こんばんは!まるです。今日駅のところにあるイタリアントマトで勉強していた時、偶然小免の富岡さん(とむ)と会って児童養護施設について聞いたのでそれを書きます。
とむのバイト先にいる子どもたちは大半が家族から虐待を受けている子だそうです。仕事内容は学童と似たものであるようですが、子どもたちは親からの愛情不足からなのかいきなり癇癪を起したり、人の話を聞かないなど普通の子たちとは異なる点が見られるようでした。
児童養護施設について調べたところ、施設から出た人の進路は約7割が高卒就職。その理由は学費不足だそうです。
親が子どもを虐待したり、育児放棄することはなんの罪のない子を己の無責任さから未来を奪う愚かしい行為なのだと再確認させられました。
施設で働く人たちはみな子どもの境遇を知っているため、親からもらえない愛情を与えてあげたいと考えているそうですが、社会に出て自立できるよう、厳しく教えなければならないと、子どもたちには厳しく教育しているそうです。
愛情を注ぐということ=甘やかすは間違いです。しかし虐待という悲しい過去をもつ子どもたちに家庭で甘えられない分せめて施設では甘えさせてあげたいと考え、私ならその子たちに厳しく接する自信がありません。本当にやさしい人っていうのは厳しくもその子を支え続けてくれるひとなのかな。
自分は人に嫌われるのが嫌いで、人を叱ったりするのが苦手です。しかし嫌われてもいいからその子のために「言わねばならないことははっきり伝える」という勇気をもてるようになりたいと思いました。
2月も半ばになりました。私は、テスト・レポート提出が終わったその日にインフルエンザにかかり、1週間ほど寝込みました。そして、病み上がりの体で中央大学と文教大学の金管・打楽器パート合同合宿に参加し、昨日帰ってきました。
合宿は2月16日に行われる「ドリームブラス2012」という、中央大学と文教大学の吹奏楽部合同の金管バンドの演奏会のための練習合宿でした。
そこで、私がトップをする曲に「ルーマニア民族舞曲」という曲があります。
私は、この曲が最初好きになれませんでした。作曲者のバルトークの作品で「中国の不思議な役人」という曲があります。この曲にはトロンボーンの長く難しいソロがあり、コンクールの自由曲としても多くの団体に演奏されている曲です。私は、「ルーマニア民族舞曲」もそのように、トロンボーンが活躍できる曲だと思っていたのですが、いざ譜面をもらってみると、休みは多い、目立つのは少し、はまりにくい和音が随所にある、という曲で、なんだか期待外れの印象を持ってしまいました。
しかし、曲について調べてみると、その面白さを発見することができました。
まずは、原曲はピアノの独奏曲であること。これにはびっくりしました。確かに言われてみれば、楽器同士の複雑な絡みもなく、主旋律と伴奏の2つで構成されています。オーケストラの曲をブラスでやることは多いですが、ピアノ曲をブラスでやることはめったにないので、面白いと思いました。
また、作曲者のバルトークが民族音楽研究家でもあったことを知ったのは、この曲に対するバルトークの思い入れが感じられるようになり、大切に演奏したいと思えるきっかけになりました。第一次・第二次世界大戦下の中で、民族音楽について研究することは容易ではなかったと思います。その中でも、民族音楽をテーマにした曲を書き上げたバルトークの思いを大切にしたいと思いました。
話は変わりますが、1つの曲を演奏するためにその曲について調べることで、曲の奥深さや面白さに気づきます。そして、知らなかった時よりも楽しく演奏できたり、その曲のことを好きになったりすることができます。作曲者やその曲ができた時の時代背景のことを知ると、その曲のイメージが頭に浮かび、「こう演奏したい」という思いが生まれます。
卒論もきっと同じなのだと思います。
私は「発表すること」をテーマに研究したいと思っています。研究を進めていき、発表することの奥深さ・面白さを発見して、自分が教師になった時に「こう活かしたい」と思えるような研究にしたいです。
その研究の結果を、このブログにどんどん書いていけるように、こつこつ頑張ります。
最後に…
♪♪Dream Brass 2012♪♪
~Bunkyo & Chuo British Brass Concert Vol.13~
日時:2012年2月16日(木)
場所:府中の森芸術劇場ウィーンホール
開場17:00/開演17:30
曲目:たなばた(酒井格)
ハイランド讃歌(P.スパーク) ほか
指揮:濱本広洋 ほか
入場料:無料(全席自由)
ドリームブラスとは中央大学・文教大学吹奏楽部の金管打楽器パート有志で結成される英国式ブラスバンドです。毎年両吹奏楽部の活動が一段落するこの時期だけ楽器を持ち替え、吹奏楽とは違った音楽形態に挑戦しています。
ぜひ皆様お誘いあわせの上ご来場ください。団員一同心よりお待ちしております!!
まず報告としてこの間渡辺さんとも相談した結果、卒論は食育について調べていきたいと思います。
また先週研究授業の報告をしたいといいましたが最近忙しくてそこまで手が回ってないんです。とりあえず保留で。すいません。
最近忙しいといいましたがそれは春休みの予定立てです。主に勉強会の計画がいっこうに進まず悩んでいます。人数も増え、取り組む内容も濃くなり、何を基準で考えていけばよいか分からなくなってしまっています。勉強会にバイト、補助教、地味にサークル、これからは講座、論作文ゼミ、教採合宿などと色々詰まってしまっているのが現状です。少しでも早く把握して効率の良い生活を送っていきたいです。
そのような中、先日少し早いバレンタインのチョコをもらえました。(義理だけど・・)
ちょこっと元気が出ました。女性陣!今年はどんな感じですか?
とりあえず僕はいつでもウェルカムですよ。(笑)
嬉しいような、悲しいようなバレンタインデー。この日に何組のカップルが誕生するのでしょうね?
「イベントがある日にカップルになる可能性」みたいな卒論も面白そうですね。
淡い期待を胸に14日、講座に乗り込んでいきます。
話は変わりますが、私が通っている補助教先ではインフルエンザが流行しています。2クラスが学級閉鎖。
他のクラスも休みがいっぱいでした。そのような状況である先生に「藤田君、先生になるには免疫力や体力が必要だよ」と言われ、給食を学級閉鎖明けの児童10数名のクラスで食べました。休んでいる子がいる反面、教室にいる子どもはすっごい元気でした。昼休みも全力で鬼ごっこをして元気をもらいました。
しかし家に帰ったら少し体調が悪くなってしまいました。寝たらだいぶ良くなったのでよかったです。
友達にもインフルエンザにかかってしまった子もいます。
みなさん、体調管理には十分気を付けてくださいね。それでは今日はこの辺で。
夜分遅く、さらにいつのまにか土曜を過ぎ、水曜までのびてしまいました・・・すいません。
今日は主体性ってどう身につけさせるのか。まあ自分も欠けているので、どうやって身につけるのかを考えたくなったのでそのことについて書きたいと思います。
主体性=自分の意志・判断で行動しようとする態度
と国語辞典には書かれています。さっきちょろっと調べてて出てきたんですが、実は企業も人材に求める一番大きなポイントは主体性を持った人間かどうかだそうです。
これを養うって結構難しくないですか。
学校教育において協調性は必要不可欠なものだと思います。子ども目線で考えると、自分は本当はこれがしたいと考えていても、周りのことを気にして自分の考えを貫きつづけることをやめてしまう時があると思います。
そんなとき、友達に合わせたほうが正しいのか。自分の主体性に基づいてわが道を進むべきなのか。子どもたちはどう考えるのでしょうか。
まあ主体性をもって行動するというのは色んな場面ごとに意味は変わってくるのだと思いますが。(それが善か悪かなど)
学校や社会などの集団において自分という存在をどこまで通していいのか。学校教育のなかで求められ、養われる主体性というのはなんとなく自分の中で、大人にとって扱いやすいものに見えてくるのです。(私が少々ひねくれているだけかもしれませんが)
主体性とは自分の欲求を理解し、行動できる環境でないと成り立たないものだと思います。それを学校という集団社会のなかでどう養うか。
しばらく考えたけど思い浮かびません(笑)
自分の考えを大事にすることが後々主体性の元になっていくのでしょうかね。
などと考えているマルでした。おわりです。
2年生の方々DVDありがとうございました。頑張って勉強します。
こんにちは!ちさまみです♪
暦の上では立春を過ぎましたが、まだまだ風が吹くと、寒くてしょうがないですね。
大好きな春が早くこないかと、待ち遠しくてしょうがない日々を送っています。
さて、先日、先輩の家で、あるゲームをやっていました。そのゲームとは、テレビ画面に向かってリモコンを振ったりしながら、ボーリングやバスケットボールのスリーポイントを決めるゲームなど、いくつかのゲームが入っているものです。そのゲームがあれば、十分に遊べます。
中でも、ボーリングは、何人かでできるので、本当にボーリング場に行ってやっているみたいでした。むしろ、ボーリング場でやるよりも、簡単にたくさんのピンを倒すことができるので、楽しかったです。持つものもリモコンなので、本物よりも軽く、疲れることもありません。テレビ画面に向かってリモコンを振るだけなので、場所もほとんど取りません。
私が子どもの頃は、こんな素晴らしいゲームはありませんでした。ボーリングゲームをしたいと思ったら、空いたペットボトルを集めて、ゴムボールを転がして、狭い部屋を上手く使ってやっていた覚えがあります。それが、部屋のちょっとした空間で、リモコンを振るだけで、スコアも付く、本格的なボーリングゲームができるなんて、時代は変わったな~と、つい思ってしまいました。
楽しみつつ、感動を味わいながらも、こういったゲームで遊ぶことが当たり前になっていったら、怖いなとも思いました。子どもの体力低下はどうなるのだろう、外に遊びに行くことがなくなってしまうのではないかなど…
しかし、今の子どもたちは、忙しい日々をすごしていると思います。その中で、外に遊びに行く時間やボーリング場に行く時間もあまりないかもしれません。そういった状況での、よいストレス発散になればいいなと思いました(^^)
こんにちは。先日は飲み会お疲れ様でした。さえこさんへの色紙も渡せたし、最後に一言ずつメッセージを伝えられてよかったです。またやりましょうね!!
ブログの書き込みがかなり久しぶりになってしまいましたが、これから決められた日にきちんと書いていきます。
私は居酒屋でバイトをしています。早いものでもう半年以上たちました。忙しいときも多く、失敗することもあって落ち込んだりもしますが、マスターやママさん、他のバイトさんもみんな親切で面白いので、楽しく働いています。
私は以前、ビュッフェレストランや物販でバイトをしていた経験があります。いままでのバイトで共通していることは全て接客業ということです。しかし、居酒屋は他のバイトと接客において大きく違う点があります。それは、「常連さん」の存在です。常連さんはだいたい来る曜日が決まっています。頼む料理、お酒の順番、こだわりがあることもわかってきました。ありがたいことに、私の名前を覚えて話しかけてくれる方も増えました。その中の一人の常連さんが、私に話してくださったことを書きたいと思います。
「大学生の時にやるべき3つのことがあるんだけど、思い浮かぶかい?」
私は、「勉強することとたくさん遊ぶこと、あと自分の視野を広げることですか?」と聞き返しました。
「もっと具体的に、3つだよ。」
私は考えましたが思いつきませんでした。皆さんは思いつきますか?
まず一つ目は、部活かサークルに入ることです。それも、2年以上在籍すること。
社会的な仕組みや、上下の関係、組織とその中での自分の役割を学ぶために、2年はいることだそうです。
二つ目は論文を書くことです。太田ゼミの皆さんなら、論文はお手のものでしょう(笑)論文は、単なるレポートだけではなく、その時の思考、さらには情動も反映するので、「構成を練って論文を書く」という技能だけでなく、自分を顧みる時にも効果的であるということです。
三つめは、大恋愛をすることです。この「大恋愛」を定義するのは難しいのですが、常連さん曰く、「自分を犠牲にして命をかけられるくらいの深い愛」だそうです。こればかりはやろうと思ってできるものでもないのですが、若い感性を持っているうちに体験することに意味があり、あとの人生がより豊かになるということです。
皆さんはこのうちのいくつを達成していますか?また、達成できそうでしょうか。賛否両論いろいろ思うこともあると思いますが、どれにも共通していることが1つあります。それは、すべて「対人関係の中で培われる」ということです。部活やサークルは1人では成り立ちません。論文をより深みのある良いものにするためには、誰かに見てもらったり、共同研究をしたり、議論をする必要があるでしょう。もちろん恋愛は相手がいなければできません。
大学という場所は社会と異なって、一人でいようと思えば一人でいることができます。しかし、それでは、大学に入った意味が無いのも同然であるのです。知識や技能を学ぶことはもちろん重要です。しかし、大切な友達ができること、先輩・後輩と関わること、先生から学ぶこと、好きな人と巡り合うことができるのが大学という場所であると思います。そして、このような人間関係の中で、楽しい時間を過ごすだけでなく、より豊かな人生にしていく上で必要となる経験やスキルを学んでいくのだと感じました。
ちなみにこの常連さんから「人と付き合う時の5カ条」も教えてもらいました。いろいろな視点から考えることができて、勉強になります。聞きたい人はわたしに聞いてくださいね!
こんにちは!
昨日おとといと充実した体験をしてきました。
それは東京学芸大学附属小と伊那小の研究発表会に参加したことです。
その内容はまだまとまってないのでとりあえず今日は特別活動のレポートを載せます。
特別活動の現状と課題(3)
~特別活動の評価をめぐって~
1. 特別活動の評価
現在は通信簿における評価と指導要録における評価がある。
・通信簿
通信簿は法的拘束力がないので様式等は各学校に任されている。通信簿の意味としては子どもへの動機づけや保護者への連絡があげられる。ここでは最も使用率が多い様式のもので述べていく。まずほとんどの学校で観点別評価が用いられている。評価の表示としては「よくできる、できる、がんばろう」などといった言葉で表すものが多くまた3段階に分けて評価するものが多い。また「総合的な学習の時間の記録」や学校の様子などを示す「行動の記録」の欄を設けている学校が大半であった。行動の記録では特別活動の様子を言葉で記録する欄がありこれを所見欄という。他にも特別活動の内容ごとに○か空欄で評価する状況欄や所属する委員会・クラブ・係等を記載する事実欄がある。
・指導要録
指導要録は法的拘束力があり法定表簿の一つである。文科省による参考様式は二つあり、様式1は卒業後20年間保護で様式2は卒業後5年間保護しなければならない。指導要録における評価は「特別活動の記録」と「総合所見及び指導上参考となる諸事項」の二つあり、新学習指導要領に対応した指導要録の改善のポイントとしては「学習指導要領の目標及び特別活動の特質等に沿って、各学校において評価の観点を定めることができるようにすることとし、各活動・学校行事ごとに評価すること」や「小学校及び特別支援学校(視覚障害、聴覚障害、肢体不自由又は病弱)小学部における特別活動の記録については、各学校が自ら定めた特別活動全体に係る評価の観点を記入した上で、各活動・学校行事ごとに評価の観点に照らして十分満足できる活動の状況にあると判断される場合に○印を記入すること」とされた。
2. 現状と課題
まず特別活動そのものの課題としては特別活動が活動の時間は楽しいで終わっていることや活動を通して好ましい人間関係が築けていないこと、幼児教育から小学1 年生、小学6 年生から中学1 年生の接続段階における集団や社会への適応における問題、子どもたちの現代的な課題を解決していく時間となっていないということが挙げられる。それを踏まえて新学習指導要領では目標の改善として小中の指導の接続を重視すること、よりよい人間関係を築こうとする自主的実践的な態度の重視すること、特別活動・道徳・総合的な学習の時間における目標の明確化、がポイントとされている。それが特別活動の学習評価においても反映されており「集団活動や生活への関心・意欲・態度」、「集団の一員としての思考・判断・実践」、「集団活動や生活についての知識・理解」という評価の観点にもつながっている。
各領領域においてもそれぞれの目標があり、①学級活動では話合いや係の活動などを進んで行い学級生活の向上やよりよい生活を目指し諸問題の解決に努めていること、②児童会活動では委員会の活動を進んで行ったり集会に進んで参加したりして学校生活の向上や他のためを考え自己の役割を果たしていること、③クラブ活動では自己の興味・関心を意欲的に追求し他と協力して課題に向けて創意工夫して取り組んでいること、④学校行事では全校や学年の一員としての自覚をもち集団における自己の役割を考え望ましい行動をしていることが趣旨とされている。評価をめぐる動向としてはH12では絶対評価重視の考え方が取り入れられ翌年指導要録を改定した。またH14では観点別評価のための具体的規準の作成の試みをした。観点別評価の基準は領域を9つの内容に分けさらにそれを「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現」、「知識・理解」、の4つの観点にわけそれぞれを評価していくものであった。しかし評価のための評価になっていたり、評価の方法が保護者等に対して十分わかりやすいものとなっていないことが挙げられた。そこで中央教育審議会(H20)では各学校における教育活動に合わせて評価の観点を定めて評価することとした。
3. 考察
特別活動は全校又は学年を単位として行う活動もあるので学級担任以外の教師が指導することも多い。評価に当たっては評価体制を確立し学校全体で組織的に取り組む必要がある。また評価を通じて教師が指導の過程や方法を必要に応じて見直すことにより、効果的な指導が行えるような工夫や改善を行っていくことが大切である。そのために各学校で評価実施のための責任と役割の分担を明確にするや特別活動全体及び各活動・学校行事ごとの指導と評価の計画を作成することや計画に基づいて評価のための基礎資料を収集すること、児童一人一人のよさや可能性を生かし伸ばすために好ましい情報や資料を随時児童に伝えたり学級で紹介したりすることが必要となってくるだろう。そして収集した資料を各学校で定めた所定の手続きに従って総合的に判断し評価を行い、評価結果を各学校における指導や評価体制の改善に生かしていくべきだ。
くわしく見ていくと話合いなどの活動の評価については、よりよい学級生活を目指して話合いのねらいや提案理由に沿って考え発表し合っているかなど児童の活動の状況から見とることができるが、その際その場を見て終わりにするのではなく学級活動ノートなどを活用して話合いを振り返らせたり、実行に向けてがんばりたいことを記入させたりすることにより指導の参考にすることにする。事後の活動の評価では決定したことに向け自分の役割に取り組んだり、協力し合って実践したりする児童の活動の様子を見とることができ、その際ノートやカードを活用して評価し指導の改善に生かすことも必要となってくるだろう。
特別活動を評価していくにあたってはまず学校全体で共通した計画を作成し各教師が理解したうえで日常生活において評価するための工夫を凝らしていけば教師の負担も少しは軽くなると考える。これは評価のための評価と考えるのではなく指導の充実のための評価としてとらえたい。また学校として目標を明確化し保護者などにも積極的に情報を開示していくことで、保護者の理解を得たうえでの目標に準拠した評価を行っていくべきだと考える。
こんばんは。ばうわです(*^_^*)
またまた2日遅れになってしまいましたが、頑張りたいと思います。
ちなみに前回、未分類でたいそう短い投稿をしてしまったのですが
あれもわたしです(^^;)すいません、早く慣れなくてはですね
今日は先日サークルの友達と盛り上がった話題、そして説明会にて感動した話題を
書きたいと思います
これはサークルの友達から聞いたのですが
とある女優さん(たぶん江角さんだったかな?)がとある番組で
”お母さんを大切にできる男は彼女も大切にできる”と
言っていたそうです。
そしてわたしがこの前とある説明会で
”物持ちのいい人、物を大切に出来る人は
者(人)さえも大切にできる”
ということを聞きました
わたしはこの二つを聞いてなるほどと思いました。
まあ、ゆうてもたった二者の意見なので偏りがあると
いってしまえばそれまでなのですが
家族・友達・恋人 いずれにしても
人を大切にするって目に見えないものだけど
こうやって、実は形にも自然に現れて出てくるものなのですね
わたしは最近、人を大切にするってどういうことだろう
何が友達で、何が家族で、何が恋人なのだろう…
と考える機会が幾度とあったので
なんか感動してしまいました 笑
みなさまも、自分を大切にしてくれる友達や恋人と
幸せなマイライフを送りましょうね!! 笑
なんだかなんだかな文章ですが、今日はこの辺で失礼いたします(^_-)-☆
こんちは。二日遅れのいいんちょうです。
昨日は節分ということで季節の分かれ目、そして今日は立春なので暦の上ではもう春なんですね。寒くて春はまだまだ感じられずマフラーが手放せない毎日です。早く春の日差しを浴びながら散歩がしたいです。
オヤジかっ!!!w
今回はセミナー実習で学んだことを書きたいと思います。
昨日は実習校で一日を過ごしたのですが、担当教員の小林先生という方が放課後に打ち合わせと僕へのアドバイスを兼ねていらっしゃいました。
「教育という感じを書いてごらん」
そう言われたので書くとこんなお話を聞くことができました。
「教育という字にはちゃんと意味があるんだよ。
教えるという字の左半分4画目まで。これは「交」という字が崩れてこの形になったんだよ。そしてその次に来るのは子どもの「子」、つまり子どもと交わるという意味を持っている。そして、右半分の「のぶん」は男の人が鞭を持って振りかざしているという象形文字なんだ。これらから、教えるという漢字には、男性的で攻撃的ないわゆる厳格な教えを行っているという意味を持っているんだ。
次に「育」という字。この上半分は「子」という字を180度回転させた形。そしてその下には人の肉体を表わすにくづきが書かれている。なぜこのように書かれるかというと子どもは母親の体の中にいるときは頭を下にして育っているかららしいんだ。つまり「育」という漢字には、母親的な優しさのあふれるとても慈愛的な意味が含まれているんだ。だから、教育を行うプロとしてこの「教」と「育」のバランスをうまくとりながら頑張ってほしいんだ。」
このお話を聞いたときは、なるほどと感心するばかりでした。確かに子どもたちとの接し方一つで自分の評価や人気に大きな差が生まれます。また、子どもがどんなふうに育っていくかにも影響を与える可能性は十分にあります。教育者のさじ加減は僕たちが現場で経験を積むことによって少しずつ培われていく部分だと改めて考えさせられる出来事でした。
もう4年生になってしまう私には学生の時間があまり残されていません。日々を充実させるとともに大人にそして教育者としての準備を少しずつ進めたいと思います。
P.S.
小林先生と校長先生と3人で話し合いをしたときに間違って小林先生より上座に座ってしまいました><
社会人になってからのミスでなくてよかったです。あせりました・・・
個人ブログに書いた文章の転載です。
HMVの読者レビューで、ポリーニのリストのソナタに関して、堕落が酷く、ちゃんと練習していない等の批判を読んだ。ポリーニに関しては、実に多彩な評価がある。しかし、事実とは異なる評価を読むと、好き嫌いでは済まないものも感じる。技術偏重とか、機械的等の批判は、ポリーニ全盛のときの演奏に対しても言われるが、一体何を聴いているのだろうかと思う。
かなり前のことだが、来日したポリーニがテレビの視聴者参加番組に出て、インタビューのあと、参加者の質問を受けるということがあり、非常に興味深かったので、よく覚えている。そこで、練習の話しになり、自由な時間はすべて練習をしていると答え、どんな練習をするのか、技術的なこともやるのか、という質問に対して、技術的な練習は一切やらない、あくまでも作曲家の意図を探るための解釈のために練習すると答えていた。そして、実に驚くことに、技術的な困難というのは、感じたことがないとまで言っていた。6歳で平均律曲集を弾き、11歳でハンマークラビアを、そして、15歳のときには、ショパンの練習曲の演奏で、ミラノでは有名だったとされるほどだから、確かにそうなのかも知れない。アシュケナージも、先生から言われたことでできなかったことはなかったと答えていたのを読んだことがあるから、このくらいの天才になると、弾けないパッセージなどないというのも、ありそうなことだ。テレビでは、ワルトシュタインソナタのオクターブグリッサンドを弾いてみてくれと要請され、気軽に立ったまま、左右の手の双方向のオクターブグリッサンドを猛烈な速さと均質な音で弾いて見せ、一同びっくりする場面があった。ここは、ずっと前に、ある音楽雑誌で、どのように演奏するかについての専門家の座談会が載っており、結局ベートーヴェン時代のピアノなら機能的に弾けるのだが、現在のスタインウェイでは演奏は不可能である、などという結論だったのが、まったくのでたらめであることがよくわかった。
つまり、ポリーニが練習不足というのはまったく筋違いな批判だということだ。そして、技術偏重というのも、的外れというべきだろう。
機械的、無機的というのはどうか。これは、全盛期のポリーニの実演を聴いたことがあるので、これもまた全くのナンセンスだといいきることができる。どうせリサイタルのチケットは無理だと思ったので、必ず出演すると思われたNHK交響楽団の定期演奏会の会員になったのだ。ポリーニ出演は一度だけだったが、3年くらい会員を続けたので、かなりのピアニストを聴くことができたのだが、ポリーニの音は全く異なるものだった。NHKホールの3階席だったので、かなり遠い位置だったが、ポリーニの音だけは、完全にクリアに届いたし、ショパンのコンチェルトを実に多様多彩な音色と表情で演奏し、夢見るような趣があった。そして、アンコールのバラード一番は、信じられないようなテクニックとスケールの大きな表現、そして、神秘的な音色やダイナミックなエネルギーの放出で、完全に聴衆を魅了し、一流の演奏家に慣れているNHK交響楽団員たちも興奮の渦に巻き込んでいた。
無機的な演奏という人たちは、テンポを揺らさず、きっちりとインテンポ、しかも速めに弾く演奏に、歌を感じにくいのだろう。しかし、実演の音を聴く限り、音そのものが歌っており、テンポの変化を伴わなくても、実に表情豊かなのだ。レコードやCDでもそれは明瞭に聴きとれる。他の演奏家でいえば、トスカニーニがそうだ。
つまり、全盛期のポリーニは、テキニックと音楽的表現力、あらゆる面で、もっとも優れたピアニストだったし、ピアノの演奏の質を変えてしまい、ピアニストたちにこそ、極めて大きな影響を与えたといえる。
しかし、1990年代後半以降のポリーニがもはや一流とはいえない、普通の上手なピアニストになってしまったこともまた否定しようのないことだろう。うわさにも聞いたし、部分的に聴いた録音でも明確に感じられた。そうなる前のポリーニボックスを購入したあと、新譜の購入をまったくしないまま、ずっと来たのも、幻滅を味わうことが嫌だったからだ。
ところが、普通のピアニストになってからの演奏の方がいい、という人もいることに最近驚いたこともしばしばだった。ポリーニはアシュケナージと違って、録音の少ないピアニストだから、二度録音した曲は少ないのだが、それでもベートーヴェンとブラームスのコンチェルトとショパンの2番のソナタがある。私の耳では、最初のはまさしくポリーニだが、二度目のはいずれもテクニックが衰え、表現したいことが、十分にできないもどかしさを感じながら演奏していると思われるのだ。にもかかわらず、最初のショパンは嫌いだが、2度目のは好きだという人がいることに驚き、やはり聴いてみようと思って、最近出たショパンボックスを買って聴いた。
実演のバラード一番をまず聴いたが、やはり、実演のすばらしさは跡形もないという感じだった。2番のソナタもバラードほどではないが、とても1度目よりいいなどとはいいがたい。つまり、明らかにコントロール能力が大きく低下しているのだ。
ただ、もっとポリーニに拘ってみたいと思うようになった。それは、ポリーニの変貌が、堕落や練習不足ではまったくなく、その逆だからだ。ポリーニがテクニックを失ったのは、練習しすぎによる腕の故障が原因であることは、プロの音楽家に直接聞いたので、間違いないだろう。1995、6年に聞いたので、故障はその前に起きていたことになる。不幸なことに、その故障は、肉体的な衰えを避けることができない年齢において起きた。超絶技巧の持ち主が故障すると、精神的にも大きな壁にぶつかるのだそうだ。ピアニストというのは、アスリート的側面をもっている。妙な比較だが、巨人の投手だった桑田によく似た状況だと思う。桑田は日本を代表する投手だったが、単なる投手ではなく、抜群に守備のうまい人だったのが災いして、普通の投手なら取りにいかないフライを追いかけ、ダイビングキャッチをしたのだが、それで野球生命にかかわる怪我をしたのだった。その後手術をし、投手として復帰したが、往年の速球はついに戻らなかった。しかし、桑田のすばらしいところは、それでも精進を続け、ぎりぎり不可能になるまで、アメリカ大リーグまでいって、野球を続けたことである。その姿勢と野球理論は、大リーグの選手も感動させ、コーチとして残る要請があったという。
ずっと長い間、ポリーニはなぜ引退しないのだろうと感じていた。教師としては引く手あまただろうし、生活にこまるようなことはありえない。相当きつい批評もあるし、何よりも、前のように弾けなくなったことは、ポリーニ自身が一番よく知っているのだから。全盛期のポリーニは、ドイツグラモフォンがほとんどの演奏会を発売の可能性を前提としてライブ録音していたと言われている。しかし、その発売をほとんど許可しなかったほど、自分に厳しい演奏家だ。
ショパンボックスは、かの有名な練習曲から始まって、グラモフォンにいれたショパンが全部入っている。そして、1991年のスケルツォをはさんで、1999年のバラード集まで8年のブランクがあるのだ。これが故障によるブランクと精神的闘いの時期だったことは明らかだ。スケルツォのときには、まだ明確な故障が現れていなかったのだろうが、変調をきたしていることが感じられる。そして、復帰第一弾のバラード1番は、もはや私がNHKホールで聴き、聴衆を興奮の渦に巻き込んだものとは、全く違う。バラード1番は、20代で演奏会をあまりしなかった時期から、ロンドンで演奏会を開いたあと、EMIに録音したショパン名曲集に入っているので聴き比べれば、その違いは明瞭だ。まだ20代だったときの演奏は、カンペキなテクニックと曲の雰囲気を出し切った音楽性とで、圧倒的な印象を与える。ホロビッツのカーネギーホールでの演奏の影を薄くしてしまうほどのすばらしさだ。しかし、NHKホールでの演奏は、もっと表現のスケールが大きい圧倒的なものだったのだ。
なぜ、以前のポリーニだったら絶対に発売許可しないようなものを出すようになったのか。真相は、本人が語らない限りわからないだろう。しかし、私は勝手に想像してみることにした。それは、故障という、本人に責任のない原因で、ある意味どん底に落ちるような状況になった人が、懸命な努力によって、どこまで立ち直ることができるのか、それを見せることによって、人々に勇気を与えることができるのではないか、という「納得」「決意」をしたからではないか、と。どんなに努力しても、50代末ころに故障した人が、60代、70代となるに従って、テクニックを取り戻すことはほとんど不可能だろう。しかし、一歩一歩回復していくことは可能に違いない。ポリーニはそういう決意を実践しているのではないか。そして、最近のポリーニの方に感動するという人がいるのは、ポリーニのそうした努力が、演奏に現れているのかも知れない。比較的評価の高いノクターン集は、ポリーニの「可能性」を表したものといえるし、流石にポリーニだと思わせるとともに、以前の彼なら、もっとバランスのよいコントロールをしたはずだと思わせる、両面をもった演奏だ。
私は大学のゼミで4月から「つまずきとたちあがり」というテーマで共同研究をすることにしている。ポリーニを想定していたわけでは全くないが、しかし、ポリーニも「つまずきと立ち上がり」を実践しているように思えるのである。
怪我をしたあとの桑田は、もはや一流の投手ではなくなったが、以前よりずっと、野球人として、あるいは人間として、人々に共感を呼び起こすようになった。
ポリーニもそのような目で見ることが必要なのかも知れないと思うようになった。
みなさん、こんにちは☆ ちさまみです(^^)
最近は、テスト勉強にレポートに大忙しですね。しかし、レポートは終わったという人が何人かでてきましたね。私も、その一人です。ただ、テスト勉強は全く手をつけていないので、効率よく勉強していかなきゃな~と思いつつも、なかなか進まない状況です。^^;
テスト、早く終わってほしいですね。><
先日、「氷河期」について、友人と話が盛り上がりました。今、就職氷河期などと言われていますが、そちらではなく、本当の氷河期です。みなさんも、ニュース番組などで耳にしたことが一度はあるのではないかと思います。専門家の方によると、氷河期が10万年、温かい時期が1万年くらいの周期で来ているらしいのですが、今は、ちょうどその1万年の時期のおわりの方で、もしかしたら、もうすぐ氷河期が来るかもしれないといわれているそうですね。もし、氷河期がきたら、今、世界にいる約70億人の人口が約10億人に減少し、住める地域も限定されてくるため、ブラジルに人口が集中するそうです。
もしも、本当にこうなってしまったとしたら、まず、生きていけるのかなと心配になります。氷河期が来れば、住む場所だけでなく、食糧、水、エネルギーもなくなり、それらを求めるために、戦争が起きてしまうのではないかとも考えてしまいます。こうならないためにも、人々が協力して、支え合って生きていかなくてはならないですね♪
本当に氷河期が来るかはわかりませんが、今以上に人々が協力して、支えあって生きていけたらいいな~と思いました。
もうすぐ1月も終わりですね。2月上旬はインフルエンザが特に流行する時期らしいので、体調管理には気をつけていきましょう!!
みなさんこんばんは!まるです。さっそく2日遅れで申し訳ありませんが再スタートだと思って頑張ります。
今日は評価について書いたレポートです。
平成3年度の指導要領の改訂から、知識の量より「生きる力」を育むために観点別評価が重視されてきた。断片的なペーパー知識を多く習得していても、行動や態度に活かすことができなければ真の学力とは言えない。そこで、各教科の評価の方法も「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」の4つの観点が、設定された目標のどこまで到達しているのかABCの三段階で絶対評価を行うようになった。この4観点の評価を基にして、絶対評価を加味した相対評価を行い5段階の評定をすることになっていた。
私は自分としての意見を述べる前に二つの評価の特性とその問題点について調べてみようと思う。
1、相対評価
相対評価は、個人の得点を集団成員の得点と比較することによって、その相対的位置
を明らかにする方法である。学習効果を全体の中で評価するので、個人が努力して成績
が向上しても、全体の成績が向上すれば、個人の努力の成果が現れにくくなる。また相対評価は1,2,3,4,5の五段階評価でその割合は慣行的に大体決まっていた。しかしその分自分が今いる位置であったりレベルがはっきりしていて次の目標が組みやすいという利点がある。そのことによって競争が生まれ互いに切磋琢磨しやすい関係性が生まれる。また評価をつける側から考えるとある一定の評価基準がありそれを満たしているかいないかというシンプルな評価であるため評価がしやすいという利点がある。それは進路指導などにも生かされ評価基準が定まっている分成績もはっきりしていて進路わけもしやすい。一方そのデメリットは何か。まずひとつに相対評価は5を取れる人数が決まっているためいくらいい点を取ったとしても周りにいい点をたくさん取った人が大勢いれば5がもらえない可能性が出てくるということである。また相対評価では結果がすべてであり、そこまでの努力や過程を評価してくれないために子どもたちは結果こそがすべてだと捉え本当に実力のあるものはどんどん上に行くが途中で挫折してしまう子も出てきてしまうようですべての子供たちの学力保障という理念には反する可能性が高い。さらに、相対評価に慣れていくとテストに適応した学習活動を過剰に強いる可能性もあり、目的を達成するために受験に狙われやすいところしか勉強しないなど学習の断片化が起こる可能性もあるなどのデメリットもある。また教師による主観が入らないため個人内の変化を把握するのには不向きであるということもその一つであろう。
2、絶対評価
生徒が「各教科の目標にどれだけ近づいたか」「学んだ内容がどれだけ身に付いたか」を見る達成度の評価。前に述べた通り ①関心・意欲・態度 ②思考・判断 ③技能・表現 ④知識・理解の4観点による評価が基本となる。 定期テストの順位=通知表の評価ではない。これによって結果だけではなく努力の過程も評価に含まれるようになった。相対評価では集団の中でどれくらいの位置にいるのかを示すものであったが、個人が学習内容をどの程度達成できたかを示すものとなった。相対評価ではたとえば逆立ちで考えると出来なかったらC,補助ありで出来たらB,一人で出来たらAのようにある一定の評価基準を用いて判断していた。しかし絶対評価では教師の主観によって決めることが可能になった。また五段階の人数の定員もなくなったためみんなよかったから全員5というのもありになった。それが引き金となり進路指導も成績が得点や実力によって評価されたものではなくはっきりしないため難しくなり、教師の負担も増加している。また教師の主観で決めることが出来るようになったため親からの苦情も増加しているケースもあるようだ。また絶対評価にしたことで受験にも影響が出ている。神奈川県では、横浜市内の公立中学校を今春卒業した生徒の「絶対評価」に基づく教科ごとの成績評価で、5段階評定の「5」の割合に最大45倍の学校間格差があることが分かった。高校入試の調査書に影響する成績評価が、絶対評価の導入で甘くなってしまい内申書などを受け取る高校側も判断が難しくなり内申書による生徒の情報を信じられなくなってしまう。生徒一人ひとりの人間性や意欲を反映させるという意味では絶対評価はすばらしいが本当に学力を表せるかどうかというのは難しい。内申点が上がれば生徒はより上を目指し志望校を上げていく。これは当然の流れであるだろうが、今の絶対評価では基礎学力が不十分であるのに授業中の態度などがいいという観点からそのものの力以上の評価を下され相対評価では絶対に入れなかった高校に入る事が出来ているという不自然な事も生まれてきてしまっている。また保護者からの視点で考えてみる。親はいい評定が来たらその評定を鵜呑みにする。しかし、情報力のある家庭はその限りではない。しっかりと学校のテストの問題用紙を見ている。しかもすみからすみまで。危機感のある親は「こんな簡単なテストで90点をとっても・・・・」と思い子どもを連れて塾へ駆け込む。思った通り、塾での公開模試の結果は芳しくない。
「学校ではいつも90点なのに、公開模試の偏差値は50にも満たない」というケースも多いようだ。これでは子どもたちを塾に通わせる子が増えても仕方がない。いつの世も変わらないかもしれないが特に今の厳しい世の中では親たちは受験戦争に勝つためより正確な実力測ることが必要になっている。そこで正確な実力が学校では測れず進路指導も頼りにならないのでは学校として話にならない。
3、適切な評価とは?
これら2つの評価どちらも大切であるために私はどちらか一つという風には絞れない。なぜなら二つとも不十分の点が多いからだ。私はゆとり世代であり、この評価の移り変わりである2002年はちょうど中学生の頃であった。私の高校受験の頃は私の中学は相対評価であった。しかしほかの市の中学は絶対評価のところが多く推薦入試などでは内申書オール5の者しかいないという話を聞いたことがある。当時の私の志望校は私が住んでいる町とは違う市にありその市の中学校はどこも絶対評価で相対評価の中学校は内申的に不利になる気がして当時の私たちは不安を感じていたのを覚えている。このように二つの評価が入り混じっていると絶対評価が有利だと感じてしまっていたが、実際絶対評価が定着してしまうほうが頼りにならない内申より安定した基礎学力を求めるようになり受験のハードルが高くなってしまうと思う。そこでまず原点に戻り私たちが真に追うべき学力というものを考えなければならない。
4、真の学力
真の学力とは何か。上っ面の学力ではない、単に物知りというだけの学力ではない、試験で高得点を取るだけの学力でもない。生きて働く学力、自分という人格的な基盤を持った学力であり総合的な人間としての力も含まれたものである。具体的なレベルで考えるならば、目配りの良い関心を持ち、適切妥当に物事を見て自分と関係付けて考える力を持ち、自分なりの筋道を持って施行判断し自分なりの結論を自分の基盤にして言動や行動が出来る。そして結果をまた自分なりに解釈し反省し次のステップに移すといった取り組み方が出来る人間。そのための能力であり学力である。その意味で自分自身の本音の世界を鍛えつつ、そうした本音を大切にした生き方を大事にする、といった能動的で活発な在り方を目指すものといってもいいだろう。まさに学問は自分自身のために学ぶものなのだ。だからこそ文部省などでも生きる力をつけることが目標とされているのだと私は考える。ではそんな学力をつけるにはどうしたらいいのだろうか。
5、基礎基本を大事にした責任ある教育へ
今一番大切にしなければならないことは教育評価の意義の再認識である。基礎学力や評価ということが軽視され子どもの目の輝きとか楽しい授業とか悪い言い方をすればその場限りのキレイゴトが教育に蔓延っていたためこのような現状になってしまった。今行われている絶対評価については国の制度であるから仕方ないとしても、評定をつける教師のレベルの低さにはあきれてものが言えない例もある。客観的に見て「2」の生徒に「4」をつけるのは、犯罪的行為に等しい。企業で言えば赤字を黒字という偽装と同じである。評価の規準は一教師ではどうにもならない。しかし、評価の基準については現場教師の良識が問われているのだ。だからいまこそ振り返らねばならない。
教育は必ずしもその場だけの満足を求めるものではなく、何らかの成果を生むものでなければならない。途中で泣くことがあったとしても、頑張りとおして何かができるようになり力がついたときに初めて、本人にとっても達成感がもたらされ、本当の満足感につながるのだと思う。したがって、真に教育という名に値する活動を進めていくのならば、何らかの形で成果の確認つまり評価が必要になるのである。
たとえば評価の代表的例であるテスト。それには試験の予告が学習の動機づけとなることや試験を受けることによって、知識の理解度を確認でき、答案を書くこと自体が学習となること。さらに答案が返却されるときに、自分の長所・短所が確認でき、その後の学習活動に役立てることなどのメリットがある。しかしテストとは時間的に制約されたものであり、時間内に本人の最高のものを示すことができるとは限らないし、どのような課題が選定されるかによって、結果が大きく左右されるものであること、そして評価ポイントの置き方、採点方法によって、得点、意味が大きく変わるものだということを評価する側が捉えておかなければならない。
真の学力とは何なのか。教育評価とは何のためにあるのか。ということを把握していないものが評価をしているから今のような問題が起こるのであってこの部分の見直しを徹底することで評価の捉え方も子どもに与える影響も変化していくのではないだろうか。
こんばんは^^
今さっきレポートが終わって、一安心しているところです。
ただ、まだレポートが残っているので明日もやらなければならないのですが、とりあえずテスト勉強もし始めないと単位を落としかねないので、明日はレポートにテスト勉強に頑張ろうと思います。
今週はテストが少しずつ始まって、忙しくてあっという間だったように思います。
自分のテストもそうですが、ちょうど一週間前、私立高校の入試がありました。
今週は受験生が合格の報告をしてくれて、本当に良かったと思う一方、自分も頑張らないとと思いました。
受験シーズンになると「すべる」とか「おちる」とか禁句ですが、月曜日に雪が降って、しかも積もったおかげで多くの子は自転車でこけたり、歩いていてすべったりと散々だったようです。
気にしすぎる必要はないのですが、とにかく道路が凍結すると本当に困りますよね。
雪が降った次の日に、補助教に行ったのですが、スーツで行くのも大変で、小学校に行くと多くの先生が「足元が悪い中ありがとうございます」と声をかけてくださいました。
その日は雪かきを朝からしていて、最近はめっきり見なくなった光景だなと思いました。
私が小学校の時は雪が結構降っていて、校庭に雪が積もっていたし、休み時間になれば校庭で雪合戦をして雪だるまを作ったような気がします。
10年経って、雪遊びというのはできなくなってしまっているのだと少し寂しいような気がしました。
日本海側では大雪のおそれがあるみたいですね。
ここら辺では少し雪が降っただけで電車は動かなくなるし、車の事故は増えるし、さらにけが人まで出てしまいます。
でも、私の中で年に数回は雪が降ってもいいかなという気持ちがあるので、この気持ちがあるうちはまだまだ子どもなのかなと思います。
きっと、雪が降ることが疎ましくなったとき、大人になった証拠なのだと思います。
本当にお久しぶりです(^^;(^^;
携帯をスマートフォンとかゆうハイテクな
ものに買い替えてしまったおかげで
過去のブックマークデータが全て
消え去ってしまっていたまま
ずるずるきてしまっていました;;
わたしは金曜日なので2日後れですが
またこれから頑張っていきます!!
今日はこれから説明会です。
太田ゼミ唯一(になるのかな?)の就活生
説明会づくしでげっそりしてますが
みんなと同じくらい頑張ります\(^^)/
少し浅はかですが今日のところは
このへんで失礼します!
皆様テスト頑張りましょう(*^^*)
今日は、母とライオンキングを見てきた。
私が家族におせちを買ったお返しらしい。まあ家族が喜んでくれることの反面、店長に買ってと頼まれたこともあって買ったのだが。
感想から述べると、動物の動きが細かく表現されていた。同じ4つ足の動物でも、同じ人間が表現しているのに、それぞれの動物が全然違う動きをしていたし、本物の動物の動きにとても似ていた。昔見ていた動物奇想天外の番組の映像を思い浮かべながら見ていた。特に、似ているなと思ったのはハイエナの動きだ。前足の動きや顔の動きに見入った。3匹目の前足の動きは感情をとても表していた。アニメを見ているかのように感情の表し方人形の動かし方が上手くて、どうなっているのだろうと思った。
一階席の一番後ろでステージの上1/4が2階席に隠れて見えなくて、着いた瞬間2階席にすればよかったとひどく思った。しかし、ショーが始まった途端、近くのドアから登場してきてステージに向かっていったので、一階で良かったと思い直した。2階席だと、ステージは近いが高すぎるし、登場する者たちが近くに来ない。
話が変わるが、最近思うこと。父・母の近くにいることが生理的に受け付けない。これはこの時期の大学生ならみな思うことなのか。親を嫌いということではない。心配もしてくれるし、気に掛けてくれる、大事な存在であることは間違いない。これがいわゆる親離れなのであろうか。
明日は初めてTOIECを受ける。過去問を2,3回分解いてから挑もうと考えていたが、TOIEC1回に時間がとてもかかると聞いたので、気が引けてしまって、今のところ何も勉強をしていない。2年生で英語のクラスでTOIECのテキストを使ったので、それを引っ張り出して、少しだけ見ようとは考えている。
最近バイトをやめて、お金の収入源がひとつもなくなってしまった状況で、旅行が好きな私にとって、不安が大きい。前回に書いた近畿・九州巡りもお金を削って、どれだけ楽しめるかである。3月はカンボジアにも行きたいと思っているが、友達は2週間で7万といっていた。
月曜日に介護体験の太田先生のサインを忘れずにもらおう。
神田先生の『生きがい論』で提出したレポートを載せたいと思います。
先に言っときます!!!
2012年12月26日(水) 文教大学吹奏楽部第35回定期演奏会
この日の引退まで、自分の生きがいである吹奏楽を楽しみたいと思います。どうぞ皆様、予定のほうをあけておいてください。
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授業の中で特に印象的だった梅棹忠夫と神谷美恵子の生きがい観を比較して、自分の生きがい観について述べたいと思う。
1.梅棹忠夫の生きがい観
梅棹は生きがいを「生き」と「がい(かい)」に切り分けている。
『「何々がい」があるということ、あるいは「何々しがい」があるということは、要するに何か、緊張、努力があって、その結果として成果がある、そういうことでしょう。何かがんばってよかった、ああよかった、よかったというのが、「何々がい」があったということだと思うんです。』
と梅棹は著書の中で述べている。つまり、生きることをがんばって、その結果「よかったな」と思えたら、それが「生きがいがあったな」ということにつながるのだととらえた。そして、梅棹は
『実は、そういうことを考えますと、生きがいがあるということは、要するに未来に対する期待の問題だということです。』
とも述べている。(未来でこうなったらいいな)という期待を持ち、それを抱きながら生活して、それが結果に表れ、(よかったな)と思えたら、生きがいがあった、という結果になる。
2.神谷美恵子の生きがい観
神谷は生きがいを「生きがい欲求」と結び付け、生きるために必要なものと考えている。
著書の中で
『人間は自分の生きていることに対して、自分を取り巻く世界から、何か手ごたえを感じないと心身共に健康に生きていきにくいものらしい。』
と神谷は述べている。
また、生きがい欲求として「生存充実感への欲求・変化への欲求・未来性への欲求・反響への欲求・自由への欲求・自己実現への欲求・意味と価値への欲求」の7つを挙げている。
マズローは人は低次の欲求から生理的欲求・安全の欲求・所属と愛の欲求・承認の欲求・自己実現の欲求があるとしている。人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動(欲求満足化行動)するとしている。その上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行するものとしている。例えば、ある人が高次の欲求の段階にいたとしても、例えば病気になるなどして低次の欲求が満たされなくなると、一時的に段階を降りてその欲求の回復に向かい、その欲求が満たされると、再び元に居た欲求の段階に戻る。このように、段階は一方通行ではなく、双方向に行き来するものである。また、最高次の自己実現欲求のみ、一度充足したとしてもより強く充足させようと志向し、行動するとしている。
神谷の生きがい欲求はマズローの自己実現欲求で考えると、高次の欲求であるように思われるが、よく見てみると、どの自己実現欲求の段階にいる人にも、神谷の生きがい欲求は生まれるのだと受け取れる。
神谷は
『人はそれぞれの生涯の中で、違った時期に違った形で人生の行く手に立ちふさがる壁のようなものに突き当たり、その威力をしる。その時には必ず生きがいということが問題になるであろう』
と述べている。マズローの低次の生理的欲求の段階の人で(ご飯が食べたいな)と思っている人は、生きがいとして「食事をとること」があげられるだろう。高次の自己実現の欲求の段階の人で(あのきれいなドレスがほしい)と思っている人は、生きがいとして「ドレスを手に入れること」があげられるだろう。このように、どの段階にいる人も神谷の言う「生きがい」を持つことができる。また、(ご飯を食べたいなあ)と思うこと自体が生きがいとなることもあると考える。
3.2人の比較
梅棹と神谷の2人を比較すると、違うのは、梅棹の生きがい観は、何かした《結果》が生きがいになるのに対し、神谷は結果に加え、《それを得るまでの過程》も生きがいとなりえる点であろう。
4.自分の生きがい観
私の考える生きがい観は、神谷の考え方に近いのかもしれない。私は吹奏楽部に所属しているが、そこで生きがいだなと思うことにたびたび遭遇する。それは、本番で成功できたときはもちろんなのだが、そこに至るまでの練習や人間関係にもある。多くの時間とお金を費やす練習の中で、楽器を吹いている喜びを感じ、「絶対に本番を成功させよう」と心に誓う、その気持ちを持てる自分に生きがいを感じる。また、投げ出してしまいそうになったときに支えてくれる友人や先生の存在にも、うれしさと同時に生きがいを感じる。本番の成功という《結果》に至るまでの《過程》にも、生きがいを感じられる瞬間があるのだ。
そこから、私の生きがい観を考えると、『今自分のしていることに対して、何らかの感情を感じられること』が生きがいであると思う。今していることが、仕事だったり勉強だったりトイレ掃除だったり、人によってさまざまにある。それをしているときに楽しい・うれしいなどのプラスな感情を抱いたり、時にはつまらない・やめてしまいたいなどのマイナスの感情を抱く。私は、その感情を抱けること自体が生きがいなのではないかと考える。どのような感情を抱いたとしても、感情を抱くということは「自分がそれをやっていることを自覚していること」になるからだ。「自分が何かをしている=生きて生活している」ことが自覚できること、それが生きがいなのではないかと考える。
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「生きがい」ってなんですかね?
授業は、なんと出来たばかりの講義。神田先生は今年2年目の開講となっています。他大学で「生きがい論」という授業を設けているところは無いに等しいらしく、文教“発”の講義になりそうですよ。《生きがい》という言葉が使われ始めるようになった時代・歴史のこと、生きがいという言葉の意味、さまざまな人の生きがい観について学べます。
まだ受講していない人、面白いのでぜひ受講してみてください。
こんにちは!
みなさんテストにレポートお疲れ様です。残り一週間もがんばりましょう!
今日私はコンタクトを買いに行きました。私は2weekを使っているのですが毎回日にち数えるのがめんどくさくて1monthになることもあります。ちゃんと数えないとですね。そのせいか半年ぶりに視力を検査したらなんとすごく目が悪くなっていました。。。最近前よりは机に向かう時間が増えたことなのかただ単に度数があっていなかったのかわかりませんが自分でも想像していなかったくらいコンタクトの度が上がってしまいました。
最近は静止したものばかりを見ているのでテニスで培ってきた動体視力のほうも衰えを感じます。人々をみる目、ボールを見る目、この世の中を見る目、目は大切です。よく遠くを見れば良いと言われてますよね。
茨城の広大な大地(田んぼ)を見わたし、目に安らぎを与えていきたいなと思いました。
PS 茨城といえばオススメの本があります。名前を載せていいのかわからないので興味がある方は私に話しかけてください(^O^)
みなさんお久しぶりです。いいんちょうでございます。今度から毎週木曜日の書き込みに変更してもらったので書き込みをしっかりやりたいと思います!
・・・・・・あれ?今日って土曜日・・・
もうテストやレポートもほぼ終わり、春休みに突入しますね。皆さんはどんな春休みを過ごすのでしょうか?僕は毎週金曜日の学校実習以外にもサークルの友達とスノーボードに行ったり、ちょっとした旅行にも行く予定やバイトなどでほとんど埋まっています。その中でも一番力を入れたいと思っているのは‘卒論’です。
今週のゼミでも発表しましたが、僕はA9ゼミの中では一番いじめの問題について関心があると思っています。ゼミ中にお話しした通りですが・・・
それはいいとして、、、皆さんは何かアクションを起こしたでしょうか?正直僕は卒論のような長い期間集中して勉強することが苦手だと思ってます。でも今回はなぜかやらなければならないという使命感のようなものを感じていて、春休み中に読もうと思った本を3冊だけ図書館で借りました。いつもスタートは早いのにすぐにフェードアウトしてしまうので今回ばかりはしっかりと頑張りたいと思います。
みんなそれぞれ課題は違えど頑張っていこうね!!!
今度の日曜日に四十九日の法事があるのて、妻が九州にいっています。だから、その間「自炊」しなければいけない。
ということではなく、そっちの方はどういう風の吹き回しか、数日分の料理なんぞを作っていったので、全く心配なし。
コンピューターと本に関心がある人は知っているかも知れないけど、最近、本をデジタル化して保存する人が増えています。iPad のようなマシンの普及によって、それが加速されました。ひとつは、出先で簡単に本をチェックできるということと、なんといっても、たまった本の置き場に困って、処分したいということから、流行しつつある減少です。多くの人はそれを自分でやるので、「自炊」というのですが、なんでそんな名前がついたのかは、よくわかりません。最近では、自炊を代わってやる業者も増えてきて、出版社との間で紛争なども起きています。
僕の研究室を見た人はわかるように、これはずっと前からやりたかったことで、特に、昨年の春に父の蔵書を引き取って以降、切実な状況になっていました。そこで、ついに、裁断機を購入、先日届いたので、今日初めて「自炊」をしてみたのです。
とりあえず簡単そうで、失敗してもいいような、父の雑誌を数冊やってみようということで、裁断機、ドキュメントスキャナ、パソコンを用意し、まず裁断機で、雑誌の背の部分を切り落とします。そして、スキャナにかけて、PDF化するのですが、最初はちょっと慣れないので、時間がかかりましたが、300ページ程度の雑誌なら、10分程度でデジタル化できる感じです。そうして、デジタル化した雑誌はごみ箱へ。そのうち、雑誌だけではなく、ハードカバーの本などもデジタル化しようと思っていますが、どういう本を選択するのか、まだ迷っています。大切な本なのか、大切じゃない本なのか。大切なものは、本として保存しておきたい気持ちもあるけど、出先でも読めるようにしておくのも、デジタル化の目的にかなっている。迷うところですね。
とにかく、今後僕の研究室の本が目立って減っていくことを期待してください。
こんばんは。さえこです。
a9太田ゼミの皆さん、一年間本当にありがとうございました。この一年間一緒に勉強できてよかったです。
この場を借りて今一度お礼を言わせていただきます。
ブログへの投稿はこれからも続けていきますのでよろしくお願いします!
ところでみなさん、「交通費」ってもったいないなとか、無駄だなって思ったことありませんか。
私はよく思います。電車賃にバス代、飛行機、タクシー。
どこに行くにしてもなんだかんだで交通費が高くつくな、と感じずにはいられませんでした。
しかし、交通費について友人と話していたときに私が
「交通費って一番無駄じゃない?」
と言ったのに対し、友人は言ったのです。
「交通費っていうのは時間を買っているんだって。」
と。
これは友人も誰かに言われたそうなんですが、なるほど!と思ってしまいました。
なんとなくわかりますでしょうか。
たとえば、歩いていけば何時間もかかる道のり。これをお金を払って電車に乗れば、何十分に短縮することができるわけです。
昔は人の足で、または馬や牛などの足を借りて、遠い道のりを何日もかけて移動していました。
しかし今、東京から京都まで新幹線を使えば、東京から沖縄まで飛行機を使えば、あっという間。
私たちはお金を払って「移動にかかる時間を買っている」のです。
そう考えたら交通費がなんだかすごいものであるかのように感じました。
今日も、テストなのに時間ギリギリになってしまった私は、最寄駅から学校までタクシーに乗ってしまいました。
ワンメーターで行ったので710円。
「ああ、時間って高いなぁ」と思いつつ、今日私は時間を買ったのでした。
おかげさまでテストにも間に合い、「時間を買った」ということを実感しました。
こんにちは。おひさしぶりです。A9太田ゼミ生の徳丸です。
あまりにもブログ書かなすぎて、誰だこいつって思った人もいるかと思いますが、今日からちゃんと書き込み再開しますのでよろしくお願いしますm(__)m。
とは、言ったものの...さんざんブログを書かなかった私が急にブログを再開できたのには、太田先生に春休みにきちんと更新するようにと言われたのもそうですが、あることを考え始めたのがきっかけでした。
それは、“生きがい”についてです。先日、生きがい論という科目のレポートを作成していたのですが、それを機に自分にとっての生きがいについて考えることが多くなりました。今までも私の中で“生きがい”というものは存在していたのですが、レポート作成時に様々な著者の“生きがい論”というものに触れ、考え方が変わったということが一番のきっかけでした。今までもっていた私の生きがい論というのは、何か自分のしたいことや大切なもの(人)のために何かをしていくことが生きがいであるという考えであり、授業で取り上げた何人かの生きがい論でもそうした考え方がありました。けれども、もしも、他者のためになにかをするということが実は社会という集団組織の中で作られたものであって、個人としての生きがいはもっと別なところにあるとすれば、それは生きがいといえるのだろうか。人は、ただ生きているだけでも幸せであるのではないかと考えた著者がいました。これは、主に第二次世界大戦時の日本の様子などを例にしているので、このような考えが生まれたのかもしれません。しかし、東日本大震災のように多くの人々の命が奪われた今の日本においてもそれはあてはまるのではないか。と思います。
私は、進路という壁を目の前にし、日々模索している最中です。そうした時に、将来何をしたいか、どんな自分でいたいか、というまさに“生きている甲斐”を考えていますが、実は今こうしてブログを書いていられるように、生きているただそれだけで、すごく幸せなことなのではないかと感じました。
いつかは進路を決めなければならない日が訪れてくるかとは思いますが、その時までこのように日々の生活のなかで嬉しかったこと、楽しかったこと、悔しかったこと、悲しかったことなど些細な出来事にも目を向け、このブログを書くこともそうですが、今できることをひとつひとつこなしていくことが、今の自分にとって必要なことなのかと思いました。
少し内容が重くなってしましましたが、みなさんにとっての生きがいとはなにかを考えてみると、自分のことを知るよいきっかけとなるかと思うので、ぜひ考えてみてください。とりあえず、徳丸は明日のテストとこのブログを継続できるように頑張ることから始めます。
こんにちは。わたなべです。
今日は1月25日、901年(延喜元年)のこの日、右大臣・菅原道真が後醍醐天皇と藤原時平によって九州の大宰府に左遷されたことから左遷の日だそうです。その後、後醍醐天皇と時平の身の回りで不吉なことが続き、時平自身亡くなったり、京都は大火事や雷といった災害に見舞われることとなり、道真の怨霊によるものだとされました。そして道真は最も恐ろしい「火雷神」とされ祀られたそうですが、今でも雷=神鳴りとされ日本人の生活の中に顕在しています。
ちょうど今、分析心理学という授業のレポートで、日本人の生活の中に息づく神話について書いているのですが、(りほちゃんやてるかもおそらくこのレポートと格闘していることでしょう。)わたしたちが意識していなかったり知らなかったりというだけで、生活の中にはさまざまな場面で神様と関係があるのだということを知りました。普段は初詣の時や、ピンチになった時の神頼みくらいしか、神様を意識することはないように思います。しかし、実は地震も、古くは神様が深く関連していたりと、密接に私たちの日常と関わっているようです。それでも日本人は無神教や無宗教と言われ、自分たち自身そうだよなあ、と納得してしまうところがあるというのは興味深いと感じました。
なんだか難しい話で、自分でも書いていて疲れてしまいました。こういった話に詳しい人はぜひ話を聞かせてほしいです。
ではでは。。
2月の予定
長野県伊那小学校の授業を見に行く、
山梨
ワイナリー
岐阜
白川郷
関ヶ原
美濃和紙
島崎藤村記念館
北アルプスの絶景
下呂温泉
福岡
とんこつラーメン
長崎
平和記念像平和記念像
長崎新地中華街
異国に触れる
龍馬のブーツ像
坂本龍馬の像
出島
長崎原爆資料館
山王神社
稲佐山展望台
カステラ
佐世保バーガー
平戸ザビエル記念教会
雲仙灯りの花ぼうろ2/1821時
島原
熊本
くまもん
阿蘇山火口
山鹿
天草四郎メモリアルホール
山口
フォルケホイスコーレ
広島
原爆ドーム
大阪
大阪城
3月の予定 カンボジアボランティアツアー。
今のところこれだけ予定が埋まっています。どこまで回れるかわかりません。勉強しなきゃいけない時期にこんなに出歩いて、一次試験に間に合わないのではないかとは自覚していますが、焦ってはいません。
世界遺産や、歴史に登場する場所に実際に行ってこれる時間があるのは今なのかという思いになりました。宮城にしてもそうですが、私は、自分が実際に体験してみないと何もできないところがあります。だから、行ってみようと思います。行ったら、教師になる自信が一段と上がるような気がするからです。もし行かないなら勉強のモチベーションは低いままだと思います。
先日、体験実習で小学校に行ってきました。なんと、担当は1年生。見るからに優しそうな担任の先生と一緒に教室に向かうと、小さくて、元気いっぱいの子どもたちであふれていました。教室に入ると、見知らぬ人なのに、私に大きな声で「おはようございます。」と挨拶をしてくれました。私も、負けないくらいの大きな声と笑顔で挨拶を返しました。しかし、初めのうちは、私のことを、不思議な目で見てくる子どもがほとんどです。担任の先生からの紹介を受け、自己紹介をすると、しっかりと私の目を見つめ、ニコニコしながら話を聞いてくれました。
休み時間になると、一気に私の周りに集まり、「先生何歳?」「どこから来たの?」「将来先生になるの?」と、あちらこちらから聞いてきます。私は、両腕を引っ張られ、中には、跳びついてくる子どももいました。本当に元気いっぱいで可愛いなと感じました。
元気いっぱいの子どもたちも、授業になったら、たちまち真剣になります。先生が出した問題に、一生懸命になって取り組みます。先生の発問には、「はい、はい、はーい!」と、ほとんどの子どもが、元気よく手を挙げます。指名してもらえないと、本当に残念そうにします。時間の都合上、全員に発表させられないことに、担任の先生は、優しく「ごめんね~」と一言。
そんな優しい担任の先生が育てている子どもたちは、心がとっても優しい子ばかりです。クラスの友達が色鉛筆を落としてしまったら、その周りの子は、みんなして拾う手伝いをします。
一日中、こんな素敵な子どもたちの姿を見て、やっぱり、子どもって、素直できらきらしていて、いいな~と実感しました。こんな子どもたちを育てていきたいなと心から思いました。また、こんなに素敵な子どもが育ち、まとまった学級ができているのは、担任の先生に高い教師力が備わっているからです。素晴らしい先生にご指導いただけることに感謝の気持ちを持ち、素直できらきらした子どもを育てられるような教師になっていきたいです。
こんにちは!今学年の授業ももうすぐ締めくくりの時期を迎え、本当に月日が流れるのは早いなーと実感する毎日ですね!
さて、先週の金曜日、私は地元の小学校へ体験実習に行って参りました。担当した学年は1年1組です。今までボランティア補助教員で担当させてもらった学年は3年生だったので、もちろん1年生は初めてでした。みんなとてもいい子でした!しかし、1日を終えて考えてみると、今日やってたことって「指導」というよりも面倒を見るという感覚に近いんじゃないかなと思いました。それは、もちろん私の力が及ばないせいもありますが、やはり小一プロブレムの解消がなされていないせいもあるのかなと、改めて考えさせられました。
そして、そのクラスには3人ほど強い個性を持った子がいました。2人はADHDに近く、1人はLDに近い子でした。その中の1人は年に数回、興奮して抑えが利かなくなる時があるそうで、その時のために「N君の部屋」という落ち着きスペースが設けられていました。
1クラスに3人も!この比率に私は正直驚きました。そして、同時にまだまだ何も出来ない自分の無力さに少しだけ落ち込みました。その3人のうち2人は、とにかくいつも大騒ぎして元気すぎるくらい元気なのですが、話しかければ反応はあり、なんとか言葉のキャッチボールをすることが出来ます。しかし、1人の子は話しかけても反応がないことがほとんどで、ひとつのことに集中するとそのことしか見えなくなる子でした。その日は、途中で消しゴムをなくしてしまったようで、その後はひたすら「消しゴムがない。」と言い探し続けていました。かける言葉は?効果的な接し方は?何もわかりませんでした。これから、少しずつ少しずつ色々と発見していきたいと思います!
それから、その日感じたことをもう一つ。
学校はとにかく寒い!!!!!!!!!!!!!!
これに尽きます!!!!!!!!!涙
高校は冷暖房が設置されていたし、大学はどこもそれなりに温かいので、学校は寒いという感覚を忘れていました。金曜日は1日中雪、ましてや地元は大雪で、とにかく体が芯から冷えるようなそんな寒さでした。そんな中で、さらに気温の低い廊下、午後はストーブをつけないという学校の決まり・・・・・。凍える私を横目に、子どもたちは薄着でも全然へっちゃらのようでしたが。
いつぞや誰かが言っていました。学校は、大卒が就職するにはあまりに労働環境が悪いと。はは。確かにその通り、と思った私はまだまだあまいのでしょう。頑張ります 笑
アルバイト先で知り合った他大学の友人と、おしゃれな居酒屋さんで食事をしている最中のことだ。突然お店の中が真っ暗になり、私は一体何が起きたのかとビックリしてあたりをきょろきょろと見回していた。その次の瞬間、お店のBGM がHappy Birthdayの曲に変わり、そのメロディーとともに20本のろうそくに火のついた可愛らしいケーキが、笑顔の店員さんによって目の前に運ばれてきたのだ!!その後、私が火を吹き消すとお店の電気がぱっと付き、友人や店員さんだけでなく、お店に来ていたお客さん全員から「おめでとう!」という言葉をもらったのだった。
あまりの素敵な演出に圧倒され、ただただ驚くばかりで、普段は涙もろい私であるが、嬉し涙すら出ないほどだった。これまで誕生日はケーキを食べてお祝いすればそれで十分という程度であった私にとって、20歳という人生の節目の日を想像を超える素敵な演出で祝ってもらえる私は、この日は間違いなく世界で1番の幸せものだ!と思った。
こうして最高の形でスタートした20歳!!
ただ、19歳と20歳で何か変わったことがあるのか?と考えると特別に変わったことはないように思う。特別大人になったわけでもないし、大人な扱いを受けるわけでもない。なんだか不思議な気持ちだった。
しかし、一昨日行われた成人式の日。朝4時30分に起きて着付けをし、お赤飯を食べ、近所の方々に成人おめでとう!と声をかけてもらうにつれ、その実感は急に湧いてきた。
以前知り合いの先輩方から振袖姿の写真を見せてもらう機会があった。この時、普段のジャージ姿に見慣れた私は、振袖を着てまるで知らない人のように一気に大人な女性になったのを見て、私も20歳になって振袖を着たら、先輩方のように綺麗な大人になれるのではないかと振袖に憧れを抱いていた。そして早く着たいと思うと同時に、いつか私も振袖に腕を通す日が来るのだとは思っていたが、本当に私の番が来たのだな!と。
振袖姿で考えた。新年もはじまり気持ちも新たに、今年は自分が大学生であり、社会の中では成人であるという自覚をしっかり持ち、素敵な女性になれるよう、日々何事にも全力で取り組んでいこう。ますはその1歩として、高校の部活の顧問の先生の教えで、「何でもいいから1番になれ!」という言葉を思い出した。そうだ、文章練習1発目書いてみよう。
先生のコメントを元に、前回の分を書き直ししました。まだまだうまく書けませんが、しぶとく頑張っていきますので、よろしくお願いします。
はじめまして。
2012年度から太田ゼミでお世話になるb0の田中です。
将来の夢は埼玉県で小学校教員になることです。セミナーも受ける予定です!
まだまだ未熟者ですがこれから同期の仲間たちはもちろん、先生や先輩方にもお世話になりながらより多くのことを吸収して日々学んでいけたらいいと思います。
よろしくお願いします。
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昨年最も印象的だった場面
≪自分の目で見た原爆ドーム≫
昨年の9月、高校時代の友人数人と広島旅行に出かけた。目的など特にはなく、すべてはなんとなく…から始まったこの旅行。
広島に来たのだからお好み焼きを食べよう!厳島神社にも行こう!新しい広島カープの球場見よう!そして、原爆ドームも見よう!
そんな軽い気持ちで行った原爆ドーム、原爆資料館で私は言葉を失った。
TVなどのメディアを通してしか見たことの無かった原爆ドーム、いざ目の前で自分の目で見てみると想像をはるかに超えた迫力と威厳があった。どしんと構えてこちらに何かを訴えているそのドームは私の足を何分も止めた。
私は歴史というものが教科の中で最も苦手で、そして嫌いである。そんな私にとって原爆ドームは原爆のあとに残った建物で、後世に平和を訴えるために保存されているもの、という程度の知識しかなかった。
しかし実際の原爆ドームはもっともっとたくさんのことを訴えているように見えた。
わたしは原爆ドームが訴えようとしているその”なにか”を探るべく友人たちと資料館に向かった。
そして資料館に入って片っ端から資料を追った。始めのうちは読み物やパネルなどの展示が多かったが後半に入ると現物が多く展示されていた。焼かれてはがれた皮膚や爪、当時被爆者が身に着けていた洋服や所持品などすべてリアルな現物が展示されていた。わたしは前に進むのが怖くなった。次の展示を見たくないと思った。このまま資料館から出てしまいたいと本気で思った。こんなにも苦しくて悲しくて、言葉では到底言い表せない感情が私を襲った。
でもここで逃げてはいけないと思い、ひとつひとつの展示を丁寧にゆっくりと見ていった。わたしは自分の中で知らなかった現実を知ることができて本当によかったと思っている。資料館から出るころには涙をこらえることができなかった。
その後友人たちと合流したがしばらくの間沈黙が続いた。きっと友人たちもそれぞれ感じたことがあったのだろう。
私はこの旅行で多くのことを学んだ。原爆についての学びだけでなく、もっとリアルな根幹となるものを学んだ。それは自分の目で見て自分で考えたからこそ自分のものとなったに違いない。決して教科書の知識だけでは理解できなかった部分であろう。
この旅行でよかったと思う点、それはなによりも探究心と行動力だ。あまり好きでは無かった歴史の分野であるが、心から”もっと知りたい”と思った。旅行から帰ってきて靖国神社の隣にある遊就館という博物館にひとりで出かけたり、図書館で資料を読んだことがその表れであろう。
今回の旅行から考えたこと、それはやはり学びの根底にあるのは好奇心や探究心でありたいということ。決して受動的な学習ではなくアクティブでポジティブな能動的な学びこそ、私たちを成長させてくれるに違いない。そして私自身そのような姿勢でこれからも様々なことを貪欲に学んでいきたい改めて思った。
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以上です。
添削の方お願いいたします。
こんばんは、そしてあけましておめでとうございます!
今年も無事に新年を迎えられました。たのしいこと盛り沢山の1年にしたいと思っています。
ところで、みなさん岡本太郎ってご存知ですか?「太陽の塔」や「明日への神話」という池袋駅に飾られている大きな絵などが特に有名な作品かなと思います。また、「芸術は爆発だ!」などの数々の名言でも知られている芸術家です。
前々から太郎さんに興味を持っており、その人柄にも惹かれ、冬休み中に岡本太郎美術館へ行ってきました。「明日への神話」は実際に池袋まで見に行ったこともあるのですが、今回太郎さんの作品を間近で見ることができ、その作品からも感じる情熱にとても圧倒されました。さらに、展示のしかたや建物自体も変わっており、これらに岡本太郎本人が関わっているかどうかはわかりませんが、太郎さんの考えをを継いだ、迷路のようなつくりで見る人をわくわくさせるものでした。作品を見るだけでなく、太郎さんの生い立ちや人生も知ることができたのですが、何事に対しても熱い気持ちをもっていた人なのだと感じました。自分は何を絵に表現したいのかを追求するため、フランスで勉強したり、民俗学や縄文文化を勉強したり。岡本太郎の作品ももちろんとてもすてきでしたが、それ以上に岡本太郎という人物、その生き方に感銘を受けた一日でした。
太郎さんのように情熱的な熱い人間にわたしもなりたいなあ!
気が付けば東日本大震災から約10か月が経ちました。
もうそろそろ一年が経ちますね。この一年間で私たちはいろいろなことを考えさせられましたね。
そして昨日ショックな事実を知りました。
それは震災ボランティアが激減してしまった、という新聞記事です。
社協の調べによると岩手、宮城、福島の3県でのボランティア者数が
ピーク時の10分の1に減ってしまったみたいです。
現在被災地では仮設住宅で防寒設備もままならない状況で過ごしている方も大勢います。
それに比べて自分たちは暖房全開の暖かい部屋でのんびり暮らしていると思うとなんだか申し訳ない気持ちになりました。
社協が言っているようにがれき撤去や泥だしなどの人数を要する作業が減ったためボランティアが減ってしまっているのは事実だと思うが、私たちにできることはまだまだあると思う。
春休みに入り、時間に余裕があればもう一度ボランティアに行きたいなと思いました。
いっしょに行きたいって人は教えてくださいな。
もうそろそろテストですね。
一夜漬けにならないようお互い頑張っていきましょー!!
最近、友人といざこざがあり、私は自分が思っていたよりも大人になれていなかったんだなと気がつきました。
中学生や高校生の時よりも、知識は増えた。たくさんのことを考えた。
それでもやっぱり感情の部分ではほとんど以前と変わっていなかったようです。
前にも同じような状況で、同じようないざこざがあり、とても後悔しました。それは今なお続いています。
それなのにまた同じことをしてしまったわけです。
あんなに後悔したにもかかわらず、何も変わっていなかった、変えられていなかったのだとショックでした。
しかし、1つだけ以前とは異なることがありました
それは、後悔したあと「謝る」という行動をとったこと。
以前はどうしても素直になれず未だに謝ることができていません。
それでもその子との関係は普通になったので、負い目は感じつつ仲良くしています。
でも、私の中の後悔は消えることなくその子と接するのに妙に距離をとるようになってしまいました。
今回は、上のような事態になることをわかっていたので
正直に話をして謝ろうと思ったわけです。
申し訳ない思いはやはり残りますが、それでも関係の修復はでき、むしろ相手も気持ちを話してくれ、より仲良くなれたように感じます。
全然変われておらず、大人にもなれていなかった自分に気がつき、ショックだったのと同時に
それでも以前とは何か変えようと行動した自分にも出会いました。
以前いざこざのあった友人とも、今更ではありますが、いつか話をしてわだかまりをなくせたらなと思います。
そして、あんなことがあったのに仲良くしてくれることに感謝している気持ちも、ちょっと恥ずかしいですが伝えられたらと最近改めて思いました。
人はなかなか変わらないなと実感した出来事でした。
でも自分は自分以外の人間にはなれないので、
変わらない自分自身と向き合い、受け入れ、時に変える努力もしながら
自分とつきあって生きていくしかないのだろうと思います。