」「ことばを使ってイメージを呼び起こすように生徒に語りかけ、自分のことばで生徒のからだに働きかける表現力をもっているかどうか」「授業で生徒たちといっしょに考え、生徒の考えを発展させたり、生徒に新しい視野を獲得させたりするような授業をすすめようとしているかどうか」 という観点から見ていった。この授業の後には、授業を行なった教師たちと授業研究会をとり行った。
以上、3つの段階を経て最終的に約20人の教師が採用された。
3-3-3.入学試験
1985(昭和60)年2月4日・5日に中学校、7日・8日に高等学校の初めての入学試験が行われた。中学の場合、定員114名に対して500名近い志願者、高校の場合も定員240名に対して1000名近い志願者があったため、結局、中学校を一クラス増やして約160名に、高校を二クラス増やして約320名を受け入れることとなった。志願者の多くは、教師や親に勧められたというのではなく、自分の意志で自由の森学園を見つけ出し、選び、ときには親や教師を説得して入試に挑むという生徒が多かった。また、学校のなかで自分が何かを学んだという実感がもてなかったり、物事を深く考える子どもが点数主義・管理主義の教育を強めている学校の体制が体質に合わなかったりして、登校拒否をしている生徒が多く、彼らは自由の森学園で “本当に学ぶ”ということの手ごたえを感じ取りたい、中学・高校時代というかけがえのない自分の“いま”を精一杯生きたい、生きている実感を掴み取りたいと、自己の甦りの契機を掴もうとしたのである。
遠藤たち学園側が入学試験で大切にしようと考えたことは、「子どもにとってなにか目覚める貴重な出会いの場であったり、いい教育体験であるようにする」「2日間の経験を子どもにとって意義のあるものにしたい」 ということであった。そこで、テストの点数という一元的な尺度で子どもたちの力をはかるのでなく、もっと多元的な価値基準で子どもたちの可能性を見ていくことで、いろんなタイプの、面白い生徒が入学できるようにするとし、4つの入学試験の項目を設定した。
1つめは、第一日目の午前中に行なわれたペーパーテストである。中学校では国語・算数の二教科、高校では国語・数学・英語の三教科について、ごく基本的で、ごく普通に子どもたちが出会っている問題と、それについて、「自分がそうした理由」について説明したり、与えられた問題を解くことだけでなく、「問題をつくる」という課題を出すことにした。ただ、一題ぐらい根本的な意味を問う問題を出題した。これは、生徒がこの学校に入ったときに、教師が教材を深く研究して、どの子にもわかる授業をしていったときに、なぜそうやるのかということを自分で考えて納得していく力をどの程度もっているかを知るためである。このペーパーテストを実行した遠藤は「いまの学校の教育が、子どもの深いところにしまいこまれている力をひきだし、子どもの「なぜという問い」を発展させることで学ぶことへの興味を育てるより、そうしたすぐれた力をおさえつけているほうが多いということを深く考えさせられました。」 と述べた。つまり、当時の点数主義教育のなかで、なぜそうやるのか根本的なところを自分で考えて納得する“わかる子”ではなく、反対になぜそうやるのか根本的なところが分からない、“わかる”ことの大事さと“わかる”ことの喜びを失ってしまい、先生から言われた通りに行うことはよくできる“できる子”を生み出す教育を実践している学校が多いということを実感したのである。このテストの評価と判定については、一科目でも90点以上とっていれば中学・高校とも合格、また、平均的によい生徒は、高校の場合は三科目で220点以上あれば合格、中学の場合は二科目で150点以上あれば合格とした。
2つめは、第一日目の午後に行なわれた、授業を受け、その後にその授業の感想文書くことである。この項目を設定したねらいは、「授業を受けることによって、ペーパーテストでは見えなかった子どもの力を見ること、子どもたちがどれだけ深く自分の問題として授業のなかみを受けとめているかを見るということ。そして、自由の森学園の入学考査そのものを、子どもにとって“授業で学ぶこと”を体験する機会になるようにしたい」 という願いのもとである。
中学校では国語・理科・数学・社会の四教科から子どもたちが好きな科目を選び、その授業に一時間程度参加した。中学で実際に行なわれた授業内容は以下の通りである。
「国語――伊東信夫教室「ことば遊びと『早かご次郎助』の読み」
 数学――松井幹夫教室「松井幹夫といっしょに立体づくりの授業をつくりましょう」
 数学――木幡寛教室「地球(球面)と地図」
 数学――増島高敬教室「ピックの定理」
 社会――塗矢邦夫教室「飯能の歴史と地理」
 理科――松本勇志教室「気体について」」
授業は、子どもと一緒に親たちも参加した。それは、自由の森学園に入学を希望する子どもも親も、決められた規格化した知識を解説されて覚え込まされるような授業以外の、自由の森学園の授業のような、具体的な教材を使って子どもと一緒に考えて新しい世界を切り拓いていくような授業はあまり体験したことがないのではないかという考えから、この入学試験が自由の森学園の授業を体験するのに良い機会であるだろうということ、また、自由の森学園の授業を体験することが子どもにとっても親にとっても、自由の森学園をつくっていくうえでも大事なことであると遠藤は考えたからである。
高校では入学希望者数が800人近くおり、教室ごとに分かれて授業を行なえる会場がなかったため、遠藤が「学ぶということ」と題する講話を行なった。その講話内容を大まかにまとめると、遠藤の考える人間らしい人間、つまり、賢くて感受性豊かな、健康な人間に育つことを助けるいとなみとして教育はある、そのために学ぶのであるということ。その根本問題として、ことば、道具、食べものの3つの観点から、人間とはなにかということ。他の動物に比べて、青少年時代が長く、それに伴って長い教育期間があるということ。学ぶとは、できあいの知識で創りあげられていた自分を打ちこわして、新しい自分に気づき、新しい世界を発見し、新しい考えを生みだしていくということであること。実際のできごとのなかから、自分の考えをとおして、つまずきながらも真理に近づいていくから、その過程は緊張をはらみ、新しい世界が拓けるよろこびと感動が、学ぶことのなかにまき起こってくる のであるということ。文学・美術・音楽を学ぶこと、芸術活動をすることには、自分を表現し自分と向かいあうことで、自分のなかにいる自分に気づくという意味をもつということ。漢字や英単語などの知識を覚えるにも、組み立てや知識の源を追究することによって楽しく学べるということ。以上のようになる。
中学・高校ともに授業・講話を受けた後に、目安として一時間程度の時間を設け、感想文を書かせたが、このとき時間で打ち切ること、枚数の制限をすることはしなかった。この感想文の評価と判定は、授業を行なった教師と、それを見ていて状況と進行をつかんでいる教師がチームになって行ない、A○ABCと分け、A○の生徒はペーパーテストがよくなくても合格とした。この評価の一番の着目点は、この試験のねらいである「授業の中身をどれだけ深く自分自身の世界として受けとめているか」ということであった。このことから、教師の投げかけた授業・講話の中身を自分自身の問題として受け取って、自分を問い直したり、新しい自分に気づいたり、新しい問いを出したりしているという点を大事にしていき、授業の様子を客観的に上手に書いたものや、授業の順序を覚えていて、それを忠実に再現するという書き方は、文章構成が優れていれば考えには入れるが、高い評価を与えるということにはならなかった。
入学試験項目の3つめは、第二日目の午前中に行われた表現活動である。美術・音楽・体育の3つの部門から好きなものを一つ事前に選び、当日その場で表現するという方法をとった。美術のテーマとしては描画と挿絵があった。描画は水彩画を基本としたが、実際は鉛筆での細密画、コンテによるスケッチ、切り紙絵などという描き方があった。挿絵に関しては詩を読んで、自分の好きな場面の挿絵をつけるということを行なった。描く枚数に制限を設けなかった。音楽では、器楽演奏と歌唱をテーマとし、体育では、踊りとマット運動をテーマとした。音楽と踊りの場合には、事前に自分の選んだ曲について、その曲から何を受けとって、自分はそれをどう表現したいのかということを説明してもらい、教師はその生徒が表現しようとするものを見るようにした。マット運動では、教師が一時間の授業を行ない、そのあとでひとりひとりにその授業で学んだものを発表してもらうという形式をとった。この表現活動の評価・判定については、授業の判定と同じく、A○ABCと四段階に分けA○であればペーパーテストの点に関わらず合格とした。表現の才能に恵まれた子どもたちばかりを合格させるのではなく、子どもたちがそこで表現したいものがどうあらわされているか、教師にとってうまい・へたを超えて、いっしょに授業をつくってみたいと訴えかけるものをもった表現であるかどうか、それを評価基準 とした。
入学試験最後の項目は、第二日目の午後、表現活動の終わった生徒から順に行なわれた面接である。生徒は5人で一グループをつくり、教師は2人から3人が組んで面接に当たった。一グループ、約30―40分の時間をとった。 面接で全員に聞いた必須項目は「どうして自由の森学園にはいりたいと思ったのか」ということであった。この問いから、子どもたちは自身の話やいまの学校状況、また、さきに行われた3つの考査で不満足であった点等を話した。評価と判定は、自由の森学園で学ぶことをどのくらい強く希望しているかを中心に、A○ABと三段階に分け、A○であれば合格となった。
以上の4項目によって入学試験が行われ、評価・判定を下したが、これだけでは平均的な評価を受ける子どもは不利になり、学級編成から考えても、さまざまなタイプの生徒がいる方が好ましいということで、4つの項目で合格できなかった生徒のなかから抽選で合格させた。その数は全合格者の8%程度となった。
この入学試験では、「障害をもった子どもに対してまったくなんの差別も設けない」「その子が自由の森学園で学びたい意欲をもっていたり、授業やペーパーテストや表現や面接のなかでよい評価のものがあれば、それで入学できるということになんのかわりもない」「どの子も同じように受験して、授業を深く受けとめる力をもっていたり、自分自身の表現をもっていたりする子どもであれば、なにかの障害をもっている子であるとか、障害をもっていない子であるとかに関係なく受け入れるようにしたい」 という方針から、障害のある子どもと、健常な子どもを分けて合格・不合格を判定するという方法はとらなかった。実際に、この入学試験を受験して入学した子どものうちには、障害をもった子どももいたという。
3-3-4.開校・入学式
教員採用試験と子どもたちの入学試験を経て、1985(昭和60)年4月13日に飯能市民会館の大ホールで自由の森学園の開校式である、第一回目の入学式が行われた。ここでは、多くの合唱や演奏が行われた。また、遠藤が新入生への挨拶として、自由の森学園の教育である「深い知性、高い表現、身のたけの大きさの体験、そして『観』の教育を」についての解説や「心のやさしさ」をもった人間になって自由の森学園を教師だけでなく、入学した生徒全員が協力してつくりあげていこうという話をされた。そして、教職員の紹介、新入生の呼名、新入生からの短い挨拶などがあった。
3-3-5.寮生活
生徒の寮生活は、入学式が行われる2日前の4月11日から始まった。全入学者612人のうち約200人が寮生となった。開校当初の自由の森学園の寮は、滝の上寮・男子60名、白石寮・男子42名、校地内の女子寮、南寮・北寮・西寮で101名 の5つであった。寮生活を始めたときには、起床就寝時刻や食事の時間といった基礎的なきまりはあったものの、細かなきまりというものを設けておらず、なかには煙草を吸ったりする生徒も存在した。学園側は、寮で生活を送る生徒や寮の教師と討議して自分たちで生活のルールをつくりあげてほしいというねらいがあった。そして、2か月という時間をかけて各寮、以下のようなルールを築いたのである。
「【1=日課】……各寮によって多少のちがいがあります。
起床――6時30分
朝食――7時→8時……登校まえに部屋ごとに掃除
登校――8時20分→8時50分
夕食――6時30分→7時30分
自学自習―8時30分→10時
就寝――10時→10時30分
消灯――11時
【2=外出】
夕食までを原則とする。
夕食後、どうしても外出の必要がある場合はかならず寮監にその事情を伝え、了解を得ること。
【3=外泊】
外泊は通常、土曜のみとする。その場合、寮監にその理由を伝え、許可を得ておくこと。
【4=訪問】
認められている寮についても時刻を夕食までとし、会う場所は、各寮で決められている場所とする。外来者の宿泊は認めない。
【5=寮生のアルバイト】
原則として認めないが、やむを得ない事情がある場合は、本人・寮監・担任・親のあいだで相談してきめる。
【6=その他】
バイクは寮・学校などで使用することを禁じている。」
また、遠藤は「自由の森学園の寮生活が目的としているものは、他人に対して柔軟にふるまい、やわらかい自己主張をもち、しなやかさをたもち、そのなかに有機的な一貫性を守るという、そういう資質を生みだす、共同性の探求をこそ大切にしている」 と述べていた。


以上です。今後は開校後の自由の森学園の教育にもっと触れていきたいと考えています。

今年最後のブログアップでした。
みなさま、今年は大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。
それではよいお年をー(*・∀・)ノ"


12 月
21

M-1

Posted by a6hootazemi in おっくん, 未分類

お疲れ様です。おっくんです。
昨日はM-1がありましたね。みなさんは見ましたか??私はがっつりばっちし見ました!!!!!敗者復活でNON STYLEが選ばれたことに鳥肌が立ち、ハライチのネタに涙を流しながら笑い、笑い飯のネタで大会委員長の島田紳助が100点をつけたことに驚き、優勝者に納得し......という感じでした。昨日のM-1を見ていて思ったのですが、あれは一般のお客さんが面白いと思うネタというより、審査員である先輩芸人が見て「漫才」の完成度というか、基準点、枠組みにどれだけハマっているかを評価しているのではないかと思いました。やはりプロと素人の感性は違いますからね。専門家視点では王道漫才をやり通したコンビが優勝なんですよね。個人的にはハライチ応援してました。タメですし。


はい、では前回発表(提出)したものをアップします。

第3章 自由の森学園設立から現在までの流れ
3-1.はじめに
私立自由の森学園は、1985年に創立された中高一貫教育の学校である。創設者は、私立明星学園小中学校で校長職を担った遠藤豊である。
この章では、自由の森学園の創設者である遠藤豊が自由の森学園を創立するに至った経緯や創設後の学園の教育方針について論じる。

3-2.創設者遠藤豊が自由の森学園創立に至った経緯
創設者である遠藤豊は1925(大正14)年、栃木県矢板市に生まれ、1947(昭和22)年から栃木県矢板中学校、船生中学校教諭、宇都宮大学付属学校教官などを勤めた。この頃は、子どもたちの人間的な成長を助けるためには、自然や社会や人間に対するしっかりした、認識を育てることが何よりも大切であるとの考えから、そのための教育内容や授業の方法などの実践・研究に力をつくした。 その後、1962(昭和37)年に東京都三鷹市にある私立明星学園の教諭となったのだが、ここで授業のあり方に疑問を抱き始める。明星学園の「教科の内容とその組み立てをはっきりさせる」という教育の中で、子どもに一定の知識や概念を出来上がったものとして伝えることから、直観力や想像力を豊かにしたり、自分自身の考え方や判断をつくりあげたり、感受性をゆさぶり楽しさや感動を呼び起こし、興味を生みだしたりするなどの効果が直線的には出てはこず、それどころか、大きな学習疲労と倦怠を生みだし、みずみずしい感性をマヒさせ、退屈という病気を生みだし、子どもを徹底して受け身にしていた。遠藤はこういった状況を打開すべく、たんなる羅列的な知識のよせ集めを教えるのではなく、できるだけ広い展望を与える基本的な原理を教材として選び、教師がその内容を深く捉えて自分のものとした上で、それを子どもの認識のスムーズな発展を保証できるような構造をもった、質の良い教材として作り上げる。教師はそれを使いこなして子どものもつ内面世界にはたらきかけ、試行錯誤を経ながら、既成の思い込みやドグマになっていた知識を破砕して、子どもが深いところに抱いている問題をあらわにしたり、追究を発展させることで、内面世界を広めたり、深めたりして、ついには新しい視野を拓いていくというような授業をつくりだしていくことが必要であると考えた。
遠藤が明星学園の校長に就任したのは1975(昭和50)年のことである。その3年後、1978(昭和53)年4月に、明星学園の小中学校では「点数による序列化廃止」に踏み切った。これは遠藤が理想とする教育を実践する契機となった。遠藤は、「テストや点数が機軸になって動いている教育というものを徹底的にとらえなおさないかぎり、受け身になっている子どもを立ちなおらせ、生きいきとした感性をとりもどし、自立や自由への意志を育てることはできない」 と考え、教師が死んだ知識、固定的な知識を解説、注入して、子どもを百科辞典に手足をつけたような人間にし、子どもたちはその知識をテストで再生し、その正確さにつけられる点数や成績という物差しで人間をはかろうという教育から、子どもひとりひとりが喜んで勉強し、それぞれにもつ異質で多様な能力を伸ばしていくという本来の教育、つまり、「子どもが深く学ぶことをとおして自分の内面の世界を広めたり深めたり、あるいは子ども自身の問いを発展させることで新しい視野を拓いていくことを助けたりする」 過程で、「イマジネーション(想像力)の豊かな、クリエイティブ(創造的)なものをもった、表現力の豊かな子どもを育てる教育をつくるんだ」 と決意した。そして遠藤は「子どもといっしょに考えたり、あるいは、子どもが考えやすいようにしたりして、子どもたちが試行錯誤を経ながら自分自身の発見として一般化をなしとげるような授業をつくらないとだめなわけです。(中略)教師はどんな内容であれ、わかりきっていると思う内容であっても、それをもう一度、自分に問いなおしてみないといけないですね。そして、その知識の根拠、それ自体を明らかにしていかないといけない。そうでないと、子どもの多様な考えを引きだし、相互に結びつけ、子ども自身の発見による高いレベルの一般化をなしとげていく授業はつくれない。(中略)子どもたちが自分自身で知識を見いだしていくような授業じゃないかぎり、子どもたちが人間の可能性として深いところに潜ませている多様な能力をのばすことはできないでしょう。」 という考えのもと授業を担当するすべての教師に、基本的なことをより少なく、より発生的な方法で教えるように「あんまりたくさん教えるな」と呼び掛けた。「発生的な方法で教える」というのは、子ども自身が知識の発生過程に参加する授業をつくるということである。そういった授業実践の結果、子どもたちは以前とは大きく異なり意欲的になっていった。授業での追究力や自分の表現をつくること、行事への主体的な取り組みなどの日常の行動が変容していったという。
しかし、明星学園の教師全員が遠藤の考えに賛同したわけではなく、一部には「授業とは教師のもつ規格化した知識を解説し、子どもに覚えこませることである」と思い込んでいて、今までの教員生活の中で培ってきたことから頭を切り替えることができない教師もいた。こういった教師は「自分の持っているものは絶対であって、自分がこんなに一生懸命に教えているのに、子どもがついてこないのはその子がおかしい」という考えがあり、子どもたちがどんなに素晴らしいエネルギーを発揮し、豊かな表現を作り出したとしても「成績の悪い子どもはダメだ」としか考えられず、点数以外の価値で子どもを見ることができないのである。それは教師の原罪ともいうべきものであり、教師の内なる序列主義の最も具体的な現われである。点数による序列化を廃止した後の教師からすれば、子どもたちをテストの点数や成績で追いやらず、授業の魅力だけで意欲を出させようとなると、大変骨の折れるしごととなるため、知識の解説、注入に逃げざるを得ない教師が存在し、結局反点数教育の世界を実現するというしごとは、中途半端なものでしかなかったのである。
また、点数を廃止した2年後、1980(昭和55)年の11月からは、明星学園の中学校から高等学校に行くときに、内部進学のためのテストを実施して、一定の点数をとれないものは高校への進学を認めないという「内部進学問題」が高校から提案され、実施されることになった。これを高校側が持ち出した理由として、遠藤は二つ考えられると述べている。一つは、「高校の教師にとって点数のない教育で育った生徒たちとの対応は苦しいものであった」ということである。点数のない環境で育った子どもたちは意欲的であり、言いたいことははっきりと言う性質であるため、そういった子どもたちとの対応は、容易ではないのである。遠藤は「点数を廃止して1年たった時期には、自分を発見した生徒たちがたくさん出てきました。なぜ学ぶのかという問いを深く追求したり、充足感の感じとれる授業や自分たちの手でつくる授業などにはのめり込むけれども、退屈な授業やおしきせの行事などには強い否定をしたりする純粋な生徒たちですが、そういう生徒たちは伝達型の教師の手にはおえにくいものです。教師が規格化した知識を解説して、覚え込ませるような定型化した授業にそっぽを向いてしまう、いろんな動きをする。まして、知識の所有量のちがう、それぞれ異質な生徒を対象に授業を成立させるには、どうしても発生的な方法で授業をつくっていかなければならないのに、教科の内容の構成にしても、そういう質の授業を成立させるにふさわしい、すぐれた構造を見いだすまでにはいたっていないわけです。授業の研究にしても、そのレベルに達していない。そういう状況の中では教科の授業は際限なく個別指導に分解するという方向をたどらざるをえないのです。そのような対応に苦しんだ結果が内部進学テストで点数のとれない生徒を切り捨てるという方法をとらざるをえなかった要因になった」 と捉えている。もう一つの理由として、「それは単なる教師からのみの要求ではなく、学園側からの要求としてもあった」20ということである。遠藤は「これからの高校生の減少期にたいする対応策として、明星学園が点数のとれる成績のいい子を育てることで評判をよくして、偏差値の高い生徒が集まるようにして学園を繁盛させていこうと考えるのは当然だといってよいでしょう。点数のない教育を実践して、人間を人間として育てる教育の事実をつくりだすことで学園の教育を発展させていくなどということは、よほどの見とおしと自信のないかぎりできないことかもしれません。」 と捉えている。
この内部進学テストは、明星学園の日常の教育と子どもたちに大きな影響を与えた。それまで、自分の納得いくまで深く突っ込んでものを考えたり、自分を豊かに表現したりしていた子どもたちは、テストの成績によって高校への進学が決まるということで、テストの点とりのための勉強をし、教師自身も朝の学活や放課後、授業の合間でさえも絶えずテストをやったり、練習問題でテストの練習をしたりするようになってしまったのである。
また、1961(昭和36)年から毎年行われていた、全国の教師や父母に「明星の教育」の実際を公開する研究集会である「公開研究会」も1982(昭和57)年から中止となった。公開研究会は毎年11月に実施され、9年生(中学3年生)が実行委員会のリーダーとして民舞や合唱活動、公開授業の授業づくり、2000人近い参加者を迎える会場設営の仕事などに取り組んでいたのだが、内部進学テストと期間が重なり、中止せざるを得なくなったという理由があるが、遠藤は教師自身の問題が最も浮き彫りにされたと考えた。まず、教師たちの議論が公開研究会での生徒たちの活動をどう評価するかで、二つに割れた。遠藤は「公開研究会に主体的に取り組んだ生徒たちの意欲や自主的な活動は素晴らしいことである」と評価したが、それとは反対に、公開研究会を自分たちで成功させるというバイタリティーのある生徒たちの良さや活躍が見えなかったり、「公開研究会の中心になって働く生徒たちには、普段の授業のなかで真面目に勉強しない連中が多い」と言い出したり、「合唱や民舞などの表現活動をやるから生徒が勉強しなくなった」、「合唱や民舞などに意欲的にとりくんでいる生徒には、地道に勉強にとりくんでいない生徒が多いから、公開研究会や表現活動の発表の場は、そういう生徒たちを増長させているだけだ」というとらえ方しかできない教師がいた。遠藤は「そういう教師たちはたんに公開研究会に反対であるばかりではなく、日常の教育活動のなかでも、点数のない教育で子どもたちが意欲的になったり、自分の言いたいことを主張するようになったり、教師の価値体系からはみだす生徒が出たりするという状況にはかなり否定的でした。つまり、成績がよいかわるいか、勉強ができるできないという物差しだけで教育を考えることは、もうほとんど意味がなくなってきているということを徹底的に考えるまでにはいたっていなかったのです。」 というように状況を解釈した。こういった教師たちは、生徒たちのなかにある感覚の鋭さや深さ、彼らなりに持っている知恵の萌芽や理性といったものを引き出せず、切り捨てたり封じ込めたり、雑な扱い方をしてしまったりするのである。それが、明星学園が人間を人間らしい人間として育てる教育をすすめようとしたときに、立ち塞がった壁となったという。
戦後の民間教育運動のなかで教科の内容づくりをしてきた教師が、明星学園の点数のない教育のなかで、自分には教材を深く研究し把握しているという自負を持ち始め、それが手伝って「こんなに勉強して、一生懸命教えているのに、生徒のなかに話を聞かないダメなやつがいる」という想いを抱きがちだった。拒絶したり反発したりする子どもたちに対して、こういった教師たちは、子どもたちを静粛にさせるために管理を強めたり、強制力を使ったりせざるを得なくなり、子どもたちとの関係性が冷たいものになっていく。そして教師は、「こういう子どもたちをつくっているのは点数のない教育のためだ」「子どもたちは点数で評価し追いたてなければ、教師についてこないのだ」と思い込むようになる。どうしてもテストの点数による強制と序列化が必要になってくるわけである。このようなことから遠藤は「これまでの明星学園では、すべての子どもが人間として成長することを助けるということを主眼において教育を考え、授業を考え、行事を考えてきて、そこに明星の、そして、日本の学校教育のよみがえりの成否をかけてきたのです。それが今度はテストの点数で子どもを選別するということになれば、このふたつは教育の原理としてはまったく異質なものであって、この両者のあいだにはいかなる妥協も成立しないのです。(中略)少なくとも自分は、点数で生徒を明星の教育から締めだす、明星の教育から切り捨てていくというしごとには力を貸すわけにはいかない、(中略)。教育の原点に立ちもどって新しい出発を考えなければ、これまでいっしょに学び、ともに希望を語り、ともに生きてきた生徒たちの首をみずからの手で締めつけることになる。それはなんとしても自分にはできないことなのです。」 と考え、これが明星学園を辞めた根本的な理由であると述べている。そして次の「退職願」を理事会に提出し、1983(昭和58)年に正式に辞任した。
「私は今日の学校教育を制圧してしまっている能力主義の教育には反対なのです。能力主義の教育、それは子どもの内発的な関心や好奇心など、人間の内なるものや人間の本性に教育の根拠をおくのでなく、一定の教えるべきものを国がきめ、たえずテストを行ない、その点数を人間の能力の指標として一元的に優劣をきめていくという教育です。それが今日のいいようのない学校教育の荒廃をつくりだし、子どもの不幸をつくりだしている根本の要因だとわたしはとらえています。
能力主義の教育が何であるかはべつの機会にくわしくふれなければなりませんが、この教育思想は、日本の支配層が近代学校を出発させて以来、一度もその破綻を顕在化することなく営々として築きあげられ、日本人の精神構造のなかに深くもぐり、しっかりと根をおろしてしまっています。
そういう教育の体制と体質に身を委ねてしまうことはわたしの良心がゆるさないのです。また、それだからこそ人間の本性にもとづく人間の教育を追求してきたのです。
しかし、いま明星学園でそういう教育の理想を追求し、実践の事実としてそれをつくりだしていくことは、わたしにとってたいへん困難なものになってきています。それはたとえば、内部進学問題ひとつをとってみてもはっきりしています。わたしは、自分が手しおにかけて育て、ともに生き、ともに人間の生き方を考えてきた子どもたちを、いわゆる学力や成績で教育からしめだし、学校からしめだしていくことには堪えられないのです。
人間の原理にたつ人間の教育、それはわたしが力をつくして明星の現状を少しずつ改善していくことで達成できるような性格のものでないと考えるようになりました。それにはあまりにも困難な条件が多すぎます。
このことが3月の任期を機会に辞任することを決意した第一の理由です。
昭和57年7月8日 遠藤豊」
点数による序列化の撤廃や能力主義によらない教育といった、明星学園では完全に実現し得なかった教育を実現するべく、また自立を助けるという人間の本性に根差す教育を実現するべく、無着成恭や松井幹夫らと明星学園を辞め、新しく私立自由の森学園の創設に踏み出したのである。これが、遠藤豊の自由の森学園創立までの経緯である。

3-3.自由の森学園の設立とそこでの教育
3-3-1.設立まで
1983(昭和58)年に明星学園を辞めた遠藤は、同じ年に新しい学園の設立に着手した。しかし、新しい学園を創ることはそう容易くはなかった。教育の中央集権化が成り立っていて、学校体制や教育内容ばかりでなく、学校を創る資金・規模、その生徒数や教室の大きさ、運動場の広さ等、学校を創る仕事の隅々まで規制されているのである。「無認可の学校」というものがあるが、遠藤は「認可されない学校でいくら教育を受けても、教育を受けたということが認められない」 のでは、これから社会に出ていく子どものためにはならないと考え、認可の学校創りを目指した。大変困難な学校づくりを推し進めていくことができた理由として遠藤は、資金や用地の取得、農地転用や開発の許可申請など数々の困難や壁にぶつかっては、かつて明星学園にいた子どもたちの親や、遠藤たちの学校の理念を知って新しい学校づくりを支持してくれる全国の親や教師たちによって結成された“自由の森学園を支える会”に支えられていたことと、教育理念を語り続けたことであると述べている。遠藤の教育理念とは以下のことである。
「一つは、授業を、たんにきめられた一定の知識を伝達し覚えこませるしごととしてではなく、教師が自らの世界としている教材や知識を道具として使いこなしながら、ひとりひとりの子どもの内面にはたらきかけ、子どもが深いところにひそませていた「問い」を明らかにし、追究を発展させて新しい視野を拓き、新しい世界を見いださせていく、そういう充実感の感じとれるようにつくりだすことで、学ぶよろこびに目覚め、ほんとうの知性を育てていくこと。もう一つは、合唱や描画や舞踏や演劇や体操など芸術的な創造活動の教育を充実させることで、子ども自身の表現をつくりだし、心とからだをひらき、感応のゆたかさを育て、新しい自己に目覚めさせていくこと。(中略)また、体験の教育を充実させること。それはいまの子どもたちの置かれている状況では自分からなにかに働きかけてものを作りだしたり、動植物を育てたり、人間に働きかけたりして他者を感じとることがなくなっているために、子どもたちは徹底して受け身にされ、孤立させられて他者との共感や連帯を感じとることができなくなっているからです。(中略)さらに、子どもが成長するにしたがって、世界観や人生観の基礎をつくる総合学習を強めていくということがあります。(中略)こうして、人間が人間らしい人間として成長することを助ける教育をまともに展開できる学校をつくることができれば、いまの学校教育における子どもの不幸は、少なくとももっと減るだろうし、子どもたちがそこで生き生きと勉強し、教師とともに学校づくりを進めていくようになるだろう」
こういった遠藤の理念や1984年(昭和59)年6月14日の毎日新聞に「自由の森学園中学校・高等学校の創設の計画を私立学校審議会が了承、認可を前提に指導する」といような自由の森学園のことが新聞などで取り上げられ、そこで知った人が学校に1億円を寄付したということもあったという。
3-3-2.入学試験から開校 (未完)
1985(昭和60)年2月4日・5日に中学校、7日・8日に高等学校の初めての入学試験が行われた。中学の場合、定員114名に対して500名近い志願者、高校の場合も定員240名に対して1000名近い志願者があったため、結局、中学校を一クラス増やして約160名に、高校を二クラス増やして約320名を受け入れることとなった。志願者の多くは、教師や親に勧められたというのではなく、自分の意志で自由の森学園を見つけ出し、選び、ときには親や教師を説得して入試に挑むという生徒が多かった。また、学校のなかで自分が何かを学んだという実感がもてなかったり、物事を深く考える子どもが点数主義・管理主義の教育を強めている学校の体制が体質に合わなかったりして、登校拒否をしている生徒が多く、彼らは自由の森学園で “本当に学ぶ”ということの手ごたえを感じ取りたい、中学・高校時代というかけがえのない自分の“いま”を精一杯生きたい、生きている実感を掴み取りたいと、自己の甦りの契機を掴もうとしたのである。
遠藤たち学園側が入学試験で大切にしようと考えたことは、「子どもにとってなにか目覚める貴重な出会いの場であったり、いい教育体験であるようにする」「2日間の経験を子どもにとって意義のあるものにしたい」 ということであった。そこで、テストの点数という一元的な尺度で子どもたちの力をはかるのでなく、もっと多元的な価値基準で子どもたちの可能性を見ていくことで、いろんなタイプの、面白い生徒が入学できるようにするとし、4つの入学試験の項目を設定した。
1つめは、第一日目の午前中に行われたペーパーテストである。中学校では国語・算数の二教科、高校では国語・数学・英語の三教科について、ごく基本的で、ごく普通に子どもたちが出会っている問題と、それについて、「自分がそうした理由」について説明したり、与えられた問題を解くことだけでなく、「問題をつくる」という課題を出すことにした。ただ、一題ぐらいは根本的な意味を問う問題を出題した。これは、生徒がこの学校に入ったときに、教師が教材を深く研究して、どの子にもわかる授業をしていったときに、なぜそうやるのかということを自分で考えて納得していく力をどの程度もっているかを知るためである。このペーパーテストを実行した遠藤は「いまの学校の教育が、子どもの深いところにしまいこまれている力をひきだし、子どもの「なぜという問い」を発展させることで学ぶことへの興味を育てるより、そうしたすぐれた力をおさえつけているほうが多いということを深く考えさせられました。」 と述べた。つまり、当時の点数主義教育のなかで、なぜそうやるのか根本的なところを自分で考えて納得する“わかる子”ではなく、反対になぜそうやるのか根本的なところが分からない、“わかる”ことの大事さと“わかる”ことの喜びを失ってしまい、先生から言われた通りに行うことはよくできる“できる子”を生み出す教育を実践している学校が多いということを実感したのである。

※今後は以下の文献を参考に3章を修正・加筆し、更に4章以降に進められるように頑張ります。
・自由の森学園:その出発 遠藤豊 太郎次郎社 1986年初版
・遠藤豊「創立のこころ」自由の森学園中学校・高等学校の教育 自由の森学園創立25周年行事実行委員会編 学校法人自由の森学園発行 2009年初版 
・自由の森学園・その教育 上巻 人間教育の形成と発展 遠藤豊 コスモヒルズ 1995年初版
・自由の森学園・その教育 下巻「自由への教育」の展開 遠藤豊 コスモヒルズ 1995年初版
・学校をつくりつづける:自由の森学園の人と空間 自由の森学園出版プロジェクト編 桐書房 2009年初版


以上です。太田先生からご指摘いただいた、内部進学テストに対する高校側の考えについて文献を探してみたのですが見付かりませんでした。図書館にあった明星学園に関する文献は以下の通りでした。
・自然科学の教育 明星学園・理科部著 麥書房 1968年初版
・都市を描く子どもたち:明星学園中学校の生活の絵・10年間の記録  太田幸雄編 現代美術社 1986年初版
・学校が生きかえるとき 上巻 点数のない教育 遠藤豊 太郎次郎社 1979年初版
・学校が生きかえるとき 下巻 明星教育の新しい展開 遠藤豊 太郎次郎社 1979年初版
どの本にも内部進学テストに関する文章は記載されていませんでした。

また、朝日新聞の記事データベースを用いて、自由の森学園の内紛に関する記事を探しましたが、これもうまく見つけることが出来ませんでした。なんとなく近いかなと感じられた記事は、1991年6月22日の朝日新聞朝刊に掲載されたものです。
自由の森学園<用語> 
 一貫性教育での中学から高校への進学テストの採用を批判して明星学園校長を辞した遠藤豊氏が、同志を募って85年に設立した中、高一貫の私立校。授業を、子どもたちの自己形成を促す創造の場と位置付け、自然とふれあう体験学習や芸術を通した表現活動などを重視する一方、点数による序列化や校則を排したユニークな教育で知られ、現在、約1200人が在学する。
 だが、校舎建設時の債務の償還が難航。寄付に依存した学園の基本金が不足して、埼玉県の私学運営費補助が受けられないなど、開校以来、財政的には苦境が続いている。
 そうした背景の下で、遠藤学園長、教職員らと前理事長との間に、学校運営方針をめぐる意見の相違が表面化し、4月末、前理事長が一部の理事らとともに退陣。代わって、理事の1人だった菅原さんが4代目理事長に選ばれた。新経営陣には、教育畑のほか、同氏の友人のマスコミ、医療関係者や、声楽家の岡村喬生氏、アクションスターの千葉真一氏らも名を連ねている。」
4代目理事長となった菅原さんとはあの有名な俳優、菅原文太なんですって。びっくりしました。もうちょっと「学校運営方針をめぐる意見の相違が表面化」について詳しく調べていこうと思います。

今週は以上です。みなさま良いクリスマスをー


12 月
14

海賊王に俺はなるっ!!!!

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。ワンピースがすごいことになってますね。

卒論についてですが、少し2章の順番を変えました。
「2-1.はじめに 2-2.私立成城小学校 2-3.千葉師範付属小学校 2-4.トモエ学園 2-5.自由学園」
という章立てをしていたのですが、年代を考えたときにトモエ学園よりも自由学園の方が先だったので
「2-4.自由学園 2-5.トモエ学園」
と変えました。
前回アップしたのが「千葉師範付属小学校」についてまでだったので、今日はそれ以降進められたところまで投稿します


2-4.自由学園
自由学園は、デモクラシーの機運が高揚しつつあった1921年に羽仁もと子・吉一夫妻によって東京の池袋に近い「雑司ヶ谷上り屋敷」に創設された私立の中等学校であったが、二人の創設者は「人類社会の自然の姿の上に」教育を創造しよう、という願いをもって、文部省の監督・干渉を避けて、学校令の規則によらない各種学校にし、幼稚園から大学まで独自の教育理念に基づいた一貫教育を行っている。自由学園における「自由」とは、『新約聖書』ヨハネによる福音書の中の「あなたたちは真理を知り、審理はあなたたちを自由にする」という言葉に由来する。校舎の設計はアメリカ人のフランク・ロイド・ライト(Frank Loyd Wright)が請け負った。
羽仁もと子は当時の学校教育に不満をおぼえ、羽仁夫妻が創刊した雑誌『婦人之友』に以下のように綴った。
「私は、あれも習ったこれも教えたということは、殆ど型ばかりで実力のつかない、また我々の実際生活と没交渉な教育法だということを、始終頼りなく思わせられたことでした。そうしていよいよ小学校を卒業したら、どこの女学校に願ったものか、女学校を卒業したら、どうしてもっと実力のつくような役に立つ人間になるような勉強をさせたものかと思い煩うことでした。
私はその度によい女学校が欲しいと思い、また女学校を卒業した娘を、もっと窮屈でなく自由に実のある学問をさせ、かつ進歩した意味に於いての家庭の実務が、その手とその頭で、ずんずん明快に運んでゆけるような修行をさせる所が欲しいと、どんなに思ったか知れませんでした。
私はまたこの年頃、子供のいろいろな学科のおさらいをしてやるたびに、多くのことを思わせられました。私は数学だの国語だの作文だの自分の性分に向いた学科を子供に見てやる時に、算術ぎらいの子供や、数理的推論的の頭脳の力の弱い子供が出来たり、自分の感じや思いの真実を探ねることをしないで、ただ人まねの文章をつくったり、読んでいる文章の眼目と生命とを握ることが出来ないで、ただこつこつ読んだり書いたりしているような子供の、今の学校に多く出来るわけを、ああこういう所からだなという風に、いろいろな場合にたびたび思わせられて、どうしたら活きた学び方にこれをして行くことが出来ようかと、さまざまの苦心をしました。そのために私は早春の百草千草の芽のように、のびようのびようとして子供の頭の中に動いているさまざまな働きに、親切な園丁(えんてい)のようなあたたかい導きの手を与えてやることが、どんなに楽しいまた大切な仕事であるかを、深く深く思わせられたのでした。
また私は物理のような図面のような音楽のような裁縫のような、自分の不得手な学科に就いて、子供の相手になったり質問をされたりする時に、子供より年をとっているだけ、ああだろう、こうだろうと、とにかく言ってやれる場合が多くっても、本当に子供の頭の働きの足しになるような貴い助けをすることが出来ないことを、いつもいつも感じさせられていました。助けをすることが出来ないだけでなく、かえって子供の頭を悪くしていることもあるに違いないと、どんなに思ったことであったでしょう。」
そして「子供の頭の中にある、いろいろな働きの芽を、助けのばしてやるという、この神聖な興味の深い仕事は、ただ免状があるからといって、誰にでも出来るわけのものではない。本当にそれぞれの学科を愛し、それに就いてよい天分を持っている人が、先生離れのした気分で、どういう場合にもその学科の生命をしっかりと握って、どうしたら、最もたやすく学ぶものの心持がまともにそこにふれてくるかと思い思うて、熱心なあたたかい、そうして聰明な導きてとなり得る人でなくてはならない。それぞれの学科を心から好きな人が寄り合って、可愛がって子供の頭のそれぞれの働きをよく助け導いて見たならば、どんなに喜ぶべき結果がそこに現れてくるであろうか。」という考えのもと、「自由学園」創立に踏み出すに至った。
羽仁もと子は自由学園の目的や教育方針、また各学科の目的とそれを達成するための方法として以下のように考えた。
「自由学園は他の多くの女学校と同じように五年卒業でございます。自由学園の女学校の目的及びその教育の方針は、全く新しい家庭的友情的気分の中に、他にある高等女学校が掲げていたのと、同種類同程度の学科目によって、生徒の頭脳の働きを育てのばしその力を強くし、諸種の能力の調和を図って行くとともに、他の一方に於いては生徒各自の実生活の経営を指導して、生徒は各自にその実生活に対する興味を深くし、種々の工夫と努力をもって、日々にその実生活のよき発達と進歩を遂げて行くようにしたいと思います。その能力その年齢その境遇に応じて、めいめいに自分の生のよき経営者であるということは、人おのおの自ら教育するための何よりもよい第一の教課であります。そうしてまた生徒をして自ら教育することに熱心になるように導くことは何よりも大切な私たちの務めだと思います。そうしてまた自分自身の生活に目覚めている人は、それは少女でも子供でも、同時にその接触する社会生活に、ひとりでに興味と真剣な注意を持つようになるものです。このようにしておのずから生徒の興味を、否生活を、出来るだけ社会と接触させて行きたいというのが、また自由学園女学校のひとつのめあてでございます。
なお諸学科の前に申し上げました重要なる目的とともに、各学科それ自身の実際的な目的があるはずです。自由学園女学校の国語科の目的は、時文にたいする十分なる読書力を養い、時文をもってめいめいの思いを十分に述べ得る力を持たせること。英語科は、英語をもって日常の応答をなし得ること、同程度の英文を書くことが出来ること。料理裁縫手芸及び社交等を含む実際科は、中流家庭の事務をその手とその頭で、容易に自在に処置することが出来ること等を目的として、五年間の教育をすることでございます。
以上にあげたような目的を達するための方法が以下に述べることでございます。
まず三十人の生徒たちを六人ずつ五家族に分けて、めいめい一人一人の自分としての外に、自治的に家族的の生活を営むことを奨励したいと思います。そうしてその家族は半年に一度ずつ代って、違った友達とまた家族になるようにします。一家族は相互いの健康にも、学問の進歩にも、気分にも気をつけ合って、共に進歩して行くように、各々の家族の間に起こる様々の出来事を利用して、生徒たちの年齢の進みに従って、家族というものにたいする義務や責任や、それによって助けられること、受ける利益や楽しみや苦しみや、美しい有意義な犠牲の精神などを、実際に味わせることの出来るように助け導いて行きたいと思います。気の合わない人とも、どうしたら互いに自己を没却することなしに親しんで行かれるかを学ぶことが出来ましょう。他の家族との間の親睦や助け合い、そうして自由学園という一つの社会を、美しく有用に進歩させて行くことは、めいめいに出来る仕事であることを思わせ、またいろいろの機会を利用して、その限られた自分たちの自由学園という一つの社会の、広い一般の社会に対する自覚と責任とを具体的に感ずるようにして行きたいと思います。
土曜日は半日でありますけれど、他の五日の間この家族は、学校に於いて昼の食事時間を過ごさなくてはなりません。めいめいに弁当を持って来るのでなく、やはり家族らしく、交代にその家族の一人一人が炊事に当って、家族の食卓を調えることにします。五日の中の三日は日本料理で、他の二日は簡易な西洋料理でございます。五日の中の一日は、家族の随意に校外からのお客様をお招きして、その日に限り炊事を二人で受け持って、質素な客うけの食事を調えます。これが同時に自由学園の家事の時間であり、また社交の心を学ぶための時になります。
炊事番でない他の家族は、同じ時間に、ほかの一人は外まわりの仕事を、他はめいめいのためにいろいろの仕事をすることにします。外まわりの仕事というのは、めいめいの花畑の手入れ及び五家族共同に飼養する鶏の世話などでございます。手仕事というのは、まず自分の服装をはじめ身のまわりを、自分の手で自由に整えることの出来るために、一年生は一学期分ずつ細かにつくられる細目に従って、ハンケチ、靴下、肌着類、寝具に関する小物、前掛、仕事着、手袋、襟巻、帽子、スウエターというような品々を、ついだり新調したり洗ったり、それらのものに整理の順序をつけて、それをいつでもきちんとしておくことに就いての仕事をするのでございます。裁つこともあり、縫うこともあり、編むことも、刺しゅうをすることも、ドロンウオーク(drawn-work:レースの一種。良質の布地の緯糸または経糸を抜き、その部分を種々な模様にかがったもの。テーブル-クロースやハンカチなどに用いる。―筆者注、広辞苑より引用)もタッチング(tatting:レース編みの一。シャトルという舟型の編具を用い、小さな輪を幾つも編み連ねる。衣服の装飾やカーテン・テーブル-クロスなどに用いる。―筆者注、広辞苑より引用)も、その時の入用に従って稽古して行きます。そうしてその得た知識を実地に自分の日々の服装に応用して熟練を積むことを、一つの教課として行くはずでございます。
また一年から生理衛生の知識を与えて、まず身体の清潔、運動、栄養、休息のことを、各自の身体と事情に応じて、十分適当に実行するように導くはずでございます。殊に運動のことは体操またはダンスそのものを覚えさせるためであるように見ゆる仕方でなく、朝の間、頭を使う学科に疲れた気持を快活にするために、同一姿勢に疲れた身体を面白い運動の中に、自由に伸び伸びとさせて行くことから、動作を正しく美しく快活にして行く訓練に及ぶようにいたします。
夏休み冬休みはあるにしても、頭も身体もはげしく使う学校生活に於いて、教育盛りの子供たちが、小学校から女学校、或は更にその上の学校と十年以上も、お弁当のご飯をたべているということは、栄養上十分に懸念させられることでございます。自由学園は以上の組織によって、食物からの栄養を十分にとることが出来ますし、更に以上のようにして、いろいろの運動や、衛生や、服装上の注意が届いたならば、必ず血色のよい快活な多くの生徒たちをつくることが出来ると思います。その健康な肉体と精神の所有者である生徒の頭を、いろいろな学科にあてて強く働くように、十分助け導いて行きたいのです。」
自由学園では「復習第一主義」を唱えていた。学校には雑記帳一冊のみを持参し、各授業の要所だけを雑記帳に記入していく。そして帰宅後に、雑記帳を見ながらその日習ったことを思い出し学科一つ一つのノートを作るという復習方法がとられた。予習はせず、その日習ったことを全て覚えてしまうまで徹底的に復習することが第一であった。国語は羽仁もと子・吉一夫妻が直接指導した。いわゆる教科書は一冊もなく、羽仁夫妻の 「明治年代に出来た歴史的名著を主として、それに例えば独歩、藤村、蘆花などのような、最近の人々の散文、詩、または紀行文などの一、二種を添えようとしているのです。」といった考えから、島崎藤村の「ふるさと」や「幼きものに」や湯浅常山の「常山紀談」、謡曲「鉢の木」などが教材として扱われた。また作文も度々書き羽仁夫妻がそれを批評した。数学については、羽仁もと子と成城小学校を創設した沢柳政太郎が教えた。羽仁もと子は計算でも四則の応用問題でも、どうしてそうするか、なぜそのような式を立てるのかということを重点的に教えた。英語は川戸環を筆頭に、ミス・マンダー、ミス・マクドナルドが担当し、生徒に学校生活に必要な「家族」や「当番」などの言葉、周囲にあるものの名前をもとにした会話、英語の歌など教えた。理科の担当は和田八重造であった。和田の指導法は、野に出て自分で採ってきた花を写生し解剖して、花弁、雄しべ、雌しべと一つ一つをノートに写すというように、何でも実物に直接ふれて学ぶという授業を行った。美術は 「自由画教育」の提唱者である山本鼎が教えた。山本は、何でもよく見て自分で見たままを自由に描かせるという指導をした。また、生徒自身で図案を作ったり版画で年賀状を作成したりしたという。音楽は声楽家の鈴木信子が教えた。「コーリューブンゲン」で音程練習をし、シューベルトの「楽に寄す」を教材とした。体操はアメリカ人のミセス・ハイヤドールが担当した。ミセス・ハイヤドールは日本語が話せず、生徒も英語が分からない状況だったため、通訳がつけられていたという。実際科は料理当番以外の人が裁縫、手芸等を習う時間のことを指した。教えたのは河野富子、青芳とみ子、斎藤その子であった。 斎藤はテーブル用意の手順、衛生、食事の作法等を担当し、河野はレース、美術洗濯、編物、洋服、和服等手芸全般を担当した。青芳は 実際課をまとめ、英語でする稽古のためにも、生徒に話すことの準備を整えさせ、またこの実際課を出発点として、その上に築きのばして行こうとしている自由学園の、社交的社会的のさまざまの訓練もともに、責任をもって、すべてを考え運ぶ役割を担った。
羽仁もと子は17歳で洗礼を受け、キリスト教を信仰したが、教会に属さない無教会の立場であったため、自分が不信仰であると悔やんでいた。しかし 「自然にうなだれて、熱心に愛を求むるこの心を神に頼ると思わないわけに行きません。またある時は恩寵を感謝して喜び歌わまほしく思う心を、神を慕うといわないわけに行きません。私はすべての人の心ごころに神を愛したいと思う力の深く秘められてあるのが、人間性の自然だと思っています。この心をはぐくみ育てるために、人間のすべての生活があるのだと思っています。」という考えを持っていた。羽仁もと子は、礼拝がこの心の発揮と成長のために最も大切で自然なことであると考え、自由学園では毎朝行われていたのだが、29「私の鈍い信仰は、大勢のまだ意識的に天父を問題にしていない子供たちをひきつれて、朝々の礼拝を本当に霊味あるものにして行くことが出来るか、私は私の信仰の力の、立って歩もうとしてはよろめき倒れる幼児のようにまだ弱いものであることを思わせられて悲しまずにいられませんでした。」という考えが拭い去れずにいた。その胸の内を植村正久に話し29「信仰の問題を考察したり、取扱ったりするために、何らの準備も素養も持たない世の中や個人は、出合頭に大本教につかまったり、行者を信仰したりするようになるのだ」という言葉をいただいた。このことから羽仁もと子は、自由学園の宗教に関しては 「私たちの心の問題を取扱う時間を二つに分けて、一つはいわゆる実践倫理風に、一つは、古くからの人類の生活に現われて来た宗教心や、人生観や、著しい信念や、有名な宗教や、その教祖の話などを、それぞれ適当な方にお願いして、よき分類と系統の中に話して頂くことによって、そうして更に自由学園は、それらのいろいろの知識と努力をとり入れて、あたたかく醇化して行く力を持つことによって、子供たちめいめいの心々に自由な健全な宗教心の素地を養い成して行きたいと思います。」と考え、それを実行するにいたった。
羽仁夫妻亡き後は、娘である羽仁恵子が学園長として、自由学園の運営に務めた。羽仁恵子は「自由と教育」に関する文を記述し、それが『自由学園の歴史Ⅱ―女子部の記録: 1934-1958年』以下のように記載されていた。
「自由学園の教育において、一番大切な問題は自由ということでございます。
羽仁両先生は、それまでの人生の経験、また思想をもった雑誌の編集者としての慧眼、キリスト教信徒としての信仰から、人間にとって自由ほどむずかしく、また根本的な問題はないことを深く知っておられて、詰込みでない教育をする学校を建てたいと思われた時に、その学校の名前を、自由学園とすることに少しも迷われなかったのでした。そうしてどういうつもりで自由学園という名にされたのですかと問う人には、「自由」という言葉は、新約聖書の中の「汝等もし常に我が言に居らば真にわが弟子なり。また真理を知らん、而して真理は汝らに自由を得さすべし」(ヨハネ伝8章31―32)からとったものだと答えられておりました。
昭和22年にミセス羽仁の書かれた「教育の目的とその方法」という文章は次のような文ではじまっております。
教育の目的は何ぞときく人があれば、真の自由人をつくり出すことこそ、真の教育の目的であると、私は熱心に主張したい。
これによって、ミセス羽仁のお創りになった学校の目的は真の自由人をつくり出すことにあることがはっきりいたします。
(中略)自由学園が創立以来、追い求めている自由はキリストとともにあるという自由、人間最高の賜物であり尊厳である自由ですから、戦争になったからといってかわるものではなく、むしろますます励み求めなくてはならないものでした。自分達のために自由を守るのでなく、神さまのみ心の成るために、自由を生き抜くことが大切であったのでございます。
(中略)極端な国家主義が政治を支配し、言論界を風靡した時に、人格的自由を生きるために、その仕事をとおして真の自由の創造に精進されたミスタ羽仁、ミセス羽仁は、戦後の社会が、それまでの反動として軽薄な個人主義や、共産主義に走り、国を忘れ、個人の利益ばかりを大問題にし、その結果、権利は主張しても義務を行うことを忘れている有様を目のあたりに見て、どんなに憂いられたかわかりませんでした。
そして敗戦した祖国をこそ、より深い愛の中にもりたててゆかなければならないと、戦争中にもまさるような心労をされました。ミセス羽仁が
力なく悲しきときは小さごと
ときにはげめとみたまいう
という歌のようなものをよまれ、口ずさまれたのもそのような心境からであり、またミスタ羽仁が「国土無塵」という文章で、敗戦後、不潔と無秩序の国都東京の一端にでも清浄な秩序ある地をつくって、祖国の面目のために働かなければといわれたのもこの時でした。
(中略)宗教を根底にもった自由、人間の罪の救いを自由の本質とする考えの上に、それにふさわしい生活を持ち、その生活の営みの中に、生徒一人々々の心とからだを鍛えて、だんだんにその本源を自分から探り求めるようにしようとする学園において、世上に流行することに惹かれていては、自由学園で教育を受けているつもりでも全然その実がないことになるのでございます。
自由の問題を自由学園の人間教育の中心に考える場合に、特にしるしておきたいと思うことは、これがただ西洋の宗教、哲学からのみ学びとった概念むき出しにしたものではなく、羽仁両先生という日本人として明治のはじめに生れ、明治、大正、昭和をとおして最も日本人らしく生きられた二人の方々の血肉の中に十分に消化され、再創造されたものであるということであります。
(中略)自由学園の精神は、西洋文化の基礎であるキリスト教によるものでありますが、それが、創立者の生活をとおして信仰の内面から出てくるときに、東洋文化の特徴と自然に融和した姿になって来たように思います。わたくし共も、どうか、日本の文化の伝統をうけつぐことの出来るよう刻苦して、これを発展、充実させて、それによって世界文化にも貢献したいと思います。
氷山の一角ということがありますが、海の中にかくれている部分は表面に見えなくても、上にあらわれている9倍の大きさであるように、学校の精神とか理想とか、自由学園の場合で言えば、キリスト教の信仰が内部で健全にはたらきつつしかもこれが過剰に表面に出ることなく、学校の雰囲気にも、生徒一人々々の何げない言葉や動作にもにじみ出ているようであったら、ほんとうに望ましいことであり、そのようであってこそ、その教育が、ほんとうに確かなものと言えると思います。」
そして、生徒の心の中から、本当の自由を問題にする心持ちが出てくるまで努めるところに、この教育の精神を常に新鮮に生かす道があるのだと考え、両親である羽仁夫妻の考えを後継した。

2-5.トモエ学園
1928(昭和3)年に手塚岸衛が創設した自由ヶ丘学園は、手塚岸衛の病没と同時に廃校となった。その跡を引き継ぐ形で、小林宗作が創設した学園がトモエ学園である。全校児童数は約50人程度であった。第二次世界大戦中にB29からの焼夷弾を受け焼失した。
このトモエ学園の外観は、まず学校の門として、低い根のある木が2本生えており、そこには学校の名前である「トモエ学園」と書かれてある札がななめにぶら下がっていた。校舎として、もう走らなくなった本物の電車が7台と、門から正面にある扇形に広がった、7段くらいある石の階段を上って、つきあたりにある講堂と右手にある校長室くらいである。7台の電車のうち、1台は図書室として、残りの6台は各学年の教室として利用していた。この電車の運ばれる様子については、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に以下のような記述がある。
「この電車は、大井町の操車場から、トラクターで、運ばれて来たのだった。(中略)この大きなトラクターで、誰もいない朝の町を、ゆっくりと、電車は、運ばれて来たのだった。ところが、それからが大騒ぎだった。まだ大型のクレーンなど、ない時代だったから、電車をトラクターから、降ろすというか、はずして、決められた校舎の隅に、移すというのが、大変な作業だったのだ。運んできたお兄さん達は、太い丸太を、何本も電車の下に敷いて、少しずつ、その上を、ころがすようにして、電車を、トラクターから、校庭へと降ろしていった。」
この電車が運ばれてきたのは朝方であったため、どうしても運ばれる様子が見たい児童たちは一旦家に帰って家族の許可を得て、講堂で眠れる準備をしてから、また夜に登校するという一種の行事と化していた。各学年の教室用の電車内の構造は、運転席のところに黒板が設置されており、また電車の長い腰かけをはずして、生徒用の机と椅子が進行方向にむいて並べられていた。つり革もすべて取り除かれていたが、網棚や窓、天井、床は全部そのままで使用されていた。図書室用の電車には、たくさんの棚といろいろな字や色の本が並べられ、また、そこで本が読めるように机や椅子も並べられていた。校庭はあまり広くないが、周りには塀の代わりにさまざまな種類の木が植えられていて、花壇には赤や黄色の花がたくさん咲いていた。トモエ学園の校庭にある木は、一人ひとりの児童が自分専用の登る木である“自分の木”を決めており、他の子の木に登らせてほしいときは「御免くださいませ、ちょっとお邪魔します。」というように言って登らせてもらうのであった。
トモエ学園の児童は、朝学校に登校すると靴を脱いで教室に入り、ノートと筆箱をランドセルから出して机の上に置くと、ランドセルや草履袋は網棚にのせるのである。普通の学校では児童個々に決められた席があるが、トモエ学園では座る場所はその日の気分や都合で毎日好きなところに座っていいとされていた。授業については、一時間目が始まるときに、教師が黒板にその日一日にやる時間割りの全部の科目の問題を書き、児童はどれでも好きな問題から解き始めるという流れになっている。そのため児童は国語であろうと算数であろうと自分の好きな科目から始めて良いのである。だから作文を書いている児童の後で、物理を勉強している児童がアルコール・ランプに火をつけて、何かを爆発させているというような光景はどの教室でも見られることであった。この授業のやり方は上級になるに従って、その子供の興味を持っているもの、興味の持ち方、物の考え方、そして個性といったものが教師に分かってくるため、教師にとって児童を知る上で何よりの勉強方であるという。また児童にとっても、好きな科目からやっていいというのは嬉しいことであったようだ。嫌いな科目にしても、学校が終わる時間までに仕上げれば良かった。こういった自習形式の授業が多く、問題が分からなくなると教師のところに聞きに行くか、もしくは自分の席に来てもらって納得のいくまで教えてもらい、そして例題をもらってまた自習に入るという形をとっていた。こういったことから、一般の学校でよく見られる、教師の話や説明をただボンヤリ聞くといったことはないに等しかったようであった。全学年、教室の児童全員がその日一日にやる問題を午前中に終えると、午後は大概散歩になっていたようである。児童にとっての散歩は、自由で遊びの時間と見えたようだが、教師は児童に植物や虫を観察させたり、九品仏のお寺にある仏様の解説をしたりと、貴重な理科や歴史や生物の勉強になっていたのであった。
トモエ学園の授業の中でも音楽の時間が多く、またその中でも「リトミック」という時間が毎日あった。リトミックに関しては『窓ぎわのトットちゃん』に以下のような記述がある。
「リトミックというのは、ダルクローズという人が考えた、特別のリズム教育で、この研究が発表されると、1905年(明治38年)頃のことなんだけど、全ヨーロッパ、アメリカなどが、いち早く注目して、各国に、その養成所とか、研究所が、できたくらいだった。で、どうして、このトモエにダルクローズ先生のリトミックが入って来たのか、といえば(中略)校長先生の小林宗作先生は、トモエ学園を始める前に、外国では、子どもの教育を、どんなふうにやっているかを見るために、ヨーロッパに出発した。そして、いろんな小学校を見学したり、教育者といわれる人達の話を聞いたりしていた。そんなとき、パリで、小林先生は、素晴らしい作曲家でもあり、教育者でもあるダルクローズ、という人に出逢い、このダルクローズが、長い間、「どうしたら、音楽を耳でなく、“心で聞き、感じる”ということを子どもに教えられるだろうか。生気のない教育ではなく、動きのある生きている音楽を感じとってもらうには……。どうしたら子供の感覚を目覚めさせられるだろうか?」ということを考えていて、遂に、子供たちの、自由にとびはねるのを見ていて発見し、創作したリズム体操、「リトミック」というものがあることを知った。そこで、小林先生は、パリのこのダルクローズの学校に一年以上も滞在して、リトミックを身につけた。(中略)このリトミックを、小学校の教育にとり入れてみようとしたのは、小林先生が初めてだった。(中略)「リトミックは、体の機械組織を、更に精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運転術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行うと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則に従います」」
リトミックの目的は、体と心にリズムを理解させることから始まり、これが精神と肉体との調和を助け、やがては想像力を醒し創造力を発達させるようにするということであった。トモエ学園の「トモエ」とは、白と黒から出来ている紋所の一種の二つ巴で児童たちの心身両面の発達と調和を願うという校長の心の表れだった。校長は、周りの大人たちが子どもたちの生まれつき持っている素質をどう損なわないで大きくしてやれるかということをいつも考えていた。だからこのリトミックにしても、校長の 「文字と言葉に頼り過ぎた現代の教育は、子供達に、自然を心で見、神の囁きを聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させたのではなかろうか? 古池や 蛙とびこむ 水の音…… 池の中に蛙がとびこむ現象を見た者は、芭蕉のみでは、なかったろうに。湯気のたぎる鉄瓶を見た者、林檎の落ちるのを見た者は、古今東西に於て、ワット一人、ニュートン一人というわけで、あるまいに。世に恐るべきものは、目あれど美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、感激せざれば、燃えもせず……の類である」という考えのもと授業に入れられていたものであった。
昼食の時間は全校児童が講堂に集まり、机と椅子を輪になるように並べて持参した弁当を食べる。その弁当には「海のものと山のもの」を必ず入れることが約束されていた。「海のものと山のもの」というのは、「海のもの」は魚介類や佃煮などのことであり、「山のもの」は、野菜や肉といった陸地で生産されるもので、それぞれを使ったおかずを入れるのである。これは校長である小林宗作が考え出したことであるが、海、山といっても“無理しないこと”“ぜいたくしないこと”が親との約束であった。極端な例としては、「のりと梅干し」で良いということである。児童が着席すると、校長が児童一人ひとりの弁当に「海のものと山のもの」入っているか確認する。これは、児童自身で「海のもの」「山のもの」を探し出したり、原材料は何なのか考えたりする学習にも繋がる。例えば以下のようなことである。
「校長先生は、(中略)茶色のデンブを指して、トットちゃんに、「これは、海かい?山かい?」と聞いた。トットちゃんは、デンブを、ジーっと見て、「これはどっちだろう」と考えた。(色からすると、山みたいだけど。だって、土みたいな色だからさ。でも……わからない)そう思ったので、「わかりません」と答えた。すると、校長先生は、大きな声で、「デンブは、海と山と、どっちだい?」と、みんなに聞いた。ちょっと考える間があって、みんな一斉に、「山!」とか、「海!」とか叫んで、どっちとも決まらなかった。みんなが叫び終わると、校長先生は、いった。「いいかい、デンブは、海だよ」「なんで」と、肥った男の子が聞いた。校長先生は、机の輪のまん中に立つと、「デンブは、魚の身をほぐして、細かくして、炒って作ったものだからさ」と説明した。「ふーん」と、みんなは、感心した声を出した。」
児童の中には、母親が忙しくておかずが「山のもの」だけだったり「海のもの」だけという子もおり、そういったときには校長の奥さんが用意した二つの鍋が出番となる。校長がどちらかが足りない児童の前で「海!」と言うと、奥さんは片方の鍋から「海のもの」である、ちくわの煮物を二つ弁当箱の蓋にのせる。また、校長が「山!」と言えばもう片方の鍋から「山のもの」である、芋の煮ころがしが出された。こういった決まりによって児童たちは「誰のおかずが上等で誰のおかずがいつもみっともない」などいう、比較、差別をするようなことはなかった。
一般の学校であれば「いただきます」の挨拶で食べ始めるが、トモエ学園では『舟をこげよ(Row Your Boat)』のメロディーに校長が作詞した『お弁当をたべる前に歌う歌』を合唱してから食べ始めるのである。
「よーく 噛めよ
たべものを
噛めよ 噛めよ 噛めよ 噛めよ
たべものを」
また、児童が一人ずつ机の輪の真ん中に立って自由に話をするという「誰かさんの、“おはなし”」というのもトモエ学園独特のものである。こういった、児童に合唱やお話をさせる意図としては、一般的な日本の家庭で「食事のときは黙って食べなさい」と言われている子どもたちに、「これからの子どもは人前に出て、自分の考えをはっきりと自由に恥ずかしがらずに表現できるようになることが必要である。また、食事は出来るだけ楽しく。だから急いで食べないで時間をかけて、お弁当の時間にはいろんな話をしながら食べていい」という校長の考えからである。
このようにトモエ学園の独特な指導は校長の考えから決まる。上記したこと以外にもトモエ学園独特の決まりとして、校長の「男の子と女の子がお互いの体の違いを変な風に詮索するのはよくない」、「自分の体を無理に他の人から隠そうとするのは自然じゃない」、「どんな体も美しいのだ」という考えから、児童はプールに水着を着用せず入っていた。トモエ学園には小児麻痺児や背が伸びない障害というようなハンディキャップを持つ児童が何人かいたため、校長はそういった児童たちの羞恥心を取り除き、ひいては劣等意識を持たさないのに役立つのではないかという考えから、これを実施した。実際ハンディキャップを持った子どもたちは、始めは恥ずかしそうにしていたがそのうち平気になり、羞恥心よりも楽しいといった気持ちの方が優位になっていった。
遊びに関しても校長の考えが反映されていた。「子どもたちが“服を汚したらお母さんに叱られる”、“服が破けるからみんなと遊ばない”と思ってしまうことは、子供にとってとてもつまらないことだから、どんなに泥んこになっても破けてもかまわない一番悪い洋服を着させて下さい」という校長から父兄への要請により、当時、他の学校の子どもたちが制服を着て通学している中で、トモエ学園の子どもたちは普段着であった。しかし、現在のように丈夫な布のない時代であったため、多くの子どものズボンにつぎがあたっており、また女子のスカートも出来るだけ丈夫な布で作ってあったという。
校長であった小林宗作に関して、黒柳徹子は以下のように紹介している。
「小林宗作(本名・金子宗作)
明治26年6月18日、群馬県吾妻郡に生まれる。小さい時から音楽が好きで、榛名山の見える家の前の川のほとりで、いつも、指揮棒を振って遊んでいたという。6人兄姉の豊かではない農家の末っ子だったので、小学校を卒業すると、すぐ代用教員となり、検定試験で教員の免許を取る(中略)。上京。牛込小学校の先生となるかたわら、音楽の勉強をし、念願だった東京音楽学校(今の芸大)の師範科に入学。卒業後、成蹊小学校の音楽教師になる。この学校の創立者、中村春二の教育方針が、小林先生に大きな影響をあたえる。中村春二は素晴らしい人で、「教育は、どうしても小学校から、やらなければ!」、という考えを持っていて、生徒の数は、絶対に1クラス多くても30人。そして自由な教育、子どもの個性尊重に徹する教育方針を、うち出した。例えば、勉強は午前中で終り、午後は散歩とか、植物採集、写生、先生の話を聞く、歌をうたう、といったように、後年、トモエで小林先生が実行したような授業方法だった。(中略)
この学校で、小林先生は、生徒のために、子どものためのオペレッタを作った。それを、このユニークな学校の創立者でもあり、その頃、山田耕筰など、数多くの芸術家を財政の面で援助していた、三菱の財閥、岩崎小弥太男爵(中略)が見て感動し、ヨーロッパでの教育を視察するための費用を援助しよう、という事になった。丁度そのころ、音楽教育、児童教育に、いろいろ悩みを持っていた小林先生は、よろこんでこの申し出を受け、第1回のヨーロッパ留学に出発する。大正12年、先生が30歳のときでした。
それから、世界中に大きな影響をあたえたダルクローズのパリの学校で直接ダルクローズから学び、その他、いろいろの学校などを見て歩き、2年後、日本に帰ってくる。帰るとすぐ、小林先生の幼児教育に全面的に共鳴した、小原国芳と、成城幼稚園を作る。のちに、小原先生は玉川学園を創り、小林先生は、トモエを創ることになるのですが。
この幼稚園で小林先生は、「子供を先生の計画に、はめるな。自然の中に放り出しておけ。先生の計画より子供の夢のほうが、ずっと大きい」と、保育の先生にいいわたし、小林先生は、従来の幼稚園と全くちがった幼稚園を、ここに作った。
昭和5年、小林先生は2回目のヨーロッパに出発する。実際に教えてみて、もう一度、リトミックを勉強する必要があると思ったので、ダルクローズのところへ再び。それから、いろいろ視察し、本格的に自分の学校を創る事を決め、1年後に帰国。
昭和12年、トモエ幼稚園とトモエ学園(小学校)を創立する。日本リトミック協会も設立した。
(中略)そして、小林先生は、トモエの焼けたあと、国立幼稚園の園長と国立音大の講師など、いろいろなさいましたが、自分流の、あのトモエのような小学校を創る前に、亡くなってしまったのです。空襲で焼けるトモエを見ながら、「今度は、どんな学校を作ろうか」と、おっしゃった先生の情熱が、再び、よみがえる前に。」
また、中村春二の影響を大きく受けた結果として、小林宗作の教育方針は常に以下のようなものであったという。
「どんな子も、生まれたときには、いい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にしていこう」
こういった方針を胸に抱いていたため、トモエ学園での教育があったと考えられる。


以上です。今第3章を進めているところなので、18日には今日アップした分と3章を提出出来たらいいなーと考えています。
すごいページ数になりそうですが、よろしくお願いしますm(_ _)m

では、今日はバスケしてきまーす。
また金曜日に☆


12 月
7

土曜日に髪を切りました。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
今日は、卒アルの個人写真とサークルの集合写真を撮りました。強風で大変でした。
そして、これからサークルの「会計飲み」に参加してきます。後輩と久しぶりに飲むのでとても楽しみです。
 

では、前回提出した分を今日はアップしたいと思います。

 
2-3.千葉師範付属小学校
千葉師範附属小学校は、1873(明治6)年に設置された現在の国立千葉大学教育学部附属小学校のことである。 明治以降の日本の教員養成史において、各府県に設立された師範学校の役割は大きく、その性格や内容は1886(明治19)年の「師範学校令」によって定められ、国の教育政策を端的に実行することが期待され、その附属小学校はモデル・スクールとしての性格をおびていた。
1912(大正元)年、千葉師範附属小学校の訓導となった石井信二は、後年次のように記している。
「私は大正元年に付属の訓導(旧制小学校の正規の教員の称)となって、従来の教育のるつぼに入れられた。当時の教育はいわゆる教授法が教師の生活の一切であるかのようなものであった。職員研究会では、教壇の上からいかに子供を巧みにあやつるか、指導万端の用意がいかに周到であるか、というようなことから、教師の一言一句、一挙手一投足に至るまで微に入り細に亘って批評検討されたものである。私は、始めは、その教育のるつぼにとかされることが当然のことだとしか思っていなかったが、四年、五年とたつ中に、教育はこれでよいものだろうか、と思うようになった。隔週ごとに行われる職員研究会なるものが、その場の議論は熱心ではなやかなものではあるが、三年、五年とたった後を歴史的に反省してみた時に、ちっとも進歩はしていない。水車である。まわってはいるが、一つの所にまわるだけである。これでいいのか、どうも命を打ちこんでやるほどの魅力はない。教授法だけに得意になっている人の顔を見ると、反感さえ湧いてくる。そういうもだえや苦しみを若い人たちで常に語りあっていた。
そこへ、ちょうど大正8年に手塚岸衛氏が主事として赴任された。……」(石井信二「新教育行脚」成城学園初等学校編『人間教育』1955年)
唐沢富太郎(1894年)は、 「千葉県師範学校附属小学校の自由教育は、大正8年(1919)6月、手塚の同校主事着任をもって具体的に展開した」とされている。同様に、『千葉大百科事典(千葉日報社,1982年)』を執筆した、当時千葉大学教育学部教授の井上弘も手塚岸衛がこの千葉師範附属小学校主事として着任した1919(大正8)年から1929(昭和4)年にかけての千葉県師範付属小学校で行なわれた教育を「自由教育」であると定義している。以下がその定義である。
「1919(大正8)年から1929(昭和4)年にかけて千葉県師範学校(現千葉大学教育学部)付属小学校で行なわれた教育。そのユニークな教育は巨大な影響力をもち、日本全国に多くの心酔者をえた。手塚岸衛は附小主事(現在の校長)に就任すると同時に「自学主義」を強調したが、これは「学校教育の全部をひっくるめて、あくまで自己が自己を教育する立場にたたせるところに自己教育」という意味であった。したがってその実績は、教科における自学と教科外における自活(自治の誤植か)という二つの顔に特色をもつものであった。しかしその最も特徴的なことは教科の自学にある。これは画一的な一斉授業を極度に短縮し、子どもは授業時間の大部分を自分の能力に応じて自学をし、個々に学習の進度を認定して貰うというやり方をとった。学習における個人別進度を認めることは、子どもの学習能力の個人差に適合した学習をさせることを目的とするきわめて斬新な方法であり、同じころアメリカで開発されたウイネトカ・システムにも匹敵する個別学習として注目すべきものであった。これらの教育を手塚は自由教育と名づけ、自由の哲学的理論づけを篠原助市博士に依嘱し、精緻な理論化がなされている。しかし自由教育にたつ手塚の教育実践と自由教育の哲学的理論とが最後まで完全に融合するに至らなかったのは、自由教育の弱点というべきであろう。大正末期からはじまった大正新教育への弾圧により自由教育も昭和初頭にその灯が消えた。」
ここで、手塚岸衛について触れる。手塚岸衛は 1880(明治13)年、栃木県塩谷郡大宮村の農家に生まれた。栃木師範学校に学んだ後、東京の高等師範国語・漢文撰科に学び、1908(明治41)年、福井師範学校教諭となった。ここで篠原助市(のちに著名な教育学者、手塚の理論的指導者となる)と出会い、1912(明治45)年から1917(大正6)年にいたる五年間は群馬師範学校教諭・同附属小学校主事をつとめた。1917(大正6)年4月、京都府女子師範学校(校長・木下竹次)教諭に転じ、1919(大正8)年6月まで、京都府地方視学もつとめた。その後、千葉師範附属小学校に主事として着任した。
大戦後のデモクラシーの風潮のもとで、形式的な画一教授、注入主義の教育を改革しなければならないという改革動向は芽生えていたが、そうした動向を決定的なものにした重要な契機は、1918(大正7)年6月、県当局が県教育会に対し「児童生徒ニ自発的学習ノ習慣ヲ涵養スルニ最モ適切ナル具体的法案如何」という諮問をし、さらに翌1919(大正8)年6月に「本県小学校ニ於テ公民教育特ニ自治的訓練ヲ徹底セシムベキ適切ナル法案如何」との諮問を行い、これらに対して県教育会総会が積極的な対応を示したことからであった。千葉師範附属小学校の 学校経営方針は、手塚岸衛が着任する前年(1918年)に「一、実力養成 二、自由研究 三、立憲的活動」が掲げられていたが、県当局の諮問によって 千葉師範附属小学校が「自由教育」を実践する契機となり、千葉師範附小は「訓練には自治、教授には自学」というスローガンを掲げ、手塚は、「われ等は、最初自由教育を実施するにあたつて、まづ、訓練から、と考へた」と述べている。この「訓練」とは、「教授」に対する概念である。 彼はこの教育を「理性の働きによって真善美を創造させることである。」とし、その理性を覚醒させるためには「児童を受身の地位に置かずに、働きかけの立場に立たせて、念々刻々、自己が自己の生活を統制せざるべからざるように仕組まねばならぬ。」と考えたのであった。
こういった考えから手塚は、 尋常一年生から「学級自治会」を組織させ、そのことによって干渉圧迫による外部的の訓練を何とかして「児童の内心から泉づむ真我の声に聞いて、自律自治する底の訓練に改めたい。」と願ったのであった。学級自治会はこのような立場から、その成立過程においても、教師の命令によってではなく、子どもが自治に対する自覚を深める過程を尊重して、数ヵ月かかって組織された、という。
この学級自治会の組織および活動の著しい特色は何といっても、それを一年生から構想していることである。この点について手塚は以下のようにいう。
「児童自発に基く自学や自治は、下学年では成立たぬとか、少くとも五年以上でなければできぬ、というものもあるが、われ等の実際上の経験からいえば、自学も自治も尋常一年からできる。もちろん高学年のそれのごとく、尋常五年のそれのごとくはないが、尋一には尋一程度の自学や自治があるので従来なかった自覚や自活が、尋五以上になってから突然生まれるのではない。無から有は出ぬはずである。尋一の自学自治が連続的に発展して、尋六の自学自治となるのであることにも、反対に完全な自治と自学とは青年になっても大人になっても、たとえ死ぬほどの老人になっても到達することはできぬ。(中略)自学自治は、人生の永久に逐いかけるものであるとともに、また教育の出発点である。尋一は尋一として必要かつ十分なる自学自治がある。尋二も尋三も乃至高等科も同様である。―客観的にはもちろん程度の差はあるが―自学自治は主義として全学年を縦貫すべきである。」
実際に学級自治会の活動は、以下のような組織をつくり出し進められた。
(1) 組織 尋常一年生より各学級に於て之を組織す。
(2) 役員 会長一名、副会長一名、幹事若干名(員数は各学級随意とす) 顧問 当該学級担任訓導
(3) 役員の任務 会長は会務を処理す。副会長は会長を補佐し、会長事故ある時は之が代理をなす。幹事は会長、副会長を補佐す。顧問は役員選定及び会務の全般に亙って輔導をなす。
(4) 役員選定法 児童役員は選挙による。
(5) 役員の任期 役員の任期は通常一学期とす。
(6) 開会時期 イ)例会は少くとも毎週一回開催するを本体とす。ロ)臨時会及び連合会は、役員あるいは役員会員の協議の上開会するものとす。
(7) 事業 所謂学校都市とは趣を異にし、児童現在の生活自治にして、事業は学校生活に関する自治的修養の全般を包括し、教師予め限定することなし。
以上のような学級自治会によって千葉師範附属小学校では、組織的な教科外活動が大胆に展開されていった。
手塚は、主著『自由教育真義』(1922年)において、附属小学校で「学級自治組織」を計画するにいたった背景として「これ自由教育は児童の内より動く自律の自覚を柱とする教育であるから、自治訓練より入ることが当然である」としながら、一方では「時あたかもよし、千葉県下には公民科教授問題がやかましかったので、自治的公民訓練の基礎づけには、もっとも重要な施設であると考えた。」と述べているが、附属小学校の新しい試みは、教育界の内外が要請していた歴史的な課題にとりくんだものであった。
手塚は「訓練」のみならず「教授」においても「子どもは何れも理性の光に覚め得るものであることを固く信ずる。」という篠原助市の命題を実証しようとしていった。
手塚によれば「教授とは、教え授くるではなく、自らを教え自ら学ぶの生活を生活せしむる謂である。教授は文化の伝達ではない。教育は教え授けたることの反復練習ではなく自由なる学習による自己創造である。」という。ここでも、子どもを学習の主体としてとらえようとする近代的な立場が確認されようとしていた。
「常に児童をして事物及び理法に直接せしめ、考えつつ為しつつ考うることによって学ばしむべきである。児童独自に仮説せしめ、資料を蒐集(しゅうしゅう)せしめ、これを組織しこれを系統づけしめ、これを解決し、これを発展せしめ、さらに自己批判即ち反省をしつつ、自由に学習せしむべきである。」
手塚はこの点ですでに明治期から谷本富らによって主張されていた「自学主義」が、 単なる復習や予習、あるいは「教授の進行の埋草のため」に矮小化されていることを批判し、「学校教育の全局面に渉つて、何処を切つても血の出るやうな自学主義にまで」改造することを強調した。そのために千葉師範附属小学校では、毎日一時間の「自由学習」の時間を設け、「全然児童個別の自主的学習」を行なわせ、授業でも一斉学習を避け、授業における個別的学習の機会を尊重していった。
以上に述べてきたような千葉師範附属小学校の「教育改造」をまとめると以下のようになる。
① 1919(大正8)年9月、尋常五年生以上の7学級に学級自治会を組織。
② 同年10月、尋五の男子組において、教授細目の時間に拘束されず、ひとりひとりの能力に応じた「自由進度」学習をはじめる。
③ 1920(大正9)年1月、高等科男子組に一週一時間の「自由学習」の時間を特設。
④ 同年4月、全学年全学級に右のような試みを全面的に実施。
⑤ 同時に「自学室」を設置する。
⑥ 同年5月、一学期間、従来の当校内規全部を無視するとの申合わせをする。
⑦ 同時に「朝礼」を改めて児童の「自治的集会」とする。「校訓」は廃止、「掲示板」は「発表板」と改める。
⑧ 同年6月、授業を公開。
この公開授業の一事例、その一部が以下である。
*尋一の算術  鈴木訓導
A、分別扱
一、始業の鈴がなると児童は教室に入って来て数字の書写練習をしてゐる。
ニ、教師は適当な時期に(おやめなさい)といって次に相互課題(友達同士で問題をだし合ふ)をさせる。
B、共通扱
一、児童教壇に上って自分の作った問題を全児童に課す。(ここにあらはれる問題には事質問題が割合に多い)
児童が解答する。
ニ、教師が事質問題を課す。
児童が解答する。
三、教師計算問題を提出する。
10以上20以下の数に1、2、3を加ふる問題
C、分別扱
一、教師の提出した問題を計算し終った児童は、児童相互で検答し、終った児童は黒板で自作題を計算する。
二、教師は机間巡視をして適当な指導をする。
D、共通扱
一、教師の提出した問題を一斉に検答する。
二、算術のお話
まず、教科の授業だが、始業の鈴がなると子どもたちは自然に集合して、教師の指図なしにめいめいが自習をはじめる。ひとりではわからないときには教師のもとへ質問にいく。そのような「分別学習」ののち、指導は「共通扱」に移る。教師は徹底的に深みに導く取扱いをする。そして再び分別扱に移る。子どもたちは自分が選んだ読本なり、参考書なりを出して自由研究をはじめる。このような情景に接した参観者たちは、従来の学校における児童像とは全くちがった自律的、主体的な子ども像をそこに発見して深い感銘を受けたのだった。
手塚の述懐によると、大正8(1919)年9月から着手した千葉師範附属小学校の教育改造の試みは、1920(大正9)年4月から全学年全学級にわたっての、教授における自学、訓練における自治、経営における自由(学級王国)の採用となって本格化したが、これを広く世に問うに十分な理論づけ、体系化はまだなかったようであった。ところが同年6月の公開研究会は県下に予想外の反響を呼び、さらに同年9月全国師範学校主事会議における手塚の「自由教育」について発言が東京日々新聞、大阪毎日新聞に報道され、全国的関心を呼ぶに及んで、理論的裏付けの貧弱さがにわかに痛感されるところとなった。これが千葉師範附属小学校の新しい試みが全国的な注視の的になるきっかけである。その事情について手塚は次のように述べている。
  「大正9年9月、帝国教育会に全国師範学校主事会議が開かれた。議場たまたま研究発表を中止し、各自の経験談をなすべき動機がでて、2、3人から有益な話があった。私もまた急に当校教育の輪郭を述べて批評を仰がうといふ気になって、約7、8分間口ばやに語った。その翌日、即ち9月27日の東京日々新聞に『器械的教授を改めた新しい自由教育、生徒自ら習ひ自ら学ぶ、附属小学校主事会で発表されて問題となる』といふ大きな見出しで50行ほどの記事が載った。同28日の大阪毎日新聞にもほぼ同様の通信が掲げられ、29日には『所謂自由教育とは何ぞや』の題下に、大阪市視学や師範学校長の談義が載り、30日には小西文学博士の『自由教育は世界の大勢だ、千葉師範附属のは近頃珍しい試みである』との意見が掲げられ、つひに私のもとまで、人を寄せられて主事会の談話をそのままに復演を求め、これを『自由教育の実験』と名づけ、10月初旬、3日間に渉って大阪毎日紙上に連載せられたので、一時に関西一体に火の手があがってしまったのである。これぞ我が国に於ける自由教育問題の起源で『自由教育』なる術語が社会的に教育界に誕生したはじめである。」(『自由教育真義』)
附属小学校では、毎年開催する「教科研究会」を1921(大正10)年からは「自由教育研究会」と改称し、1923(大正12)年の8月に東京で開催された「八大教育主張講演会」の壇上に立ち、満堂の聴衆にむかって「自由教育論」を主張した。 手塚と千葉師範附属の名声は確立し、信奉者も全国に増えた反面、非難・中傷も根強かった。手塚らが同志の応援に学校を留守にしがちなことも批判の的となった。県下の老校長はこぞって反対に回り、11郡長連名の反対決議も出る騒ぎであった。婦人を乳がんで失ったこともあって、手塚は師範学校長根岸福衛の敬遠気味な勧めに従って、1926(大正15)年4月、千葉県大多喜中学校長に転出した。彼はここでも自由教育を試みたが、前年から施行された軍事教練の配属将校と衝突、さらに1927(昭和2)年4月には校長排斥の同盟休校が起こって世論を敵にし、同年6月、依願退職した。同年、手塚は千葉県教育会主事に立候補したが落選、野口援太郎から私学経営について学び、1928(昭和3)年4月、東京府荏原(えばら)郡(ぐん)碑(ひ)衾(ぶすま)村(むら)九品仏の一角に私立小学校を創設した。学校は自由ヶ丘学園と命名された。昭和6年には中学部を設けたが、折からの経済不況も手伝って経営は失敗に帰し、昭和9年これを手離し、昭和11年(1936)10月7日、彼は失意のうちに病歿した。同時に小学部も廃校となった。

2-4.トモエ学園
1928(昭和3)年に手塚岸衛が創設した自由ヶ丘学園は、手塚岸衛の病没と同時に廃校となった。その跡を引き継ぐ形で、小林宗作が創設した学園がトモエ学園である。全校児童数は約50人程度であった。
このトモエ学園の外観は、まず学校の門として、低い根のある木が2本生えており、そこには学校の名前である「トモエ学園」と書かれてある札がななめにぶら下がっていた。校舎として、もう走らなくなった本物の電車が7台と、門から正面にある扇形に広がった、7段くらいある石の階段を上って、つきあたりにある講堂と右手にある校長室くらいである。7台の電車のうち、1台は図書室として、残りの6台は各学年の教室として利用していた。この電車の運ばれる様子については、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に以下のような記述がある。
「この電車は、大井町の操車場から、トラクターで、運ばれて来たのだった。(中略)この大きなトラクターで、誰もいない朝の町を、ゆっくりと、電車は、運ばれて来たのだった。ところが、それからが大騒ぎだった。まだ大型のクレーンなど、ない時代だったから、電車をトラクターから、降ろすというか、はずして、決められた校舎の隅に、移すというのが、大変な作業だったのだ。運んできたお兄さん達は、太い丸太を、何本も電車の下に敷いて、少しずつ、その上を、ころがすようにして、電車を、トラクターから、校庭へと降ろしていった。」
この電車が運ばれてきたのは朝方であったため、どうしても運ばれる様子が見たい児童たちは一旦家に帰って家族の許可を得て、講堂で眠れる準備をしてから、また夜に登校するという一種の行事と化していた。各学年の教室用の電車内の構造は、運転席のところに黒板が設置されており、また電車の長い腰かけをはずして、生徒用の机と椅子が進行方向にむいて並べられていた。つり革もすべて取り除かれていたが、網棚や窓、天井、床は全部そのままで使用されていた。図書室用の電車には、たくさんの棚といろいろな字や色の本が並べられ、また、そこで本が読めるように机や椅子も並べられていた。校庭はあまり広くないが、周りには塀の代わりにさまざまな種類の木が植えられていて、花壇には赤や黄色の花がたくさん咲いていた。トモエ学園の校庭にある木は、一人ひとりの児童が自分専用の登る木である“自分の木”を決めており、他の子の木に登らせてほしいときは「御免くださいませ、ちょっとお邪魔します。」というように言って登らせてもらうのであった。
トモエ学園の児童は、朝学校に登校すると靴を脱いで教室に入り、ノートと筆箱をランドセルから出して机の上に置くと、ランドセルや草履袋は網棚にのせるのである。普通の学校では児童個々に決められた席があるが、トモエ学園では座る場所はその日の気分や都合で毎日好きなところに座っていいとされていた。授業については、一時間目が始まるときに、教師が黒板にその日一日にやる時間割りの全部の科目の問題を書き、児童はどれでも好きな問題から解き始めるという流れになっている。そのため児童は国語であろうと算数であろうと自分の好きな科目から始めて良いのである。だから作文を書いている児童の後で、物理を勉強している児童がアルコール・ランプに火をつけて、何かを爆発させているというような光景はどの教室でも見られることであった。この授業のやり方は上級になるに従って、その子供の興味を持っているもの、興味の持ち方、物の考え方、そして個性といったものが教師に分かってくるため、教師にとって児童を知る上で何よりの勉強方であるという。また児童にとっても、好きな科目からやっていいというのは嬉しいことであったようだ。嫌いな科目にしても、学校が終わる時間までに仕上げれば良かった。こういった自習形式の授業が多く、問題が分からなくなると教師のところに聞きに行くか、もしくは自分の席に来てもらって納得のいくまで教えてもらい、そして例題をもらってまた自習に入るという形をとっていた。こういったことから、一般の学校でよく見られる、教師の話や説明をただボンヤリ聞くといったことはないに等しかったようであった。全学年、教室の児童全員がその日一日にやる問題を午前中に終えると、午後は大概散歩になっていたようである。児童にとっての散歩は、自由で遊びの時間と見えたようだが、教師は児童に植物や虫を観察させたり、九品仏のお寺にある仏様の解説をしたりと、貴重な理科や歴史や生物の勉強になっていたのであった。


以上です。
今はここからちょいと進めている段階です。来週のブログにアップ出来るように頑張りたいと思います。

では、失礼しまーす。


11 月
30

今年もあと1ヶ月!!!!

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。

昨日はB-KIDSの代交代がありました。代持ちであった3年生お疲れ様、新しく代持ちになる2年生頑張れという飲み会です。毎年1年生と4年生は後のほうで見守るという感じのスタンスなのですが、今回は例年とは少し違い、私たち4年生も前の方で積極的に参加している感がありました。2年生プレゼンツや3年生プレゼンツに感動して多くの4年生が泣いていました。私たち4年生も3年生お疲れ様ということで絵本を贈りました。「大きなカブ」を基調として話を考え作り上げました。作っている最中、ずっと自分たちが欲しいっと騒いでました。みんな納得の出来でした。

下のもっぺさんの記事を読ませていただきました。自森の菅間先生は、イラク対話プロジェクトの中心となっていた先生であると友人から聞きました。自森の授業実践を見学出来たことがとてもうらやましく思いました。次回のゼミで詳しい話を聞かせてもらいたいです。

今日学校の図書館に行って、自由学園に関する記述のある文献を探したのですが、なかなか見つかりませんでした。「日本教育史」や「近代教育史」というタイトルの本を手にとってパラパラ見ても「自由学園」のことは書いてなかったです。ということで、今日は『自由学園の歴史 雑司ケ谷時代(自由学園女子部卒業生会編、1985年初版)』と『自由学園の歴史Ⅱ 女子部の記録1934~1958(自由学園女子部卒業生会編、1991年初版)』を借りてきました。次回のゼミまでに千葉師範附属小、トモエ学園、自由学園についてまとめたいと考えています。また、以前大正自由教育に関する文献を検索したところ『大正期 石下の自由教育 附・児童自由詩運動(増田実著、1971年初版)』があり、この文献についても触れられたらいいなと考えています。

さきほど、防災放送でボランティア先の児童の行方が分からなくなったと言っていたのでめちゃくちゃ心配です。落ち着きませんね。探しに行った方がいいのか......。ドキドキします。

今日はこれでおしまいにします。


11 月
23

昨日は13時間睡眠でした。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
20・21日とB-KIDSの温泉旅行に参加してきました。場所は毎年群馬の北のほうなんですが、今年は神奈川の湯河原でした。普通は電車で現地集合なんですが、4年生は代持ちの3年生の許可のもとレンタカーで現地へ。ものすごい渋滞にはまり、集合時間に間に合わず3年生に迷惑をかけてしまいました。めっちゃ反省しました。この温泉旅行は代持ち最後のイベントで「3年生、1年間代持ちお疲れ様」という感じで飲ませます。私も去年、記憶がなくなるくらい飲みました。今年は飲ませる側でしたが、調子に乗りすぎました。色々と反省しなければならないことが残った温泉旅行でした。
そして今日は、両親の結婚記念日です。26年?27年くらいですかね。めでたいです。すごいです。

はい、前回のゼミで提出した分をここにアップします。

「私立自由の森学園」から学び、活かせること(仮)  ※前回提出時から少し修正加筆しました。
○目次(仮)
第1章 本研究テーマについて
1-1.本研究課題設定の動機
論文の表題(テーマ)を選んだ理由を述べる。
自由の森学園を知った経緯から自森に興味を持ったということ
1-2.本研究課題の目的
本研究の目的を述べる。
自森から学ぶ、今後教育に携わるに当たって活かすべき点
第2章 自由教育の歴史
自由の森学園ができる前の歴史。大正自由教育から始まるさまざまな自由教育形態について。
2-1.はじめに
2-2.私立成城小学校
2-3.千葉師範付属小学校
第3章 自由の森学園設立から現在までの流れ
3-1.創設者遠藤豊氏の考え
遠藤豊氏が自由の森学園を設立しようとした考えやきっかけを文献をもとにまとめる。
3-2.創設後の自森の教育
1985年の創設から現在までの自森の教育を述べる。
Ex)豊富な選択講座、定期試験がない、通知表がない、生徒が作り上げる行事...etc
第4章 自森の長所
3-2で述べた自森の教育から、学ぶべきこと・公立の学校でも模倣できそうなことを述べる。
第5章 自森の短所
第3章と同様に、2-2で述べたことから模倣できない部分や世間一般から批判されている面を述べる。
第6章 結論
上記の内容から、教育に携わる者として活かせる部分、模倣すべき部分と否定すべき部分をまとめる。

○第1章 本研究テーマについて
1-1.本研究課題設定の動機
私立自由の森学園は、埼玉県飯能市にある、自由教育を標榜している中高一貫教育の学校である。
私が初めて自由の森学園を知ったきっかけは、今から4年前の浪人期に、地元にある予備校で知り合った友人が、自由の森学園高等学校の卒業生であり、その友人から自由の森学園に関する様々な話を聞いたことである。それまで、普通の公立の学校の教育しか知らなかった私にとって、自由の森学園の教育は衝撃的であった。ここで、そのときに友人から聞いた話を少し紹介したい。
まず、「社会科の授業でバグダッドの学生とインターネットで対話をした」ということについてである。イラク戦争が勃発した2003(平成15)年に、自由の森学園の生徒がインターネット回線を用いて交流を図ったのである。文化も言語も異なり、また戦時下にあるイラクの学生と、戦争を知らない日本の学生が交流をしたということに驚きを覚えた。時差の関係上、自由の森学園の生徒たちが、夜学校に集合してこの交流がもたれたらしい。家の都合上参加できない生徒もいたようだが、参加した生徒にとっては一生のうち二度とはない体験になったのではないかと感じた。この取り組みは、自由の森学園と 「対話プロジェクト(特定非営利活動法人申請準備中、代表:小川 直美)」との協同によるものである。 当時、ラオスに教育支援をするNGOで活動する小川直美さんが2002(平成14)年6月、アフガニスタンと神奈川県の高校を結びテレビ会議を行い、その中で交わされた会話により神奈川県の高校生たちは「平和」を見つめ始めた。そんな高校生の姿に心を動かされた小川さんらがテレビ会議の継続を考え、緊迫し始めたイラクとの対話こそ必要と、「イラク対話プロジェクト」を計画した。小川さんらの知人を通じて参加の打診を受けた自由の森学園高校では、1~3年生約20人が「ぜひやりたい」と2003(平成15)年1月半ばに実行委員会をつくり、イラク社会の現状や米国の対イラク政策などを調べていた。一方、イラク側には、2002(平成14)年12月に現地を訪れたグループを通じて、イラクにある国際交流団体に対話相手になる高校生探しを要請した。そして2003(平成15)年2月26日、イラク側からはバグダッド・セカンダリー・スクールなど2校の生徒約10人がバグダッドにある情報省のプレスセンターに集まり、インターネットや衛星回線を使ったテレビ電話を介して自由の森学園の生徒と平和や戦争、お互いの国のイメージなどの対話がなされた。通訳の手配、謝礼は「対話プロジェクト」側が手配したものと考えられる。この「イラク対話プロジェクト」はTBSの『News23』の特集で取り上げられた。News23のホームページにあるバックナンバーでは、 「開戦の緊張が高まる中、イラクに関する情報はマスメディアを通したものばかり。イラクに住む自分たちと同じ世代の若者は、平和についてどう考えているのだろう?「直接話をしてみたい!」埼玉県自由の森学園の高校生たちが、2月26日バグダットの高校生とインターネットを使い、ビデオカメラで撮影したお互いの顔を見ながら平和について語り合った。日本・イラクの高校生たちは、この対話を通して何を感じあっただろうか?」と記されている。
他に、友人がまだ高校生のとき、体育科教師に「何故自由の森学園の教師になったのか」という質問したときの話を聞いた。その体育科教師の前任校は普通の公立の学校であったため、定期テストの結果から通知表をつけなければならなかった。テスト内容は跳び箱であったらしいが、その体育科教師は生徒全員に“3”をつけたという。理由としては、跳び箱を上手く跳べた生徒はそれでお終い、もっと高い跳び箱を跳ぼうとしたり綺麗に跳ぼうという向上心がなかった。一方、上手く跳べない生徒は跳べないなりに頑張って授業に取り組んでいた。そんな生徒に低い評価を与えることは出来ないという理由であった。その学校の校長はこれを認めず、納得できなかった体育科教師はその学校を辞めた。時期としては1985(昭和60)年ごろで、ちょうどその頃、自由の森学園が開校ということで教員を募集しており、その採用試験を受け、定期テスト・通知表のない自由の森学園の教師になったという。私は、公立の学校の在り方に納得できない教師がいるということをそのとき初めて知り、自由教育の学校は普通の公立学校とは異なった特別な教師・生徒で構成されている学校であると感じた。
これらの話から、自由の森学園を知り、またとても興味が湧いた。私が通ってきた公立の普通学校とは違った教育、私立自由の森学園の自由教育がどのようなものなのか研究したいと思い、このテーマを設定した。

1-2.本研究課題の目的
浪人期には、自由の森学園の自由教育に対して憧れや羨望というようなポジティブな考えしか抱かなかったが、大学で教職をとり学習を進めていくにつれて、自由の森学園を肯定的に見ることもできれば、自由の森学園の学校教育としてのあり方に疑問を抱かざるを得ない点、否定的に見ることしかできない点があるという考えに至った。
本研究は、私立自由の森学園を肯定的視点・否定的視点の両方から調べ、将来教育に携わるにあたって活かせる点を探し出していくことを目的とする。

○第2章 自由教育の歴史 (未完)
2-1.はじめに
自由教育とは 「大正時代、国家統制的な公的教育に反対する立場で、教育者の創意をもって行われた教育。」と定義される。 日本では、大正期に19世紀末から20世紀の初頭にかけて欧米で活発化していた「新教育」運動が輸入され「大正自由教育運動(別名「教育改造運動」「新教育運動」)」と呼ばれる、それまでの画一的で型にはめたような教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする運動が起こった。当時の日本は、いわゆる「大正デモクラシー」とよばれる時期にあり、社会の様々な分野において民主主義、自由主義の思想が普及していった。この「大正デモクラシー」の風潮を追い風にして「大正自由教育運動」は広まっていったのである。
欧米から輸入された「新教育」は「新学校」運動として、都市に設けられた私立小学校や府県文教行政に対して一定の枠内での相対的独自性をもっていた、師範学校付属小学校の一部を拠点にしてはじめられた。その代表的なものに私立成城小学校、私立明星小学校、自由学園、千葉師範付属小学校、明石女子師範付属小学校、奈良女子高等師範付属小学校などがある。

2-2.私立成城小学校
私立成城小学校は、1917(大正6)年に沢柳政太郎によって創設された。成城小学校創設の趣意書には次のように述べられている。
「我国の小学校教育が明治維新後、半世紀間に為した進歩は実に嘆賞に値しますが、同時に又、この五十年の歳月に由つて今や因襲固定の殻が出来、教育者は煩瑣な形式に囚はれかけました。外観の完備に近い程の進歩の裏には動もすれば、教育の根本精神を忘れて形式化せんとする弊害を醸しつゝあるやうに思はれます。我国教育界には今や所謂、物極まつて変じ、変じて通ずべき時節が到来したのではありますまいか。
されば今こそ此の固まりかけた形式の殻を打砕いて教育の生き生きした精神から児童を教育すべき時であらうと思ひます。実に我国現今の教育は単に小学校教育のみならず、あらゆる方面に亙つて種々の意味に於て革新を要望されてゐます。殊に現に行はれつゝある欧州大戦乱は我国の教育界に向かつてもひしひしと一覚醒を促してゐます。我が成城小学校は此の機運に乗じ、この要望に応じ、微力をも顧みず玆教育上の新しき努力を試みんがため生まれんとするのであります。」
要するに、明治維新後50年間の小学校教育の進歩は感心すべきことであるが、この間によって時代に不適切な風習が固定され、教育者はこまごまと煩わしい形式に囚われてしまい、外観の進歩と同時に教育の根本精神を忘れて形式化してしまっているように思われていた。そのため、この固定された形式を打ち砕いて生き生きした精神から子どもを教育すべきであると考えた。当時の教育は小学校教育だけでなく、あらゆる方面にわたって様々な意味において革新を要望され、また第一次世界大戦は日本の教育界に向かっても覚醒を促していた。こういった流れから、成城小学校は教育上の新しい努力を試してみようと生まれるのであるということである。
成城小学校は「(1)個性尊重の教育(能率の高き教育) (2)自然と親しむ教育(剛健不撓の教育) (3)心情の教育(鑑賞の教育) (4)科学的研究を基礎とする教育」の4つのスローガンを柱として「新教育」の実践にのり出した。
まず、児童定員30名という小規模学級体制によって個性尊重の教育を具体化できるようにし、校外教授をしばしば行なって子どもの自然に対する興味や能動性を教授の基底とした。また、修身科については、沢柳のかねての持論であった「低学年の修身科廃止論」を実現すべく、二年生まではこれを特設しなかった。 これは沢柳の主張に基づいていた。すなわち、彼は、「道徳の涵養」は「ちょうど植物の種子の発育するようなもの」であるから「適当の時に於てすることが必要」だ、と考えていたのである。
「自分は小学校に於ける修身教授なり訓育なりの不十分なる一原因は、むしろ多きを求めすぎるにあると予(かね)て考えている。……
斯くの如き多大の要求をなすが故に、今日の修身教授は反って其の効果なし、といふ結果に陥るのである。……修身科に至っては、大人すらなお且つ実行し難きことを要求して居るのであって、二兎を追うものは一兎をも得ざるの譬(たとえ)の如く、此が今日の修身教授の効果のあがらざる一大原因をなしておると思うのである。」
「尋四まではいわば修身の種子を蒔く下拵えをする時で、必要に応じて断片的の教訓を為し、以て纏りたる修身教授を為す準備期であって、尋一や尋二では未だ種子を蒔く季節に達せぬ、と思う。人の道徳的意識の未だ萌芽も出さない時に、道徳的教授、即ち多量の肥料を与えたりしても却って効果なく害あるかも知れぬ。」というのが彼の主張するところであった。
さらに 「特別研究」と称する自由選択科目の特設、図画を美術、唱歌を音楽、算術を数学、理科を自然科と規定し直し、「歴史教授本来の大目的とは歴史を社会学の意に於て教授することである」とする国史教育論等々の新教科論などを「新教育」課程として設定した。そして、ドルトン・プランの導入にみられるような学校・学級経営の自由主義的な方式をとった。成城小学校は、このような教育課程を実質的にすすめるために、『児童読本』(各学年・学期用)や『児童算術』(尋常一年用、全一冊)などの新教科書を自主編成し使用したが、同じような試みは、関東近隣諸県に大きい影響を与えた千葉師範付属小学校でもおこなわれた。『自由教育尋常小学国史学習書』(五・六年用)、『挿画中心自由教育地理学習書』(同)、『自由教育国語読本学習手引』(一・二・三・四年用)などの学習書、それに「子ども哲学叢書」と題して公刊された『こども認識論林檎の味』、『こども倫理学バベルの塔』、『こども美学橄欖の花』などがそれである。
成城小学校の4つのスローガンのうち、注目しなければならないのは、「(4)科学的研究を基礎とする教育」である。その点について「趣意書」の中では次のように述べられている。
「由来、小学教育は他の教育に比してはさかんなりと言っていいが、しかし、その研究や議論は、多くは抽象的にあらざれば西洋丸うつしで、その是非不当にいたってはけっきょく、水かけ論におわってしまうありさまであります。これ、一は教育者が親しく児童教育の任にあたって、やむにやまれぬ真摯の要求からわきでた研究でなくて、つけやきば的のものが多いからだとおもわれます。なおまた一には学者と教育実際家とのあいだに一大溝渠(こうきょ)が横たわっていて、学者の研究は実際家にかえりみられず、実際家の施設は根拠なきおもいつきから割りだしたものにすぎないからだと思われます。これがために、どのくらい教師も児童も時間と財と精力とを浪費しているかもしれません。能率の高い教育をするには、ぜひとも学者と実際家とのあいだに存するこの溝渠をうめねばなりません。それゆえ、本校は科学的研究の素養あり、かつその精神の旺盛なる者を訓導とし、教育的研究を実際と一致せしめんとつとめるつもりです。これを他のことばで申せば、理論化せる実際、実際化せる理論、すなわち真の意味の研究的学校を以て理想としています。されば本校の訓導は、みな、教えつつ学ぶ、ということを日々の格言とする考えでいます。かくして、貴重なる教師としての日々の経験におもきをおき、綿密なる観察、実験によって根本的研究をつみ、実際に科学的根拠をあたえたいとの希望・抱負を以てかかっています。」
「趣意書」は「結語」においても「之を要するに……独断的僻見(へきけん)に流れず、科学的実験的精神を以て改善に改善を加へ、進歩して息まざる覚悟で、現今、我が国教育に最も欠如してゐる徹底した教育を実現したいのであります。」と記し、沢柳がかつて『実際的教育学』(1909年)において説いた「教育についての科学的研究」の必要性を自らの課題としてになう決意を示したのであった。
こうした沢柳の主張に共鳴し、沢柳とともに「研究学校」としての成城小学校の教職員として結集したのは<主事>藤本房次郎、<訓導>真篠俊雄、<訓導>田中末広、<訓導>諸見里朝賢、<訓導>佐藤武、<訓導>村上瑚磨雄、<書記>井村秀三、<給仕>高野正泰、<顧問>小西重直・三島通良(兼校医)らであった。訓導は新聞広告を通して全国から募集し、佐藤、田中、諸見里らは、論文審査の上、面接試験を経て採用されたという。
こうして成城小学校は、一学級の定員を30名以下とし、一、二学年に限って募集し、応募した児童一年生26名、二年生6名計32名で出発した。授業料は月額3円であった。(翌年からは入学希望者は定員を超えた。)
沢柳は「私共はささやかなる一私立校から、私共の天分の許すかぎり、力のあらんかぎり努力して、必ず何ものかを小学校教育の改造に寄与するつもりである」といい、事実、成城の教育にはできるかぎりのエネルギーを注ぎこんだ。当時の沢柳の態度を成城小学校の一人の教師はこう語っている。
「沢柳先生は熱心に我等の発表を聴かれた。……審理の前には校長も主事も訓導も平等である。常に斯う言はれた。いつも学校へ来て児童を観察し、授業を見、相談相手になられた。成城は斯うして児童を愛し、教育を愛し、研究を生命とする学校として成長した。」
成城はこの後、小原國芳が主事として1910(明治43)年に着任し、雑誌『教育問題研究』を発刊し、彼が全国を講演したりすることによって「研究を生命とする学校」というよりも「新教育」運動の中心的存在になっていった。

2-3.千葉師範付属小学校
千葉師範附属小学校は、1873(明治6)年に設置された現在の国立千葉大学教育学部附属小学校のことである。 明治以降の日本の教員養成史において、各府県に設立された師範学校の役割は大きく、その性格や内容は1886(明治19)年の「師範学校令」によって定められ、国の教育政策を端的に実行することが期待され、その附属小学校はモデル・スクールとしての性格をおびていた。
1912(大正元)年、千葉師範附属小学校の訓導となった石井信二は、後年次のように記している。
「私は大正元年に付属の訓導となって、従来の教育のるつぼに入れられた。当時の教育はいわゆる教授法が教師の生活の一切であるかのようなものであった。職員研究会では、教壇の上からいかに子供を巧みにあやつるか、指導万端の用意がいかに周到であるか、というようなことから、教師の一言一句、一挙手一投足に至るまで微に入り細に亘って批評検討されたものである。私は、始めは、その教育のるつぼにとかされることが当然のことだとしか思っていなかったが、四年、五年とたつ中に、教育はこれでよいものだろうか、と思うようになった。隔週ごとに行われる職員研究会なるものが、その場の議論は熱心ではなやかなものではあるが、三年、五年とたった後を歴史的に反省してみた時に、ちっとも進歩はしていない。水車である。まわってはいるが、一つの所にまわるだけである。これでいいのか、どうも命を打ちこんでやるほどの魅力はない。教授法だけに得意になっている人の顔を見ると、反感さえ湧いてくる。そういうもだえや苦しみを若い人たちで常に語りあっていた。
そこへ、ちょうど大正8年に手塚岸衛氏が主事として赴任された。……」(石井信二「新教育行脚」成城学園初等学校編『人間教育』1955年)
『千葉大百科事典(千葉日報社,1982年)』を執筆した、当時千葉大学教育学部教授の井上弘は手塚岸衛がこの千葉師範附属小学校主事として着任した1919(大正8)年から1929(昭和4)年にかけて千葉県師範付属小学校で行なわれた教育を「自由教育」であると定義している。以下がその定義である。
「1919(大正8)年から1929(昭和4)年にかけて千葉県師範学校(現千葉大学教育学部)付属小学校で行なわれた教育。そのユニークな教育は巨大な影響力をもち、日本全国に多くの心酔者をえた。手塚岸衛は附小主事(現在の校長)に就任すると同時に「自学主義」を強調したが、これは「学校教育の全部をひっくるめて、あくまで自己が自己を教育する立場にたたせるところに自己教育」という意味であった。したがってその実績は、教科における自学と教科外における自活(自治の誤植か)という二つの顔に特色をもつものであった。しかしその最も特徴的なことは教科の自学にある。これは画一的な一斉授業を極度に短縮し、子どもは授業時間の大部分を自分の能力に応じて自学をし、個々に学習の進度を認定して貰うというやり方をとった。学習における個人別進度を認めることは、子どもの学習能力の個人差に適合した学習をさせることを目的とするきわめて斬新な方法であり、同じころアメリカで開発されたウイネトカ・システムにも匹敵する個別学習として注目すべきものであった。これらの教育を手塚は自由教育と名づけ、自由の哲学的理論づけを篠原助市博士に依嘱し、精緻な理論化がなされている。しかし自由教育にたつ手塚の教育実践と自由教育の哲学的理論とが最後まで完全に融合するに至らなかったのは、自由教育の弱点というべきであろう。大正末期からはじまった大正新教育への弾圧により自由教育も昭和初頭にその灯が消えた。」

以上です。これから、もう少し千葉師範附属小学校についてまとめて、そこからトモエ学園にふれるつもりです。また、羽仁もと子の自由学園に関してもふれていきたいと考えています。

では今日はこの辺で。


11 月
16

だんだんパソコン室が混むような時期になってきました。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
先週投降した内容に関して太田先生からご指摘いただいた、バグダッドの学生とインターネット対話のときの通訳のことや、体育科教師のことについて、友達にメールで質問してみました。

まず、イラクの学生とインターネットで対話したときの通訳は雇ったのかということについて。友達の回答は「イラク対話は確か、どこかの局か何かと共同でやってた気がする」と詳しいことは分からないとのことでしたので、Yahoo!で「自由の森学園」と「バグダッド」で検索してみたところ102件ヒットしました。いくつかこの対話について分かりやすく書かれていた記事があったので記載します。

Yahoo!グループ掲示板
投稿者: Aoki Masahiko
Date: 2003年2月1日(土) 午前9時36分
タイトル: 日イラク高校生テレビ会議
イラク問題:
平和考えるTV電話会議へ イラクと日本の高校生
 米国の攻撃準備が進むイラクと日本を衛星回線経由のテレビ電話で結び、高校生が平和を語り合う「イラク対話プロジェクト」が進んでいる。自由の森学園高校(埼玉県飯能市)の生徒が参加し、2月中の実現を目指す。支援者グループは「高校生がイラクの同世代を知り、平和に向けて行動してほしい」と期待している。
 ラオスに教育支援をするNGOで活動する小川直美さん(36)=千葉県松戸市=や学校教員らのグループは昨年6月、アフガニスタンと神奈川県の高校を結び、テレビ会議を行った。その会議で、アフガンの若者たちは「今一番ほしいものは平和」と語り、「戦争が日本であったら?」と問われた日本の高校生たちは「想像したこともない」と考え込んだ。
 現地との対話で「平和」を見つめ始めた高校生の姿に心を動かされた小川さんらがテレビ会議の継続を考え、緊迫し始めたイラクとの対話こそ必要と、今回のプロジェクトを計画した。
 小川さんらの知人を通じて参加の打診を受けた自由の森学園高校では、1~3年生約20人が「ぜひやりたい」と1月半ばに実行委員会をつくり、イラク社会の現状や米国の対イラク政策などを調べている。一方、イラク側には、昨年12月に現地を訪れたグループを通じて、イラクにある国際交流団体に対話相手になる高校生探しを既に要請している。メンバーの一人が近く、テレビ会議実現のための機材を持って現地を訪れる。
 日本側実行委員長で同高2年の阪下美加さん(18)は「遠い国だと思っていたイラクの人と話せるのは楽しみ。力で押さえ込む米国の姿勢や、米国を支援する日本をどう思うか聞きたい」と話している。
(http://groups.yahoo.co.jp/group/nomorewar/message/6779?expand=1)

沖縄の新聞より  海越えつながる 平和願う心   自由の森学園
 「日本の平和憲法は、理想と違いますか」「イラク国民も戦争には反対しています」。イラクと日本の高校生がインターネットを利用したテレビ電話で対話する試みが2月26日、埼玉県飯能市の高校で行われ、両国の高校生が平和への思いを話し合った。
 日本側は「自由の森学園」(坂本匡之校長)の高校1-3年まで男女5人の生徒が質問を投げかけた。通信状態が悪く、予定より2時間近くずれ込んだが、会場には約70人が詰め掛け、通信がつながると拍手と歓声が上がった。
 イラク側はバグダッド市内の男子校と女子高から約10人が参加。「日本は僕たちの国と同じように戦争を体験しているのに、米国に協力するのは残念。できれば考えを変えてほしい」とイラクの男子高校生。「将来の夢は?」と聞かれた女子高生は「医者になって苦しむ人を救いたい」とはにかんだ。
 「日本国民のたくさんの人が戦争に反対しています」と日本側。「では、いつ国民と政府の意見が1つになるんですか」との問いに「難しい質問」とどよめきも。
 直接対話は、イラクを取材に訪れているジャーナリストやボランティアが支援して実現。実行委員長の2年生坂下美加さん(18)は「イラクの高校生もわたしたちも平和を願っている。どうして米を応援するの?と聞かれ、悲しいと率直に思った」と話した。
ジュゴンの家・日誌(http://dugongnoie.web.fc2.com/03_3_1.html)

【対話】 日本とイラクの高校生 テレビ電話で平和語る 埼玉 [毎日]
2003-02-26-22:18
 「戦争にならないよう、日本でも反対の声を上げてほしい」。イラク・バグダッドの高校生らがテレビ画面から訴えると、日本の高校生たちは8000キロの彼方から届いた映像を食い入るように見つめた。26日夜、自由の森学園高校(埼玉県飯能市)で、イラクとインターネットや衛星回線を使ったテレビ電話で会話する「イラク対話プロジェクト」が行われ、両国の高校生同士が平和について語り合った。
 日本側から同校の生徒約50人が参加し、イラク側からはバグダッド・セカンダリー・スクールなど2校の生徒約10人がバグダッドにある情報省のプレスセンターに集まった。午後7時過ぎ、テレビ画面にイラクの生徒が登場すると、大きな拍手と歓声が上がった。
 質問に立った3年生の佐藤史記君(18)が「平和憲法を持ちながら米国を支持する日本政府をどう思うか」と尋ねると、イラクの男子生徒は「(反戦が多いという)日本国民の考えは知っている。戦争を経験しながら、また戦争を支援するのは残念だ」と答えた。イラクの女子生徒は「世界で変えたいものは何ですか」と質問し、日本の女子生徒が「世界中の武器をなくしたい」と話した。
 お互いのイメージも率直に言い合った。イラクの生徒は日本について「技術が高く、人口が多い」と語り、日本の生徒はイラクを「古い文化を持っている」とたたえた。テレビ会話は約50分間にわたり、最後に両国の生徒らが自由や平和の大切さを訴える歌をそれぞれ合唱し合った。
 参加した1年生の野辺さやかさん(16)は「イラクは遠い国だと思っていたが、自分たちと変わらない人たちだと分かった。戦争にならないよう、自分も何かしたいと感じた」と話した。
 対話プロジェクトは、海外支援NGOで活動する小川直美さん(36)=千葉県松戸市=や教員らのグループが計画し、生徒たちもイラクの社会・教育制度について調べるなど準備してきた。小川さんは「若者たちがお互いを知る機会になって、よかった」と話した。 【和田浩明】
(http://www.asyura2.com/2003/war24/msg/1009.html)

もうひとつ。以下の記事は他県にある学校での例です。

対話プロジェクト~アフガニスタンの高校生と日本の高校生の衛星電話とテレビ電話による対話 
 大きなスクリーンの向こうでアフガニスタンの高校生が日本の高校生に問いかける。日本の高校生は戸惑いながらも、アフガニスタンの高校生の顔や息遣いを感じながらその質問に答えている。
 これは、10月5日の神奈川県立金沢総合高校の授業「『第三世界』入門」の一部である。生徒たちは「第三世界」やアフガニスタンなどについて学習を重ねてこの「対話」に望んだ。
 この授業は、「衛星電話とテレビ電話による対話~アフガニスタンと日本の高校生の相互理解授業」として、対話プロジェクトと高校の教員によって実施された。この授業では事前に学習を積み重ね、当日も(特)イーグル・アフガン復興協会理事長江藤セデカ氏の話、カブール市のデクパック女子校の紹介ビデオ上映があり、生徒たちはアフガニスタンの状況を学習した。
 15日にはこの授業を受けて金沢総合高校文化祭「翔総祭」での公開授業「『第三世界』入門」でデクパック女子校との対話も行った。
 「対話プロジェクト」とは何を指すか。「衛星電話とテレビ電話・インターネットによる対話は、リアルタイムで双方向のコミュニケーションを可能にする、人と人をつなぐ新しいメディアです。これを活用して、世界の人々と日本の人々が、お互いの顔を見、声を聞き、直接話し合うことができます。」というものだ。
 この対話プロジェクトで使われるシステムは衛星回線を使ったシステムである。アフガニスタン側はR-BGANというインターネットに常時接続が可能な高速IP衛星モデムにパソコンを接続し、インターネットメッセンジャーソフト(ivisit、MSNメッセンジャー)を使って、日本側と対話する。
 このようにインターネットメッセンジャーソフトで実施するというと簡単のようだが、アフガニスタンはインターネット回線はもちろん、電話普及率は世界でも低く、電気も安定して供給されない。このような場所で対話プロジェクトは、発電機から機器一切を準備し、政府、学校との交渉を行ってこのプロジェクトを実施している。
 こうした試みはインデペントジャーナリストを中心とする対話プロジェクトと高校の教員によって以前から実施された。2002年6月にはアフガニスタンのカブールと神奈川県の川崎・横浜の高校を結んで「アフガン」対話プロジェクトが実施された。
 この時は、神奈川県立川崎南高校3年生とチャルカライチャルディ高校11年生、神奈川県立東金沢高校3年生とアルファタハ女子校11年生・エスタカラール男子校11年生が「対話」を行った。
 2003年2月にはイラクのバグダッドと埼玉県の飯能を結んで「イラク対話プロジェクト」が実施された。この時は、飯能の自由の森学園の高校生とバックダットセカンダリースクールの男子学生と高校の女子学生が平和について話し合った。
 今年の「アフガン対話プロジェクト」は「衛星電話とテレビ電話による対話~アフガニスタンと日本の高校生の相互理解授業」をテーマに実施された。これらは、(財)国際コミュニケーション基金、(財)神奈川県高校教育会館の助成と(特)BHNテレコム支援協議会、(特)イーグル・アフガン復興協会の協力を得て実現したものだ。
 金沢総合高校以外でも、10月13日に神奈川県立麻生高校の「学校に行こう週間」の第1学年総合学習の時間に、カブール市のカライチャルディ高校生徒約200名が「衛星電話とテレビ電話にるよるアフガニスタンと日本の高校生の相互理解授業」を行った。
 ここでも(特)イーグル・アフガン復興協会理事長江藤セデカ氏の話、カブール市のカライチャルディ高校紹介ビデオ上映があり、生徒たちはアフガニスタンの状況を事前に学習した。
 高校生同士がリアルタイムで直接に対話するというこのプロジェクトは、国際理解を進める教育として優れた手法であり、その教育的効果もある。この「アフガン対話プロジェクト」以外にもモルディブと富山を結ぶ「モルディブ対話プロジェクト」があり、9月29日から富山国際大学での講義(事前学習)がスタートしており、11月に対話が実施される予定とのことだ。
 現在、情報通信技術(ICT)がもたらしたネットワークシステムや衛星通信により、インデペンデントジャーナリストが個人でも「ビデオカメラ」「パソコン」「衛星電話・通信機器」があれば、国際中継が可能になった。そして、ストリーミングサーバーを使えばインターネット放送もできる。
 情報通信技術(ICT)によるこのような「報道革命」は、既成の報道の変革やメディア世界の変化も引き起し、インディペンデント・ジャーナリズムによる新たな報道の一つの可能性を生み出します。また、この「報道革命」は商業メディアとしての新聞、テレビに影響を与えるばかりでなく、ネットを中心としたサイバーインディペンデント・ジャーナリズムの形成も促すと思われます。
 しかし、対話プロジェクトは、インディペンデント・ジャーナリズムやサイバーインディペンデント・ジャーナリズムという新しいジャーナリズムやメディアのあり方を超えて、また、一方的なマスコミュニケーションのシステムを超えて、人々の新しいコミュニケーション、相互理解のメディア、新しい市民メディアの生成を予兆していると言えるだろう。
(http://www.news.janjan.jp/culture/0510/0510173962/1.php?action=tree)

以上です。友達の言っていた「どこかの局」というのは『対話プロジェクト(http://www.jca.apc.org/taiwa/)』のことだと考えられます。ここのHPを見てみると『特定非営利活動法人申請準備中』とありますし、また『代表 小川 直美』とありました。通訳のことに関してですが、色々と見ていくと『イラク対話プロジェクト会計報告(PDF)』というのがありました(http://www.jca.apc.org/taiwa/iraq-exp/Iraq_kaikei.pdf#search='自由の森学園 バグダッド')。そこには、「通訳謝礼 ¥22000」とありました。自森側ではなく対話プロジェクト側が手配したのではないかと考えられました。


次に友達に「体育の先生が全員の通知表に4をつけたってのはいつごろ?」と質問したところ、彼女の回答は「まっちゃんの話ね。確かちょうど自森ができた頃の話だったと思う。それで、教員の募集が出てて受けたんだったと思うよ。ちなみにオール3だから」とのことでした。まずオール4じゃなかったことにビックリして、太田先生がおっしゃっていた「オール3事件」はこの人なんじゃないかと思いました。オール3事件で検索したところ『ik-ben-wakei @ ウィキ - 教育学概論(http://www25.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/225.html)』がヒット。読んでみると、音楽教師の話で年代は1970年ころ。自森の体育科教師は友達の話によると自森開校(1985年)のころであるので異なると分かりました。評価に関して同じように考える教員は少なくないのではないかと思いました。


今日はこんな感じで。また来週。


11 月
9

来年は家計簿つけようと思います。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
昨日、東急ハンズで来年用の手帳を買いました。1月20日に「卒論提出」と書き込むと身が引き締まりました。頑張りましょう。

さて、今日は先週提出した内容をそのままアップします。

「私立自由の森学園」から学び、活かせること(仮)
○目次(仮)
第1章 本研究テーマについて
1-1.本研究課題設定の動機
論文の表題(テーマ)を選んだ理由を述べる。
自由の森学園を知った経緯から自森に興味を持ったということ
1-2.本研究課題の目的
本研究の目的を述べる。
自森から学ぶ、今後教育に携わるに当たって活かすべき点
第2章 自由教育の歴史
自由の森学園ができる前の歴史。大正自由教育から始まるさまざまな自由教育形態について。
第3章 自由の森学園設立から現在までの流れ
3-1.創設者遠藤豊氏の考え
  遠藤豊氏が自由の森学園を設立しようとした考えやきっかけを文献をもとにまとめる。
3-2.創設後の自森の教育
1985年の創設から現在までの自森の教育を述べる。
Ex)豊富な選択講座、定期試験がない、通知表がない、生徒が作り上げる行事...etc
第4章 自森の長所
 3-2で述べた自森の教育から、学ぶべきこと・公立の学校でも模倣できそうなことを述べる。
第5章 自森の短所
第3章と同様に、2-2で述べたことから模倣できない部分や世間一般から批判されている面を述べる。
第6章 結論
 上記の内容から、教育に携わる者として活かせる部分、模倣すべき部分と否定すべき部分をまとめる。

○第1章 本研究テーマについて
1-1.本研究課題設定の動機
私立自由の森学園は、埼玉県飯能市にある、自由教育を標榜している中高一貫教育の学校である。
私が初めて自由の森学園を知ったきっかけは、今から4年前の浪人期に、地元にある予備校で知り合った友人が、自由の森学園高等学校の卒業生であり、その友人から自由の森学園に関する様々な話を聞いたことである。それまで、普通の公立の学校の教育しか知らなかった私にとって、自由の森学園の教育は衝撃的であった。ここで、そのときに友人から聞いた話を少し紹介したい。
まず、「社会科の授業でバグダッドの学生とインターネットで対話をした」ということについてである。イラク戦争が勃発した2003年に、自由の森学園の生徒がインターネット回線を用いて交流を図ったのである。文化も言語も異なり、また戦時下にあるイラクの学生と、戦争を知らない日本の学生が交流をしたということに驚きを覚えた。時差の関係上、自由の森学園の生徒たちが、夜学校に集合してこの交流がもたれたらしい。家の都合上参加できない生徒もいたようだが、参加した生徒にとっては一生のうち二度とはない体験になったのではないかと感じた。この取り組みは、TBSの『News23』の特集で取り上げられた。News23のホームページにあるバックナンバーでは、「開戦の緊張が高まる中、イラクに関する情報はマスメディアを通したものばかり。イラクに住む自分たちと同じ世代の若者は、平和についてどう考えているのだろう?「直接話をしてみたい!」埼玉県自由の森学園の高校生たちが、2月26日バグダットの高校生とインターネットを使い、ビデオカメラで撮影したお互いの顔を見ながら平和について語り合った。日本・イラクの高校生たちは、この対話を通して何を感じあっただろうか?」 と記されている。
他に、友人がまだ高校生のとき、体育科教師に「何故自由の森学園の教師になったのか」という質問したときの話を聞いた。その体育科教師の前任校は普通の公立の学校であったため、定期テストの結果から通知表をつけなければならなかった。テスト内容は跳び箱であったらしいが、その体育科教師は生徒全員に“4”をつけたという。理由としては、跳び箱を上手く跳べた生徒はそれでお終い、もっと高いのを跳ぼうとしたり綺麗に跳ぼうという向上心がなかった。一方、上手く跳べない生徒は跳べないなりに頑張って授業に取り組んでいた。そんな生徒に低い評価を与えることは出来ないという理由であった。その学校の校長はこれを認めず、納得できなかった体育科教師はその学校を辞め、定期テスト・通知表のない自由の森学園の教師になったという。公立の学校の在り方に納得できない教師がいるということをそのとき初めて知り、自由教育の学校は普通の公立学校とは異なった特別な教師・生徒で構成されている学校であると感じた。
これらの話から、自由の森学園を知り、またとても興味が湧いた。私が通ってきた公立の普通学校とは違った教育、私立自由の森学園の自由教育がどのようなものなのか研究したいと思い、このテーマを設定した。

1-2.本研究課題の目的
浪人期には、自由の森学園の自由教育に対して憧れや羨望というようなポジティブな考えしか抱かなかったが、大学で教職をとり学習を進めていくにつれて、自由の森学園を肯定的に見ることもできれば、自由の森学園の学校教育としてのあり方に疑問を抱かざるを得ない点、否定的に見ることしかできない点があるという考えに至った。
本研究は、私立自由の森学園を肯定的視点・否定的視点の両方から調べ、将来教育に携わるにあたって活かせる点を探し出していくことを目的とする。

○第2章 自由教育の歴史 (未完)
自由教育とは「大正時代、国家統制的な公的教育に反対する立場で、教育者の創意をもって行われた教育。」 と定義される。日本では、大正期に19世紀末から20世紀の初頭にかけて欧米で活発化していた「新教育」運動が輸入され「大正自由教育運動(別名「教育改造運動」「新教育運動」)」と呼ばれる、それまでの画一的で型にはめたような教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする運動が起こった。 当時の日本は、いわゆる「大正デモクラシー」とよばれる時期にあり、社会の様々な分野において民主主義、自由主義の思想が普及していった。この「大正デモクラシー」の風潮を追い風にして「大正自由教育運動」は広まっていったのである。
欧米から輸入された「新教育」は「新学校」運動として、都市に設けられた私立小学校や府県文教行政に対して一定の枠内での相対的独自性をもっていた、師範学校付属小学校の一部を拠点にしてはじめられた。その代表的なものに私立成城小学校、私立明星小学校、自由学園、千葉師範付属小学校、明石女子師範付属小学校、奈良女子高等師範付属小学校などがある。
私立成城小学校は、1917 (大正6) 年に沢柳政太郎によって創設された。成城小学校創設の趣意書には次のように述べられている。
「我国の小学校教育が明治維新後、半世紀間に為した進歩は実に嘆賞に値しますが、同時に又、この五十年の歳月に由つて今や因襲固定の殻が出来、教育者は煩瑣な形式に囚はれかけました。外観の完備に近い程の進歩の裏には動もすれば、教育の根本精神を忘れて形式化せんとする弊害を醸しつゝあるやうに思はれます。我国教育界には今や所謂、物極まつて変じ、変じて通ずべき時節が到来したのではありますまいか。
されば今こそ此の固まりかけた形式の殻を打砕いて教育の生き生きした精神から児童を教育すべき時であらうと思ひます。実に我国現今の教育は単に小学校教育のみならず、あらゆる方面に亙つて種々の意味に於て革新を要望されてゐます。殊に現に行はれつゝある欧州大戦乱は我国の教育界に向かつてもひしひしと一覚醒を促してゐます。我が成城小学校は此の機運に乗じ、この要望に応じ、微力をも顧みず玆教育上の新しき努力を試みんがため生まれんとするのであります。」
 そして「(1)個性尊重の教育(能率の高き教育) (2)自然と親しむ教育(剛健不撓の教育) (3)心情の教育(鑑賞の教育) (4)科学的研究を基礎とする教育」を目ざして大胆な「新教育」の実践にのり出した。まず、児童定員30名という小規模学級体制によって個性尊重の教育を具体化できるようにし、校外教授をしばしば行なって子どもの自然に対する興味や能動性を教授の基底とした。また、修身科については、沢柳のかねての持論であった「低学年の修身科廃止論」を実現すべく、二年生まではこれを特設せず、教科課程全体も実験を通して修正・発展させる、という立場をとった。沢柳は「私共はささやかなる一私立校から、私共の天分の許すかぎり、力のあらんかぎり努力して、必ず何ものかを小学校教育の改造に寄与するつもりである」といい、事実、成城の教育にはできるかぎりのエネルギーを注ぎこんだ。当時の沢柳の態度を成城小学校の一人の教師はこう語っている。
「沢柳先生は熱心に我等の発表を聴かれた。……審理の前には校長も主事も訓導も平等である。常に斯う言はれた。いつも学校へ来て児童を観察し、授業を見、相談相手になられた。成城は斯うして児童を愛し、教育を愛し、研究を生命とする学校として成長した。」
 成城はこの後小原國芳が主事として着任(1910年)し、雑誌『教育問題研究』を発刊し、彼が全国を講演したりすることによって「研究を生命とする学校」というよりも「新教育」運動の中心的存在になっていった。

※今後参考にするであろう文献
・学校改革の史的現象―「大正自由教育」の系譜をたどって 中野光著 黎明書房 2008年
・幻の自由教育―千葉師範付属小の教育改革 永井輝著 教育新聞千葉支局 1986年

こんな感じで。
太田先生にご指摘いただいた、バグダッドの学生とインターネット対話のときの通訳のことや、体育科教師のことについては、今お友達に聞いて返事待ちです。分かり次第報告したいと思います。

ではでは今日はこのへんで。
明日は1日ボランティアです。経験値積んできます。


11 月
2

冷え性には辛い季節に。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。今日はとても寒いですね。昨日との温度差が激しいので体調管理に十分気を配りたいところです。


今『窓ぎわのトットちゃん』を読み終えました。すごく素敵な本であると感じました。トモエ学園の特色を抜き出しておこうと思います。

・「いいかい?汽車にも船にも乗るよ。迷子にだけは、なるなよな。じゃ、出発だ!」
 校長先生の注意は、これだけだった。でも、自由が丘の駅から東横線に乗りこんだみんなは、びっくりするほど、静かで、走り回る子もいなかったし、話すときは、隣にいる子だけと、おとなしく話した。トモエの生徒は一回も、「一列にお行儀よく並んで歩くこと!」とか、「電車の中は静かに!」とか、「たべものの、かすを捨ててはいけません」とか、学校で教わったことはなかった。ただ、自分より小さい人や弱い人を押しのけることや、乱暴をするのは、恥ずかしいことだ、ということや、散らかっているところを見たら、自分で勝手に掃除をする、とか、人の迷惑になることは、なるべくしないように、というようなことが、毎日の生活の中で、いつの間にか、体の中に入っていた。(P102,L3~L11 『温泉旅行』)
・この土肥温泉の三日間は、これまでの、学校の中での野宿とか、肝試しと違って、実際の生活だった。例えば、晩御飯の材料を買いに、順番で、八百屋さんや魚屋さんに行かされたし、知らない大人のひとたちから、「どこの学校の生徒?」とか「どこから来たの?」と聞かれたとき、ちゃんと答えなきゃ、ならなかった。それから、林の中で迷子になりそうになった子もいたし、遠くまで泳いでしまって、帰ってこられなくなり、みんなを心配させた子もいた。浜辺に落ちていたガラスで足を切った子もいた。そのたびに、みんなは、どうしたら、いちばん自分が役に立つか、考えた。(P104,L16~P105,L5 『温泉旅行』)
・トモエは、ふつうの小学校と授業方法が変わっているほかに、音楽の時間が、とても多かった。音楽の勉強にも、いろいろあったけど、中でも「リトミック」の時間は、毎日あった。リトミックというのは、ダルクローズという人が考えた、特別のリズム教育で、この研究が発表されると、1905年(明治38年)頃のことなんだけど、全ヨーロッパ、アメリカなどが、いち早く注目して、各国に、その養成所とか、研究所が、できたくらいだった。で、どうして、このトモエにダルクローズ先生のリトミックが入って来たのか、といえば、こういう、いきさつだった。
 校長先生の小林宗作先生は、トモエ学園を始める前に、外国では、子どもの教育を、どんなふうにやっているかを見るために、ヨーロッパに出発した。そして、いろんな小学校を見学したり、教育者といわれる人達の話を聞いたりしていた。そんなとき、パリで、小林先生は、素晴らしい作曲家でもあり、教育者でもあるダルクローズ、という人に出逢い、このダルクローズが、長い間、「どうしたら、音楽を耳でなく、“心で聞き、感じる”ということを子どもに教えられるだろうか。生気のない教育ではなく、動きのある生きている音楽を感じとってもらうには……。どうしたら子供の感覚を目覚めさせられるだろうか?」
 ということを考えていて、遂に、子供たちの、自由にとびはねるのを見ていて発見し、創作したリズム体操、「リトミック」というものがあることを知った。そこで、小林先生は、パリのこのダルクローズの学校に一年以上も滞在して、リトミックを身につけた。(略)このリトミックを、小学校の教育にとり入れてみようとしたのは、小林先生が初めてだった。
「リトミックって、どういうものですか?」
 という質問に、小林先生は、こう答えた。
「リトミックは,体の機械組織を、更に精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運転術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行うと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則に従います」(P107,L5~P109,L1 『リトミック』)
・リトミックは、こんなふうに、体と心にリズムを理解させることから始まり、これが、精神と肉体との調和を助け、やがては、想像力を醒し、創造力を発達させるようになればいい、という考えのものだった。だから、初めての日、トットちゃんが、学校の門のところで、ママに、
「トモエって、なあに?」
 と聞いたけど、この学校の「トモエ」、というのは、白の黒から出来ている紋所の一種の二つ巴で子供たちの心身両面の発達と調和をねがう、校長先生の心のあらわれだった。
 リトミックの種類は、まだたくさんあったけど、とにかく、校長先生は、子供たちの、生まれつき持っている素質を、どう、周りの大人達が、損なわないで、大きくしてやれるか、ということを、いつも考えていた。だから、このリトミックにしても、
「文字と言葉に頼り過ぎた現代の教育は、子供達に、自然を心で見、神の囁きを聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させたのではなかろうか?
 古池や 蛙とびこむ 水の音…… 池の中に蛙がとびこむ現象を見た者は、芭蕉のみでは、なかったろうに。湯気のたぎる鉄瓶を見た者、林檎の落ちるのを見た者は、古今東西に於て、ワット一人、ニュートン一人というわけで、あるまいに。
 世に恐るべきものは、目あれど美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、感激せざれば、燃えもせず……の類である」
 などと嘆いていた校長先生が、きっと、いい結果を生むに違いないと授業に入れたものだった。(P111,L6~P112,L7 『リトミック』)
・校長先生は、自分の外国生活の経験から、ふつう、日本では「ご飯の時は、だまって食べなさい」と、家でいわれている子供たちに、
「食事というのは、出来るだけ楽しく。だから、急いで食べないで、時間をかけて、お弁当の時間には、いろんな話をしながら食べていい」
 といつもいっていた。そして、もうひとつ、
(これからの子供は、人の前に出て、自分の考えを、はっきりと自由に、恥ずかしがらずに表現できるようになることが、絶対に必要だ)
 と考えていた(P129,L8~L15 『それからさあー』)
・毎日、自分の好きな科目から勉強してよくて、『“人の声がうるさいと、自分の勉強が出来ない”というようじゃ困る。どんなに、まわりが、うるさくても、すぐ集中できるように!』という風に教育されているトモエの子にとっては、このお絵かき歌「マールコテン」も別に気にならず、一緒に同調して歌ってる子もいたけれど、みんな自分の本に、熱中していた。(P175,L11~L15 『図書室』)
・トモエでは、こんな風に、年齢と関係なく、お互い困難を、わかりあい、助けあうことが、いつのまにか、ふつうの事になっていた。(P211,L5~L6 『リボン』)
・小林先生の教育方針は、常に、
「どんな子も、生まれたときには、いい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にしていこう」というのでした。(P268,L5~L8 『あとがき』)
・この幼稚園(成城幼稚園)で小林先生は、「子供を先生の計画に、はめるな。自然の中に放り出しておけ。先生の計画より子供の夢のほうが、ずっと大きい」と、保育の先生にいいわたし、小林先生は、従来の幼稚園と全くちがった幼稚園を、ここに作った。(P280,L2~L4 『あとがき』)


トモエ学園の創始者である小林宗作先生の教育のあり方についての考えはとても素敵であると感じました。もっと大正自由教育についてこれから調べていきたいと思います。

では、今日はこのへんで。







10 月
26

また台風がきてますよー

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。今日は雨と風とでげんなりする天気ですね。こういう日は外には出たくないものです。


さて、私は昨日自森の学園祭に行ってきました。先週に引き続き2週連続で飯能市に出没しました。交通費は往復2千円弱かかるのでなかなかな出費です。飯能駅からはスクールバスが出ていたのでそれに乗って自森に行きました。車内には色々な年代の方がいました。何で小学生まで乗っているんだろう?と疑問に思いましたが、学園祭と同時に学校説明会があり、それに参加する子たちみたいでした。あとは卒業生と思われる人や自森生の保護者で満員になっていました。このバスは無料ではなく往復600円かかりました。
自森坂を上って階段を上り切ると右手に美術棟があり、そこの壁に描かれている未完成の顔の絵が最初に目に入りました。以前行ったときにはそのようなものがなかったと思うので、部活か何かで作品として仕上げられるのかなと思いました。左手にはTREE HOUSEがありました。これは高2年の授業の一環として作られたもののようでした。
正面玄関から校内に入ると、正面の壁にこの学園祭を行うにあたってのテーマや企画、係等を決めるために配布してきた資料がたくさん貼られてありました。すべて手書きのもののようでした。生徒が自ら書き印刷して配布している様子が伺えました。教師が手を付けたような感じは一切ありませんでした。玄関の右のほうでは玉こんにゃくが売られてました。壁の裏ではどこかのクラスが手作り(?)のパンツや布バッグを売っていました。「一点ものですよー」と言いながら売っていたので手作りなのかなーと感じました。また、購買部があり、自森に関する本が売られていたので何冊か買ってきました。最後に紹介したいと思います。
自森の学園祭と言っても普通の高校の学園祭と変わらないのかなーと感じました。展示をやっている教室もあれば、定番のたこ焼きや串焼き、駄菓子を売っている教室もあり、また体育館ではダンスやバンドの発表と特殊さはそんなに感じられませんでした。これは変わってるんじゃないかと私が思ったものを挙げてみると、『ウォンテッド』といって壁に貼ってある写真の人を見つけて商品をもらうもの、『古着屋さん』、『自然酵母の石窯パン』という手作りの酵母でパンを作る教室があり、そこは土足厳禁でエプロンとバンダナを持っていないと立ち入り禁止でした。『ファッションショー』、『才能の無駄使い』という個々で撮影した写真をシンプルに展示している教室、『秘宝館』という写真とそれにちなんだストーリーを展示しているクラス、『実写版映画ちびまるこちゃんん』という演劇、『たっきゅう』、『修学旅行アイヌコースまとめ』では修学旅行のときの写真を映像にして流していたり、アイヌについてまとめたことを展示してありました。『選択英語朗読』、『スナックはるみ』(←入りませんでしたが予想するにホスト的な感じ)、『あにはや!』早口言葉でバトル、あとは完全に手抜きだなと思った『休憩所』という教室一面に木のクズが敷き詰めてあり、飲食の持ち込み、出入り自由な教室がとても印象的でした。また、寮生という括りで出し物をしていたのは自森独特であると思いました。
昨日もらって来た案内をよく見るとグランドではサッカー部がサッカーをし、体育館2階ではバスケ部がバスケをしていたようです。あと選択講座で民謡を取っている生徒は発表をしたようですね。私が参加したのは2日目だったので1日目に発表のところはそれが見られなかったり、雨が降っていたので中止になってしまった出し物もいくらかあったようです。
体育館前には作りかけのねぶたがありました。天気に恵まれていたらねぶたの活躍があったんだろうなと残念に思いました。
自森では食堂で出されるご飯にはこだわりがあり、埼玉県小川町の金子農園というところが自然で安全な食事を食べて、子どもたちに大きくなってほしいという想いで、自森開校当初から食堂に野菜・大豆・卵を提供しています。この金子農園は日本にまだ有機農業の意識があまり浸透していなかった1971年から38年間、ずっと化学肥料・農薬を一切使わない有機農業に取り組んできたパイオニアと言われています。この食堂のご飯を食べてきました!!!!!!!!500円の日替わり定食。メニューはご飯・白菜ともやしが入った味噌汁・とんかつ・マカロニサラダでした。文教の学食より量は少なかったですが、質が良かったです。食堂は少し暗く、狭い印象を持ちました。自森生の保護者さんはこの食堂に興味があったのか早い段階から並び、行列が出来ていました。私も各教室は2周くらい見て回った後だったのでオープンの15分くらい前から並びました。行列が出来ていたにもかかわらず、数人の自森生はその行列を無視して違う方の入り口からサーっと入って席を取っていました。見たくない自森生の「間違った自由」を目の当たりにした瞬間でした。
私がご飯を食べていると、隣りに関西から来たであろう保護者さん(夫婦)が座りました。今日帰る云々と話をしていたので、どういったきっかけで子どもをこの学校に入れようと思ったのか質問しようとしましたが出来ませんでしたー(;□;)一歩踏み出す覚悟が持てませんでした。悔しいです。
ご飯を食べて帰りました。滞在時間は2時間強。一人で学園祭に乗り込むのはとてもきつかったです。誰かしらつれがいれば色んな教室に踏み入れることが出来たかなーと思いました。本当はフィナーレ(後夜祭)までいたかったんですけどね。
私の高校の文化祭は、何かを売ったりできるのは部活だけで、クラスの出し物は展示でした。人気のあるお化け屋敷以外は人がまったく入ってない感じでした。3年に1回しか開催されず、最初で最後の学園祭は2年生の時でもうあまり覚えていません。みなさんの高校の文化祭はどんな感じでしたでしょうか?


また、24日は皇居へ行って来ました。伯父が警察官で天皇の護衛をしていて、もう定年ということで親族を皇居へ案内してもいいというような流れで、母と祖母と大伯母の4人で参加してきました。一般の人はなかなか入ることの出来ない特別区というところまで入らせていただきました。今までテレビや新聞などで天皇のことが取り上げられても気にかけることがなかったため、伯父の解説を聞きながら施設を回ってもピンとこなかくて残念に思いました。また皇居と江戸城の関連も全く知らなかったのでへーと思うことばかりでした。下調べして行けば良かったです。祖母も大伯母も一生の思い出が出来たととても喜んでいました。2時間以上歩き回っていたにも関わらずぴんぴん元気だった祖母&大伯母は本当にすごいと思いました。
母・祖母・大伯母はめったに東京に出てくることがないので、皇居見学後にアメ横に繰り出しました。まず、みんな電車に乗ることがないので、エスカレーターでは左側に立つことを教えたり、祖母はsuica専用の自動改札が分からず行列を作ってしまったので切符の方の自動改札に導いたりしました。アメ横では祖母&大伯母が皇居内で2時間以上歩いたとは思えない元気さで買い物に勤しんでました。二人して自由に行動するので途中ではぐれてしまったこともありましたが、満喫していたので良かったです。新幹線の改札まで送り別れました。多分母にとっては初めての東京と言っても過言ではないくらいどこにも出かけない人なのでとても貴重な体験になったのではないかと思いました。田舎者の東京見物は面白いですね。


とても充実した二日間になりました。
今週は学祭ですね。毎年恒例B-KIDSのB風シチューをよろしくお願いします☆


あ、最後に購買部で購入した本を列挙します。
・JAA(自由の森学園をアシストする親の会)編集スタッフ 『つばさ 第12号』 JAA発行 1992年
・自由の森学園広報部編集 『じゆうの森 10号』 学校法人自由の森学園発行 1999年
・斎藤信雄編集 『卒業生は いま 「生き方としての進路」を語る』 自由の森学園第14期生学年父母世話人会(有志)発行 2001年
・自由の森学園創立25周年行事実行委員会編集 『遠藤豊「創立のこころ」 自由の森学園中学校・高等学校の教育』 学校法人自由の森学園発行 2009年
・自由の森学園出版プロジェクト編 『学校をつくりつづける―自由の森学園の人と空間』 株式会社桐書房発行 2009年

以上です。
ではまたー


10 月
19

B-KIDSのNEWパーカーができました。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。

昨日は『教育フォーラム@飯能2009 「学び力」を育てる!』に参加してきました。お話してくださったのは、駿河台大学副学長の原聡さん、自由の森学園中学校校長の中野裕さん、自由の森学園高校校長の鬼沢真之さんでした。中学から大学までの10年間でどのような教育が必要であるか、各々の教育機関ではどのような教育がなされているのかといった内容でした。
以下、フォーラムのチラシに掲載されていた紹介文を引用します。
『原さんは、心理学部の教授として専門の法心理について教えながら、「森林文化都市・飯能」に根ざしたユニークな駿河台大学「森林文化」事業の中心人物として、地元の中学・高校や市民、行政、企業などの連携をすすめてきました。』
『中野さんは自由の森学園卒業生(2期生)で音楽系?数学家教員。鬼沢さんは林業講座も担当する社会科教員。』

原さんは、駿河台大学で就職指導を担当されていて、企業就職の話から駿河台大学ではどう工夫された授業が行われているのかを紹介してくださいました。以下原さんのお話をまとめてみます。
『以前は、企業のほうで社会に通用する人間を育てていたが、今では時代が変わり大学の方でそういった人間を育て、即実践力を培う機関であるという見方が強まっている。社会に出るにあたって必要であると考えられる「社会人基礎力」というものがある。1つは前に踏み出す力(主体性)、もう1つは考え抜く力、最後にチームで働く力である。大学教員は極端に言えば教育の現場しか知らない世間知らずである。そういった人たちが社会に通用する大人を育てることは難しい。そういったことから、「市民が先生、町が教室」という考えが大切である。駿河台大学では「キャリア教育(現代GP)」というのがある。
(以下、駿河台大学HPより引用)
「地域に根ざしたプロジェクト “現代GP”2件 採択  地域とゼミによる総合的キャリア教育  まちを教室に、地域住民を教師にしたアウト キャンパス スタディの活用と学生の発達段階に応じた専任教員及び地域人講師団による段階的なキャリア教育科目の履修によって、現実に根ざした社会観・職業観を養います。また、全学生を対象とする少人数制の必修ゼミナールにおいても、専任教員によるキャリア教育を体系的に進めます。さらに、地域産業と地域教育の発展に寄与することを目的として創設された「埼玉県西部地域雇用促進協議会」との産官学連携により、学生の就職支援にも積極的に取り組んでいます。」
「アウト・キャンパス・スタディ  教室を飛び出して、実際に“まち”のさまざまな活動に参加し、いろいろな人と触れ合うことによって、社会性やコミュニケーション能力を高めていきます。また、地元企業での就業体験(インターンシップ)により、キャリアに対する考え方を実践します。この取り組みの一部は、2004年度文部科学省の「現代GP」に採択された「学生参加による<入間>活性化プロジェクト」の活動が継続されているものです。また、ボランティア、インターンシップ、まちおこしイベントなどの地域社会における生きた活動をすると、「まちづくり実践」(2単位)、「森林文化」(2単位)、「インターンシップA」(4単位)、「インターンシップB」(2単位)などの卒業に必要な単位が認められます。」
(フォーラムでは、「森林文化」を写真付きで紹介)
「「駿大の森」百年協定に基づく飯能活性化 ~「森林文化都市」構築支援プロジェクト~  このプロジェクトは、本学が位置する、「森林文化都市」宣言を行った飯能市の地域活性化活動への貢献と、本学の教育目標である「地域社会の中核を担う人材の育成」の実現に向けた総合的な取り組みです。飯能市から100年間にわたって無償で貸与された「駿大の森」における森林育成や保全活動、及び本学キャンパスの約50%を占める「駿大の里山」における里山づくりを、飯能市・市民・企業との産官学連携、さらには地域の中学校・高等学校との中高大連携を図りつつ実践していきます。」
こういった取り組みの中で就職活動や社会に出てから通用する力を養っている。』
こんな感じです。興味深い取り組みであると思いました。

続いて、中野さんの話をまとめてみます。
『学力=学ぼうとする力である。普通の学校では点数で序列化する。いい点を取りたい、友達に負けたくないから学ぼうとするというのは学力ではない。分からないことを分かるようになりたい、知らないことを知りたいから学ぼうとするというのが学力である。自森では一人ひとりのその学力を無駄にはしない。その興味のあることを伸ばすために豊富な選択講座が設けてある。教師の教材研究は骨が折れるが自森は勉強を嫌いにならない教育をしている。できる=好き・嫌いではない。
他の学校の授業を見たとき、生徒が少しでも喋ろうものなら教師は注意する。それに比べて自森の授業はうるさい。何を話しているのか生徒に聞いたところ、数学の解き方を相談していたと言う。そういった話し合いを大事にしている。数学の解き方は一つではない。生徒の話し合いや考えから面白い解き方が生まれるかもしれない。それを潰さない。
他の学校では生徒が「さわやか相談室」に行くと「もう二度と行くな」と注意する。「さわやか相談室」に行くことを問題行動として捉える。
中学の教育というのは入口である。興味や生徒のパーソナリティーを潰さない教育をすることが大切である。』
こんな感じです。思い出した順に書いているので全くまとまっていません。『自森は勉強を嫌いにならない教育をしている』って言葉には感動しました。生徒のことを本当に第一に考えていることが伺えました。

最後に鬼沢さんのお話。
『高校は、中学が「思春期」だとすれば「青年期」にあたる。また、「社会への渡り」である。
青年期には3つの"せい"がある。1つは生産。今後どうやって生活していくか、どうやって食べていくかである。2つめは性。結婚や家庭をどのようにもつか。3つめは政治。18歳選挙権を目前にして社会構成のイメージを抱く。パーソナリティーをもちながら、土台を作ってあげること。アイデンティティーの確立を目指す。
社会への渡りの時期として、「生産」の具体的な答えを持たせて社会へ送り出さなければならない。そのためには生徒が将来何がしたいのか、やりたいことを見つけ出してやることが必要だが、高校生は「やりたいことをみつけなきゃいけない」という脅迫感を抱いてしまう。やりたいことは自分の"ソト"ではなく"ナカ"にあるものだからそれを見出させる。ジャンルでは選ばず、特性・パーソナリティーからイメージして自分から歩み出す。「何がやりたいの?」と生徒に質問することは絶対にしてはならないこと。
社会や企業で求められている、主体性や活用力というのは学校教育では育てられない。学校教育では基礎学力が培われている。そんな中で、活用力や主体性を育てるには自己肯定感を抱かせることが大切である。この自己肯定感は等身大の成功体験の積み重ねで養われるものであると考える。行事や授業、レポートなど、今現在自分にある力で成功した体験こそが自己肯定感につながる。』
こんな感じで。メモを取ったのですがぐちゃぐちゃに書いてしまったため上手くまとめられません。

このシンポジウムは自森の保護者によって催されました。大学生は私一人で、参加者のほとんどの方が親世代でした。会場に入るとき私はものすごいアウェイ感を抱きましたが、スタッフの方が優しく接してくれてとても良かったです。参加してみて良かったです。貴重な経験となりました。
来週くらいに自森の文化祭があるようなので行けたらまた行ってみたいと思います。


太田先生にアドバイスを頂いて、今「窓ぎわのトットちゃん」を読んでいます。とても面白いです。読んでいて、にやにやしたり、ぽかぽか暖かい気持ちになります。歴史についてもっと調べていきます。


今週の土曜日に家族と皇居の見学に行きます。ものすごく貴重な体験になると思うので感想をまたここに投稿できたらいいなーと思います。
ではまた。


10 月
12

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。昨日映画を見てきました。『エヴァンゲリヲン新劇場版:破』を見ました。見ててめちゃくちゃ体に力が入ってしまい、見終わった後の疲労感。とても興味をもって見ることができました。原作やアニメとは大分違った内容になっているようなので、アニメも見てみたいなーと思いました。新劇場版は全4部作らしいので続きがとても楽しみです。


話は変わりまして、今日は前回のゼミで報告した目次案をアップします。正直、しっかり目次案が出来上がっているもっぺの後にアップするのはやりづらいですね.....


序論 はじめに
論文の表題(テーマ)を選んだ理由を述べる。
 自由の森学園を知った経緯から自森に興味を持ったということ

第1章 自由の森学園設立から現在までの流れ
1-1.創設者遠藤豊氏の考え
 遠藤豊氏が自由の森学園を設立しようとした考えやきっかけを文献をもとにまとめる。
1-2.創設後の自森の教育
 1985年の創設から現在までの自森の教育を述べる。
 Ex)豊富な選択講座、定期試験がない、通知表がない、生徒が作り上げる行事...etc

第2章 自森の長所
 1-2で述べた自森の教育から、学ぶべきこと・公立の学校でも模倣できそうなことを述べる。

第3章 自森の短所
第2章と同様に、1-2で述べたことから模倣できない部分や世間一般から批判されている面を述べる。

第4章結論
 上記の内容から、教育に携わる者として活かせる部分、模倣すべき部分と否定すべき部分をまとめる。


こんな感じで。第2章の「長所」、第3章の「短所」という言葉はなんだかしっくりこないので、流れをみて変えていきたいと思ってます。また、実際に卒論を書いていきながら節を追加していく考えでいます。仮案なので皆さんからご意見がいただけると嬉しいです。


今週の土曜日に自森の中学高校それぞれの校長の講演会?シンポジウム?があるらしいので行ってきます。場所は飯能市民会館っ!!!!!遠いんですよね....がんばりまーす(*・∀・)ノ"


10 月
5

キシリッシュのイキパンが当たりました

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。先週はブログを投稿せずすみませんでした。28日から5日間介護実習のため実家に帰ってました。実習はとても楽しく、その施設の職員さんにも利用者さんにもとても良くしてもらいました。「また来週おいでー」と言ってもらえました。どうにか力になれていたようで安心しました。


先々週に報告(発表?)したところ、「中学ではどのような教育がされているのか」という質問がありインターネットで色々調べてみたのですが、中学と高校を特に分けて紹介されてはいなかったので高校と同じような教育がなされているのではないかと考えます。定期試験がなく学期末には自己評価をし、豊富な選択講座が設けられているのではないかと思います。
さっき資料請求したのでまたそれ見ながら確認します。

他に「選択講座に理数系の講座はないのか」という質問があったのでしっかり調べてみたところ………ありましたっ!!!!!!!見つかりました理数講座!!!!!!ご紹介します。

・『数学A』…「数学A」の内容で、図形と空間(幾何入門)と確率・統計の二つを学ぶ。 授業にはプリント教材を用いる。前期は平面上の世界と球面上の世界(平行線公理)、 多角形(内閣と外角・合同条件・対称性など)、三角形の五心(重心・垂心・外心・内心・傍心)、 相似形と面積比・体積比などを、後期はデータの整理とその表わし方、代表値、 くり返し試行の確率、二項分布と正規分布、統計的な予測(平均値の推定や仮説の検定)などをとり上げる。 かいつまんで要点のみとなるが、基本的なことをしっかり学ぶ。
・『数学B』…「数学B」の内容で、ベクトル・行列の基礎と数列の二つを学ぶ。 授業にはプリント教材を用いる。前期は数の組としてのベクトルと矢線で表わされるベクトル、 ベクトルの計算と図示、内積、連立一次方程式と行列、クラメルの公式などを、後期では 離散的な関数としての数列、等差数列、等比数列、ネコがいるネズミ算、2乗・3乗の数列などをとり上げる。 いずれも実社会での応用がたくさんある事項。
・『センター試験数Ⅰ演習』…センター試験を受験する人のために、数Ⅰの問題演習をする。毎回、30分~60分予習をしてきてもらい、 問題を解くテクニックを学ぶ。
・『数学Ⅰ・Ⅱ演習』…高校数学ⅠとⅡの必修授業ではあまり学ばなかった分野に限って、演習を中心とした、解くことに重点を置いた 授業。もちろん、忘れた部分や理解できないところは、その都度学び直していく。
・『微分積分』…1)関数、2)数列と級数、3)微分とは、4)積分とは、5)微分積分の諸定理と関係、6)オイラーの定理、7)微分方程式、8)最近の話題から…という内容で構成。 オーソドックスに厳密に進め、数学の考え方、勉強法を各自につかまえてほしいと考える。 直感的な方法でやりたい人は、そんな進め方も考える。
・『歴史でたどる中学数学』…高校生になってから、“中学の数学をもう一度やり直したい” “中学の時、数学をもっとしっかりやっておけばよかった”と思っている人のために用意したが授業でやった通りにというのは能がないので、数学の歴史という切り口から中学の数学を見直せば、どんな世界が見えてくるか。人類4千年の歴史と供にある数学文化の歴史的な側面に触れながら、中学数学の世界を見ていく。2008年度は「数の歴史と方程式を解く」「図形について」「関数の見方と考え方」を3本柱にすえて、 その間に“数学史的なトピックス”を散りばめた。
・『現実の中の数学』…世の中には数字を使ったものが沢山あり、その中で本当は自分で実際に計算して確かめなければならないものは、多くある。そういう題材を取り上げて、普段あまり計算して考えないものに挑戦する。イタズラメールではよくあることであるが、相手からの数字を使った質問に答えていると「誕生日」などが知られてしまうといった「数当てゲーム」なども 数学的な原理によってカラクリが解る。議員を決める選挙の方法は本当に公平なのか、またその公平というのはどのようなことなのであろうか。公平を考えていく上で数字を使ってみる。その数字をどのように見たら公平が考えられるだろうか。実際に計算をしながら考えていく。
・『選択生物』…必修生物の土台を元に、理科系進学希望者で生物を選択しようとしている生徒も視野に入れ、前半では必修で扱っていない分野を中心に、実験もなるべく多く取り入れながら実施。後半では、科学技術と命の関係(遺伝子操作やクローンの問題と生命倫理)、社会的な問題(環境と人間の関係、野生生物保護の問題など)を考え、 ヒトと自然との共存は可能なのか、そもそもヒトとは地球にとってどんな存在なのかを話し合い、 ヒトが行き続ける限り命について考えていかなければならないということに気づいてもらうことを目標とする。
・『自由選択化学』…1)モノの究極とは?原子それとも元素?君はアリストテレス派?それともデモクリトス派?この二人に対話してもらおう。 2)「基礎知識」が分かってからじゃなくて、まず現象からその訳を考えてみる。「なぜ」と問いかけるくせを付けよう。「不思議」がいっぱい出てきたら素晴らしい。3)そして、現象を化学反応式で表現できる「楽しさ」を知って欲しい。4)しかし、いろんな化学の知識を身に付けないことには、あれこれの解答が得られないことに気がつけば、進路に向けての対応もOK。5)この講座の欲張りな夢は生徒が「サイエンスルポ」を作れるような人になること。
・『人間と環境』…これから激動の社会で生きていくために、身の回りにあるもの、起きている事が正しいのか問題なのかを考え、問題ならばそれに気づく事がとても重要である。そしてその問題を解決するため、またはよりよい方向へ向かわせるために、 自分は何ができるかを考え、行動しなければ意味がない。今ある問題に気づき、それを解決するために行動する事。人間と環境のあらゆる物事の繋がりを意識する事。そして自分が地球の中の一市民であると意識し、問題を解決していったりするための地球市民がより重要な存在であると考えている。生徒からでてきたテーマは昨年(2008)の実績では、ゴミのゆくえ、ウッドチッププロジェクト、ミミズコンポスト、ホタルの復活、屋上緑化の5つであった。この講座では、基本的な環境についての知識を身につけ、自分たちの探究したいテーマを一つか二つ決めて、それにむけて学びを深めていく。将来環境系の進路考えている人にも対応する内容。今年度(2009)もドイツの環境を重視した社会の姿の見学と環境教育施設の訪問、ドイツ一般家庭でのホームスティを予定。
・『僕らはアインシュタイン』…私達の周りの物達はお互いに関係し合い様々な存在や出来事をつくり出している。私達の体も、石ころも、草や木も、夜空の星も、皆同じ物で出来ている。自然はいつもUniqueでCreativeである。そこには、今もなおたくさんの未知がある。そしてそこにはとてつもなく不思議な宇宙の法則が息づいているらしい。そんな自然に誘われ、考える時。私達も、UniqueでCreativeになる。自然と対話して自由になる。自分の外の自然の未知と、自然から生まれた自分の中の未知と、その答えの向こう側に僕達が部分としてある世界のまだ見たことのない風景に会いに。時空を超えてこんにちは Einstein 博士。1)重力をあらためて考える-超落下/地球空洞説/宇宙の次元、2)ニュートンに問う-説明できない日常現象、3)動いているのは私か、世界か-マッハ原理、4)アインシュタイン16歳の問い-相対性理論/時間と空間
・『ロボットをつくる-自然の原理をデザインする』…私達の周りの物達は互いに関係し合い、様々な存在や出来事をつくり出している。自然はいつもUniqueでCreativeである。そして私達人間も、実に様々な物をつくって来た。私達は物を創り出すDesignerである。授業では年度末に行う、自分たちで考えたロボットによる競技大会をめざし、二人くらいずつのチームを作ってそれぞれが1年かけてロボットをつくる。どんなロボットをどうつくるか、そこに想像力を思い切り働かせ、工夫を凝らしたロボットをつくりたい。ロボットをつくるヒントは、自然界の様々な物、私達自身の体、そしてそれらと対話して来た人間の歴史の中にある。ロボットをつくることを通してそれらの事や考えを学ぶ事を大事にしたいと考える。はじめに基本を学んでからアイデアを考え、設計、製作へと進めて行く。
・『思想と数学』  ・『物理Beyond』

という感じです(´∀`) どの講座も楽しそうですね♪


今週の発表(報告?)では目次を作れるようにじっくり考えます。難しいです。頑張ります。
では今日はこの辺で(*・∀・)ノ"


9 月
22

自由の森学園・その教育 上巻 第2章学校とは何なのか

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。昨日勢いで前髪をつくったおっくんです。髪型が定まりません。
長い間ブログをupせずすみませんでした。前回、「本を読んだところまで紹介します」と書き、その後全く読まなかったので投稿しづらくなっていました。すみません。

今回は本を読んでまとめたものを投稿します。

(1)点数・成績万能の教育思想による汚染
・日本の学校に教育はあるのか
・教育という営みの中には、もともと何かの知識や技術を教えるということがあった。それと同時に、そのことをとおして生徒一人ひとりの内面に働きかけて想像力を解放し、ものの見方を育て、考え方、感じ方を育て、自らの世界観・人生観をつくり、自立した自由な人間として自分が生きていく力を身に付けることができるように手をかすということが、教育にとっては一番大事な事
・一人ひとりの子どもたちが、幼い時期には「模倣の作品」として、それから次第に「社会の作品」として、やがて「自分自身の作品」として自らを成長させていくことを助けることがとりわけ大切なことであるわけである。
・故人林竹二「いまや日本の学校は、点数信仰・成績万能の思(妄)想の濃厚汚染を受けて、水俣の海になってしまった」
・故人遠山啓「日本の学校は、『すべての子どもを賢い健康な人間に育てる』という教育の目的を見失って点数や成績という一元的な物差しで序列化し、選別する場になりさがってしまった。学校が教育の場であることをやめて選別する場になってしまっていることこそが、いまの学校の退廃の直接の最も根本の要因である」
・日高六郎「日本の教育は全体としてあまりにもおかしくなっている。それは教育とよべるようなシロモノではなくなっているとさえいえる。1961年に中央教育審議会が文部省に出した答申でも、そのなかで最も多く使用されている言葉は『能力』と『適性』である。『能力』でも『適性』でも、外側から青年たちに当てはめる客観的な物差しで、青年たちが内側から成長して身につけたものに対する評価ではない。外側にもうけられている物差しに自分をあわせていく、あるいはそれを目標としてひたすらそこに達することができるように努力する、そのことが学校教育のすべてになっている。そのなかで、子どもたち学生たちがすべて受身の立場に追いこまれていること、これが教育を破壊している根源だと思う」
・いまの学校が、その子一人ひとりの成長や発達の現実に即して、その子の可能性を育てる、その子が本当に人間らしい人間として成長することを助けるという、そういう場所になっていないで、どれだけ物を知っているか、どれだけ先生から伝えられた知識を覚えているかという一元的な物差しで子どもを優劣に格づけし、選別していく機関になりさがってしまっている。あるいは、意図的にそうしているということだけではなく、そうせざるを得ない教育の情況が完全にできあがっているといった方が正しいのかもしれない。
・教育というのは、一人ひとりかけがえのない存在としてこの世に生をうけた子どもたちが、本当に人間らしい人間として成長することを大人がどう助けるかということ

(2)学校は命を削る場、教師は弱い心を踏みつける人
・1985年4月長野県の女子中学3年生自宅裏の物置きで首吊り自死遺書「学校なんて大きらい みんなで命を削るから 先生はもっときらい 弱った心を踏みつけるから」「私が中学生をやっていてという感想文を書くとしたら教師には不信感しか持つことができなかったということを書くでしょう。教師なんて信用できません!あの人達が教えてくれるのはテストの点のとり方や本音と建前の使いわけくらいです。そのあまりにも大きい生徒への影響力を考えずに行動することも良くあります。 持っているものは人をはかるための巨大なものさし。そしてそれはどんなに古くなっても人に何を言われようと決して変えません。そして、生徒が私のようなアホばっかりなので自分が偉いと思い込んでしまっているのです。そのような人々に評価され、それが一生にもかかわるなんてとても悲しい。 私は学校教育に大いに不満です。(略)」 
 「私にできるもっとも効果的な抗議の方法」として自決
・1985年2月26日横浜市小学5年生S君「学校を破産する」といったことから教師の叱責をうけ、それを機に団地の踊り場から飛び降り自死している。→S君のような感受性の鋭い、かしこい子が生きられない場になってしまっている学校というものの体制と体質とを、根本から考え直さなければならないと考えていた矢先に中学3年生の自死

(3)何が学校を子どもの生きられない世界に変えてしまったのか
・今日の学校教育における子どもの不幸は硬直化と画一化を強くしている学校教育の中で、想像や創造の芽を早いうちからつみとられ、個性的なものや独創的なものの発達をおさえこまれて、子どもたちや若者たちが、自らの可能性をのばし、自主・自立の精神を培い、人間的な豊かさを開花させる機会と場をなくしていることである。 友人を蹴落としていく受験、競争体制の中で、本当の意味の「かしこさ」や「正しさ」や「優しさ」という資質を身につけることができないでいる場合も多い。
・どのようにしてこのような全国的規模で学校という教育の場に硬直化や退廃ということが起こってしまったのか。それは、人間性の本質に根ざす多元的な価値にもとづく教育の場であるはずの学校が、テストの点数とか偏差値とかの一元的な基準による選別と差別の場になってしまっているからである。
・何が学校に変質、退廃をもたらしてしまったのか。
 故人林竹二…中央集権化された文部省の行政が産業界・経済界の要求に応じて、学校教育を産業に奉仕させる道を選んでしまったことが、学校に教育がなくなってしまっている根本の原因であると指摘。たしかに、「人格の完成をめざして行われていた教育基本法を基底とする戦後の教育が否定されて、第三の教育改革と称する中教審答申(1967年6月)にみられるように、産業の必要に応ずる多様な「人的能力の開発」が学校教育の目的とされるようになった。あるいは、人間を人的能力すなわち生産能力の一つとしてとらえ、経済発展のための資源としての人的能力を開発することが教育の中心課題となってくる。それは他方で3~5%のハイ・タレントの析出を、多くの中級技術者の養成、そして安い労働力の確保を目指すものとなり、偏差値や点数による選別教育と結びつかざるを得なくなってくる。そして「人づくり」政策が教育の中心課題となってくる。

(4)学校とは何なのか
教育は義務か権利か
・日本国憲法第26条
 ①すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
   →権利 空文化
 「to receive an equal education correspondent to their ability」→能力に応じて平等な教育を受ける権利
 「その能力に応じて」→「発達の必要に応じて」と読むべき
 ②すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。→義務
国家と国民が対立したとき、権利と義務との区別は明確にしておくべきだ。その点は、これからの社会にとっての望ましいあり方は、次のようになるべきだろうと考える。国家は、国民の教育要求を完全に満たすための教育施設を準備する義務がある。“義務教育”ということばは国家に向けたものである。一方、国民は自分の希望する教育を受ける権利がある。それも“能力におうじて”ではなく“発達の必要におうじて”という条件のもとにおいてである。そして、その反面、自分の望まない教育を拒否する権利をもつ。つまり、国民にとっては“義務教育”ではなく、“権利教育”ということばを使うべきである。
学校の権威と総花主義
・今日の学校とは。それは生徒もしくは子どもと教師という身分をもつ人間の集団である。今日の学校をささえているものはこの身分制ともいうべきものである。これをとり去ったらこの性格は根底から変わらざるを得ない。
教科内容の集約化と質を高めるしごと
・学校では教師が教える授業は午前中だけとし、午後は生徒の興味や関心によりそった自由研究や選択学習の時間にすべきであると考えてきたし、主張してきた。そういうことをやると、子どもや若者たちのいわゆる学力の大幅な低下が起こるのではないかという心配が生じてくるかもしれない。しかし教える内容をもっと重点的にし、集約化したら決してそうはならないと考えている。その意味では、現在は雑多な内容を無系統的につめこんでいるといえる。それをなおすために、内容を量的に縮小し、質的に高めることを考えるべきである。つまり、教える内容をもっと少なくする。そしてだいじなことだけを徹底的にわかるようにする。ゆっくりと考えさせることができるようにするのである。
・だいじなもの、急所にあたるものは一つの学年でせいぜい二つか三つである。それを徹底的にわからせるようにすればよい。それ以外のよけいなものはやめる。おとなになって本を読めばすぐわかるような知識は、学校ではむしろ教えないくらいの方が効果がある。
必修科目を少なくして選択科目の幅を広げること
・現在の学校には、教育内容の総花主義というべきものがある。→つめこみ教育が普遍化し、大量の学問ぎらい、学校ぎらいをつくりだしつつある。
一斉授業のほかにテーマ学習など、授業の方法を多様化すること
・生徒が中学生ぐらいになったら、教師がいくつかのテーマをだし、生徒がその一つを選んでグループをつくったり、ときには生徒がテーマをつくって、そうしたテーマについて調査したり、研究したりして、その結果を本にまとめていくような授業も展開する必要があると考える。→目的“学びかた、研究の方法を学ぶ”
教育のグランドデザインを書き変える
・①21世紀の教育は小学校から中学・高校・大学までの授業は半日にすべきだろうと考えている。午後は生きていてよかった、生きているとこんなに楽しいこと、いい経験ができる、ということを教師も子どもも発見する時間にすればよい。
 ②小さい学校をたくさんつくる。少ない資金で小さい学校がどんどんつくれるように、学校設置基準を変えていくべきである。

以上が上巻に書かれていた遠藤氏の考えです。今週のゼミでは現状や遠藤氏の意見に対する私なりの考えを発表(報告?)できたらいいなーと考えております。
ここには載せませんでしたが、横浜市小学5年生S君の詩が印象的だったのでそれも紹介したいです。

頑張りまーす

おっくん

昨日日を跨ぐ前にここまで書いて公開し忘れてたみたいですね・・・今気付きました。
すみませんでしたーー


8 月
17

冷えてます。熱いです。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。

先週は投稿せずすみませんでした。前回投稿した後、すぐに実家へ帰ることになってしまい、卒論の本を持って帰るのを忘れてしまいました。今日は時間が出来たので、一旦埼玉に戻ってきています。またすぐに帰ります。今度は本を忘れずにっ!!!

甲子園がアツいですね。昨日は私の地元である群馬県の代表校、農二が青森山田に延長の末勝利しました。群馬の学校が勝ち進むことはあまりないので、昨日はテレビ中継を見ていてテンションが上がりました。次も頑張ってほしいです。

もう帰らなくてはいけないので、このへんで。


8 月
3

ナツい、アツ。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
今日は久し振りに学校に行きました。やっと本を借りました。『自由の森学園・その教育』です。1日1章は必ず読むとノルマを課さないと読めそうもないので頑張りたいと思います。しかも、これは上巻で夏休み中にしっかり下巻まで読めるように、日々のノルマ達成を心がけたいと思います。

卒論以外の本は、ノルマを課さなくてもどんどん読めるのに....先々週に読んだ本を何冊か紹介しました。あれ以降読んだ本を載せます。
伊坂幸太郎『終末のフール』、重松清『青い鳥』、三浦千賀子『自閉症の中学生とともに―松原六中・青空学級担任日誌』、恩田陸『夜のピクニック』、湯本 香樹実『夏の庭』、魚住直子『非・バランス』、瀬尾まいこ『卵の緒』、西加奈子『あおい』です。
重松清さんの『青い鳥』はとってもおススメです!!!!!!私も母に薦められて読んだんですが、もう、ホント母に感謝です。紹介してくれてありがとうと感じました。吃音という障害をもった教師が中心となった短編集なんですが、吃音だからこそ大切なことしか伝えない、伝えたいことしか伝えない。伝えたいことだからこそ一生懸命伝える。ひとりぼっちの生徒のために、出会うために、間に合うために臨時に赴任してくる....という先生です。映画化もされているようなので、興味があったら本屋さんorTSUTAYAへっ!!!!!!
三浦千賀子先生の『自閉症の中学生とともに―松原六中・青空学級担任日誌』は自閉症児の可能性を感じました。私は今まで、音として言葉を発することが出来ない子には言葉がないと思い込んでしまっていましたが、この本を読んで、自閉症児でも言葉はしっかり心の中にあって、外に出すことが出来ないだけであると気付きました。三浦先生は筆談を用いて、自閉症の生徒と会話をしていました。生徒は会話が出来ることによって、先生も自分自身も大好きになったという記述があって、生徒の目線で親身になること、その生徒ひとりひとりに適した教材を選定することの大切さを実感しました。
この2冊はとっても大切だと思える本になりました。将来のことで悩んだときには再び手に取ることになると思います。

昨日映画『サマーウォーズ』を見てきました。絵に迫力がありました。白を基調とした絵は綺麗だなーと感動しました。人との繋がりの大切さを実感できます。パンフレットが欲しかったのですが、レイトショーで見たので出たときにはお店が閉まっていました。残念です。もう一回見ても良いかなーと思える作品でした。

7月30・31日とB-KIDSキャンプに参加してきました。内容は盛りだくさんっ!!!!1日目は宿に着いてから、BAKA-KIDS(高校入試レベルの問題を全員で本気で解いて、No.1BAKAを決めます)、フリープログラム(レクみたいな感じでした。最終的には各チームでコントをお披露目しました)、BBQ、キャンプファイヤー(参加した4年生女子で本気マイムマイムをやってテンションが上がりました)、花火、全体飲みという流れでした。2日目は大運動会(私は飴玉探しで顔を真っ白にしました。おいしい。チームは最下位で罰ゲーム)、流しそうめん、スイカ割り、川遊び(スウェットのまま川に投げ込まれました。足がつりました)で終わりです。天気予報では雨と言っていたのですが、ギリギリ降らずに楽しく夏の始まりを過ごすことが出来ました。いやー思い出しただけでニヤニヤしてしまいます(*´艸`)また、9月の中旬には夏合宿があるのでそれを楽しみに、卒論の方を進めていきたいと思います。

来週は本の内容を読み進めたところまで紹介できたらなーと思います。
ではまたー(*・∀・)ノ"
(おっくん)


7 月
27

寝起きです。

Posted by a6hootazemi in おっくん, 未分類

お疲れ様です。おっくんです。
今日は「教育方法の研究」のテストを受けてきました。公式のカンニングペーパーに書き損ねた問題が出てしまい、また時間が足らなかったということで空欄にしてしまった問題もありましたが、カンニングペーパーには空白がないくらいみっちり文字を埋めたのでそこを考慮していただければ単位取れるかなーと思っているところです。

花火の話題で思い出しました。中学生くらいのときに『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』というタイトルの邦画をDVDで見ました。もう大分前のことなので内容を忘れてしまっているのですが、小学生が花火を下から見るか横から見るかで花火の形が違うんじゃないかという話があったようななかったような(・ω・`)完全にあいまいです。けど、子どもからしてみれば、打ち上げ花火を下から見ても横から見ても円形だというのは不思議かもしれませんね。少なくとも私には不思議に思えました。夜空に球形ってのが理解しきれない、想像力のない子どもだったんですねー.....作品は結構評判がいいようです。まだ幼い奥菜恵が見れる貴重な作品となっておりますので、興味のある方は是非TSUTAYAへっ!!!!

22日に実習校へノートを取りに伺ってきました。実習終わりにノートを提出した時に指導教官から「7月の中旬くらいならノート出来てるだろうから、そのくらいになったら取りに来てください。取りに来るときには前日に電話して。」と言われていたので、先々週電話連絡したところ「今忙しいから来週にしてくれ。」と言われ、そのときに「22日の11時」と約束をしました。私は、約束通りぴったり11時に伺ったのですが「これから部活の練習をみてやらなきゃいけない。その後三者面談があるから6時くらいに来て。」と言われ、出直すことになってしまいました。そしてまた6時に伺ったところ「調度今出来上がったよー」と指導教官。少し心配になり、校長先生教頭先生の捺印があるか見たところ押してないっ( ̄□ ̄;)!!!!私ちゃんと提出したときにお願いしたのにっ(;□;)という感じでてんやわんやでした。教師って忙しいんだなーと思いましたが、それ以上にこれくらいいい加減の方が教師ってやっていけるのかなーと思いました。家にいた祖母は「えぇかんぺ(いい加減)な先生だの」とちょっぴりお怒りモードでした。
ノートを取りに伺った際に、実習後のクラスの様子を話してくださいました。特学の判定が出ている子は定期試験に耐え切れずトイレに閉じこもってしまったそうです。このことをその子の親御さんに説明し、特学に入ることを薦めたそうです。それを聞いて、なんだか悲しくなりました。その生徒は私の実習中に「国名テスト」というのがあって、合格まで再テストを繰り返し、最終的には見事合格をしていたのです。しっかり頑張れるということ、合格できるという喜びを知っているのだからもっとどうにか、何か出来たんじゃないかと、そういう気持ちでいっぱいになりました。やはり通常学級で生活、学習するのは難しいんですかね....考えさせられます。

今度の30・31日にB-KIDSでキャンプに行って来ます。花火やバーベキュー、流しそうめん、大運動会が予定されているのですが天気が悪そうで心配です。代持ちである3年生が色々と頑張ってくれているみたいなので、4年生はそれを支えつつ盛り上げて楽しみますっ!!!!楽しみです(´∀`)

ではまた来週(*・∀・)ノ"
(おっくん)


7 月
20

たった今、先輩から呼び出しの電話がっ!!!!!!

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
先週実家に帰るとここに投稿したのですが、投稿後実習校に電話したところ、「忙しいから来週にしてくれ」と言われてしまいました。なので、明日こそ実家に帰ります。実習ノートを取りに伺います。先週は成績を付ける期間ですもんね。それは忙しいです(・ω・`)

教採の一次が終わり、私はもう完全に勉強に対するやる気がなくなってしまいました( ´д`)あのときの熱意は、今は読書に注がれています。教採後の一週間で私は4冊読みました。伊坂幸太郎の『死神の精度』『砂漠』、山下久仁明の『ぼくはうみがみたくなりました』、水野敬也の『夢をかなえるゾウ』を読みました。
伊坂幸太郎の本はどれを読んでも面白いなーと感じます。言い回しであったり、登場人物の独特さが読み終わった後に心に残る感覚があります。
『ぼくはうみがみたくなりました』は、主人公の女の子と自閉症の男の子が偶然出会って、海を見に行くちょっとした冒険という感じのお話でした。『女の子』『男の子』と表記しましたが、私たちと同じくらいの年齢なんです。『男性』『女性』と表記すべきかちょっと分からなかったんでこのままで。あ、ちなみに、この主人公の女の子の名前が私と一緒なんですっ!!!苗字は違うんですが、めちゃくちゃ運命を感じました☆笑
『夢をかなえるゾウ』は今さっき読み終わったんですが、なかなかのギャグでした。自分が成功・成長するには何を意識すべきかを考えさせられる内容でした。これは多くの人が読むべきだなーと思いました。売り上げが100万部突破しているらしいので、読んでない人を見つける方が難しいかもしれませんが、読んでない方はぜひ書店にて☆

明日は久しぶりのボランティアに行ってきます。その後実家へ。父とお酒を酌み交わすのが楽しみです。ではまたー(*・∀・)ノ"


7 月
14

自己採点

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
昨日は投稿せず、すみませんでした。サークル後教採を受けた仲間と飲みに行ってました。久しぶりのビールでした。

さっき教職教養と専門科目の自己採点をしました。やばいです....。専門科目の勉強不足を痛感しました。くやしいです。

今日はこれから実家に帰ります。実習校に実習ノートを取りに行ってきます。

ではまたゼミで(*・∀・)ノ"


7 月
6

追い込み!!!!!

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
試験まで一週間切りましたね。頑張りましょう。
ここまで勉強していると浪人時代を思い出します。盆暮正月関係なく予備校に通いひたすら勉強の日々。めちゃくちゃ楽しかった思い出です。毎日が充実してました。

今日は特に何も書けません(;□;)頑張りましょうとしか言えないです.....頑張りましょう笑
ではさよなら(*・∀・)ノ"


6 月
29

空きっ腹

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
最近やぁぁっと勉強に集中できるようになりました。実習が終わりこっちに帰ってきてからの一週間弱は、燃え尽き症候群といいますか、ぽわぽわしてました。全く集中できず、焦りもなくぽわぽわ。焦りのきっかけはTOEFLを受けるサークルの仲間の一言。「あと二週間しかないんだよっ!!!!!」と喝を入れられ、気持ちが切り替わりました。集中が切れてしまったときは、実習最終日に生徒からもらった手紙や色紙を読み返します。気合が入ります。頑張れます。

先週の渡辺君の発表について少し触れます。
重要事項の一つ『言語環境を整える』のところで、「教師は自分のことを『私』『先生』と呼ぶ」と言ってました....よね??私は教育実習中は基本的に休み時間でも授業中でも『私』と呼んでいました。しかし、私の他にいたもう一人の実習生は自分のことを『先生』と呼んでいたんですね。そのことに関して、彼女の指導教官は「自分のことは『先生』と呼ぶべきではない」と指摘していました。そのとき理由も伺ったのですが、ちょっと忘れてしまいました(;□;)すみません。ちなみに私の指導教官は、自分のことを『先生』と呼んでました。
私自身の個人的な考えとしては、自分を『先生』と呼ぶことで子どもとの距離を感じてしまう気がしました。「そんな偉くないのに『先生』て....」という考えがあって、自分のことを『先生』と呼ぶことに対して気が引けていました。他の先生方や実習生が自分自身をどう呼んでいても気にはならなかったのですが.....。
こういった考えがあったのですが、自分を『先生』と呼ぶこともありました。私が居候したクラスには特学の判定が出てるにも関わらず、親の意向により通常学級に所属している生徒がいました。その生徒と休み時間や放課後に個人的に話をするときだけは、自分を『先生』と呼んでましたね。生徒や場面に応じて使い分けていました。

あと、授業中は『~君・~さん』と呼ぶということに関して。
私の指導教官は授業中も休み時間も、男子は下の名前の呼び捨てやあだ名で呼び、女子は下の名前に『ちゃん』をつけて呼んでいました。それは、生徒と親密になるためだとおっしゃっていました。
私が授業をした学年(1年生)は、小学校6年生のときに学級崩壊していた学年でした。いじめや授業放棄があったそうです。聞いた話によると、6年生のときの授業参観で生徒は教師の発問に対して何も答えなかったそうです。教師が一方的に話す授業参観.....怖すぎますね。そんな感じで、入学当初は教師に対して斜に構える生徒が多かったそうです。それの対策として、親密になる、信頼を得るために下の名前で呼んでいるとおっしゃってました。私はそれを真似て、授業中も休み時間もあだ名や『ちゃん』付けで呼んでいました。
研究授業前に道徳の授業をやったとき、研究授業かのごとく校長教頭教務主任の先生、隣のクラスの先生が見に来られました。私はそのときも普通に生徒をあだ名や『ちゃん』付けで呼び授業をやりました。その後、先生からご指摘をいただく機会があって、その時に教頭から「『ちゃん』付けは辞めた方がいい。授業と休み時間をしっかり区別するように呼び分けた方がいい」と言われました。そのご指摘をいただいた後の授業は苗字に『君・さん』を付けて呼ぶようにしました。
授業観察で3年生の授業を拝見させていただいたとき、3年生を担当している先生方は全員、生徒を下の名前で呼び捨てでした。授業中も休み時間もです。
授業中と休み時間をしっかり区別するために呼び分けた方がいいという考えも、親密になるために『ちゃん』付けや呼び捨てで呼ぶという考えもどちらもありだと思います。授業を受け持っているか、担任を持っているかで考えが異なるのかなとも思いましたが....
私がもしも教師になったら、授業中も休み時間もあだ名や呼び捨てで生徒を呼ぶと思います。親密になりたいからです!!!!!!甘い考えでしょうか??実際に教師になってみないと分からないですけどね。

こういうのはゼミのときに発表した方がいいですよね....すみません。
では、勉強に移ります(*・∀・)ノ"(おっくん)


6 月
22

帰って来ました。

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
実習終わりました。振り返ってみると三週間はあっという間でした。最初のうちは、早く終わって欲しいとずっと思ってましたが、実際終わってみると不思議な感じがします。ぽっかりです。
そういえばですね、私が配属されたクラスには特学の判定が出ているにも関わらず、親の意向により通常学級に所属している生徒がいました。その子には、授業中は臨採の先生が付きっきりになっていたのですが、その臨採の先生というのが私の高校時代の同級生でした!!!!!!!!本当ビックリしましたね。こんなところで再会かと。彼にも私の授業を受けてもらった(受けざるを得なかった)のですが、何だか気まずかったです。気恥ずかしいといいますか....不思議でした。

今完全に眠気に襲われています。文章がまとまりません。限界です。すみません。寝ます(*・∀・)ノ"


6 月
15

ラスト一週間

Posted by a6hootazemi in おっくん, 未分類

お疲れ様です。おっくんです。

今日は指導教官が午後から出張になってしまい、担任がいない状況で給食やら掃除やら帰りの会をやりました。
学年主任の先生が代わりにいらっしゃったのですが、遅れて来られたり、普段の様子が分からなかったりしていたので、私がいつも以上に声を張り指導しました。
掃除の後、なかなか帰りの学活が始まらなかったので、教壇を強く叩いて『ふざけんな』と小声で怒りました。
生徒は静かになり、順調に学活は進められました。
指導教官からは『実習生は怒らなくていい』と言われてますが、場面や状況に応じて締めなくてはいけないときはしっかりやるべきだと感じました。
休み時間は私も生徒とふざけますが、授業や学活などは真面目に、メリハリが大事であると実感しました。
褒めることより怒ることの方が難しいのでいい経験になったと思います。

さて、明日は道徳をやるので今から教材研究します(*・∀・)ノ"
(おっくん)


6 月
8

2週目突入

Posted by a6hootazemi in おっくん, 未分類

お疲れ様です。おっくんです。みんな実習が終わる頃でしょうか?私はまだ折り返してもいません。まだまだこれからです。
今日は初授業でした。扱ったところは『国々の誕生と古墳文化』です。
5月末の新聞に邪馬台国論争の記事が載っていたので、それを授業で紹介したら指導教官に褒められました(´∀`)それ以上に反省点を多々挙げられたのですが…
明日は同じ単元を他のクラスでやるので、反省をいかせるように頑張りますっ!!!!
それでは−(*・∀・)ノ"
(おっくん)


6 月
1

実習1日目

Posted by a6hootazemi in おっくん, 未分類

お疲れ様です。おっくんです。

さっき実家のパソコンから投稿しようと試みたのですが、もう古すぎてダメでした。光回線が主流の今、実家はそれではなく....何なんでしょうか(・ω・`)めちゃくちゃ遅いんです。
ということで携帯から失礼します。

今日から実習始まりました。先日、事前指導で1日学校にいて少しは様子が分かっていたのですが、また今日一日中緊張してました。右も左も分からず不安で何をすればいいのか、あわわあわわという感じでした。
全校集会で就務式があり全校生徒の前で挨拶したのですが、上手く言葉が出てこず何を言ったのかも覚えてません。
分からないことだらけで、このままじゃ何も出来ないと思い指導教官に事細かに質問しました。そしたらやっと落ち着いてきました。分からないことがあったら躊躇わずに聞くっ!!!!そうにしないとぽやぽやしたまま終わってしまいますね。

今日の講話を別のノートにまとめとこうと思います。また明日から頑張りますっ。
ではまた来週−(*・∀・)ノ"
(おっくん)


5 月
25

明日帰ります。

Posted by a6hootazemi in おっくん, 未分類

お疲れ様です。おっくんです。さっき先輩の家に行ってご飯をご馳走になってきました。めちゃくちゃ美味しかったです。女子力(*´艸`)
先日のゼミでは出席者3人の中で発表しました。資料は全員分刷ってありますので、実習から帰ってきたら配布します。自森の卒業式について、プロジェクターを使って発表しました。ムービーをみんなに見てもらいたかったのですが、みなさん実習中ということで....少し残念でした。また今度ですね。

明後日は実習校へ事前指導に伺います。朝8時に登校し、部活まで参加させてもらえるみたいです。もう、なんか、今からめちゃくちゃ緊張してますーー!!!!教育実習に関して色々なことが不安で仕方がありません。泣けと言われたら即泣けるくらいナイーブになってますーー。私弱ーい。
教育実習は楽しいと先輩方の話をたくさん聞いてきて今まで楽しみにしていたのですが、こう、目前に迫ると逃げ出したくなってしまいますねー。くそう。頑張れっ!!!!!!!!
ゼミのみんながここに色々書き込んでいて、それが励みになってたりしています。みんなが頑張ってるから私も頑張れる。そんな気持ちを大事に行って来ます。
それではまたー(*・∀・)ノ"(おっくん)


5 月
19

親子

Posted by a6hootazemi in おっくん

お疲れ様です。おっくんです。
先日髪を切りました。縮毛矯正をかけ、油断すると髪がぺちゃっとなってしまうので、ワックスでてっぺんにボリュームを作りたい今日この頃でございます。

はい。では、先週予告した通り『親子関係』の話について投稿したいと思います。
私の親友は現在東京学芸大学に通っていて今年教採を受けます。親にはずっと地元の県を受験すると言っていたのですが、東京都の方が大学の仲間がたくさん残るということで、結局東京都を受験するという意志を固めました。それについて親と話し、親は言葉では納得していても気持ちの面では納得し切れてなかったようです。それが彼女にとってはとても苦しく辛いことだと言っていました。親の期待に副えていない自分が嫌という感覚でしょうか。大学に通わせてもらって、ましてや予備校にまで通わせてもらったのに.....
彼女には3つ上に兄がいるのですが、兄は指定校推薦で大学に進学したものの退学し、現在フリーターだそうです。そういった兄がいると妹である彼女に期待がかけられます。その期待に応えたいと親に気を遣う子どもは普通なのでしょうか?
通知表でも同様のことが言えると思います。親から褒められたいが為に勉強を頑張って良い成績を取る。極論、自分の子どもを数字で判断しているということになります。自分の子どもの実態が見えてないのでは。
ちなみにウチの家族は通知表の数字よりも、道徳的行動の評価(?)の方に丸がいくつあるかの方が大事だという考えをもっていて、通知表はさらっと見る程度ですぐに仏壇にお供えする感じでした。なので成績が良かろうが悪かろうが「ふーん」という感じでした。成績についてあまり厳しく教育しない方針であったことには感謝していますし、自分が親になったとき、自分も数字に囚われないようにしたいと思っています。
先日、現在越谷市の小学校で臨採をやっている先輩と話したときも親の話が出ました。今小学生の親世代は体罰が認められていた時代だから、親が教師を信頼していない。また、一人っ子が増えて子どもに注ぐ愛情が大きいと。だから、学級通信を出すときクラスの様子の写真を載せるにしても全員が平等に写っているか気を配らなくてはいけない。「あそこの家の子は載っているのにウチの子は載っていない。不平等だ!!!」と抗議の電話がかかってくるとか。教師が親の理解の得られない行動をしようものならすぐ苦情。そういった親の行動をみて子どもは普通だと感じるのか、それとも「先生には悪いけど親には逆らえない」と大人に気を遣うのか。

何だか、文章がうまくまとまりません。何が書きたいのか、あの飲みで何を話したのか曖昧になってしまいました。
気を遣うことが当たり前という考えは否定できません。育ててもらった、養ってもらっているという意識を持っていれば親の期待に副いたいと思うのではないかと思います。しかし、親の期待に反して自分のやりたいことを貫くという気持ちも十分理解できます。それこそが親の望んでいることであるのかもしれません。
よく分かりませんね。しかし、私自身は書いたことでちょっぴりスッキリしました。
実習中のみなさま、頑張ってくださーい(*・∀・)ノ"(おっくん)


ホットワード 文教大学 人間科学部 太田 おっくん いいんちょう
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